フロウライト伯爵は王子静養に驚喜した。殊にその麾下であるロックウォールは伯爵の城に滞在し、自ら王子の接待に当たる、と言う気の入れよう。どことなく訝しいものを覚えはするけれど、フロウライトは失地回復にそれだけ必死だと思えば当然、という気もする。 「失礼いたします」 アンドレアスが城を出ることが確実になり、アリステアはレクランを公爵家の部屋に呼んだ。レクランもいずれ呼ばれる、とわかっていたのか落ち着いたもの。アンドレアスの側近くに仕えるようになって、年齢以上の冷静さを身につけた息子をアリステアは頼もしげに見つめた。 「申し伝えておくことがいくつかある」 はい、とうなずくレクラン。父の前に座っているのは彼一人。ここには侍女の一人もいない。それが事態の重大さを伝えているようで少し、レクランは緊張している。アンドレアスと離れていることが不安でもあった。そんな彼をアリステアはほんのりと笑う。 「お前の楯の守りは、ずいぶんと上達している。万が一のことがあればここにいてもわかるはずだろう?」 「万が一のことがあるのが、不安なのです」 「――それは、理解する」 アリステアもいまはリーンハルトに聞かせたくない話であるだけに彼と離れている。レクラン以上の神聖呪文の使い手である彼のこと、万が一の前に、察知することがアリステアには可能だ。だからといって、間に合うとは限らない。それを思えば離れたくなどない。レクランもまた同じか、と父子で顔を見合わせては苦笑した。 「ではさっさと済ませようか」 父のそんな言い分をレクランはくすりと笑う。緊張と警戒を父が見せてくれる。それがまるで一人前に扱われたようでどことなく嬉しくもなる。 その穏やかな顔が強張った。父は以前、王宮に侵入した暗殺者を使う、と言ったのだから。しかも、アンドレアスにつける、とも言う。 「父上、それは――」 「近衛の一隊をつける、と従兄上は仰せだが。表立って動くものばかりでは手抜かりがある」 「それは、理解しますが。ですが」 「ハート、と呼んでいるが、その者の素性を知るのはお前と隊長だけだ」 既定の事実だ、とアリステアは告げる。あまり権威を表に立てて息子を従わせるようなことをしない父であるだけに、レクランは否応なしに父の警戒の強さを思い知る。 「ハートには、隠れて内偵を、と言うのもおかしなものだな。普通は内偵というのは隠れてするものだ」 苦笑し、アリステアは茶を一口。侍女を入れるのを嫌い、自分で淹れた茶だった。少しでも気を紛らわせたくて配合を変えてみたが、悪くはない。のちほどリーンハルトに淹れてやろうと思う。そのようなことでも考えていなければ、不快でならなかった。 「父上のなさることに間違いはないとは思いますが――」 「そこまで買われると私も困るがな。お前の言いたいことはわかっているつもりだ。――ハートは、すでに宮廷魔導師によって下僕化の呪文をかけられている」 「……う」 レクランが顔色を変えた。正しい、とアリステアは感じる。レクランには正しい神官としての倫理観がある。だが、それでは足らないのだと、彼には知って欲しい。王子を守るためには、倫理を犠牲にしなければならない場面が間違いなく今後出てくる。そのときためらうようなことがあってはならない。 その気持ちが、レクランには手に取るよう感じられた。そのときとは王子だけの危険ではない。躊躇すれば、すなわちそれは自分の死にも繋がるのだと。父はそれこそを危惧しているのだと。青ざめたままうなずくレクランに、アリステアはまたかすかにうなずくだけ。 「……それでも僕は、アンドレアス様をお守りいたします。父上がなさっているように」 「そうして欲しいと思うよ、レクラン。勘違いしてほしくはないのだが」 「僕も生き残ります。ご心配なく」 ふっとレクランが笑った。息子の命を犠牲にしてアンドレアスを生き残らせることがあるかもしれない。が、父はそれを望んでいるわけではない。レクランはそれを理解していた。思わずアリステアの口許に微笑が浮かぶ。だからこそ、生きて帰れと。愛する息子だからこそ、危地に送り出すのはある意味では父の愛なのかもしれない。より大きな男になって戻れとの。 「あぁ、来たようだな」 すでにハートにはこちらに赴くよう伝えてある。レクランの騎士、ニコルが彼を連れてくるだろうと思っていたとおり、険しい顔をした彼が入室してきた。 「お館様」 「ご苦労。下がっていていいぞ」 「は――」 ハートは無言のままニコルの後ろで頭を下げ続けている。ニコルはレクランの騎士として、ハートの素性を知らざるを得なかった。国王父子と自らの主人父子を襲撃した暗殺者に好感など持ちようもなく、信用など微塵もしていない。それをハートにはあからさまなまでに見せつけている。が、ハート本人はそうされるのが当然であると恥じ入るばかり。これではニコルの鬱憤は溜まるばかりだろうとアリステアは内心で苦笑していた。 ハートには、そうとしかできないだけだった。強制された忠誠が彼を縛っている。盲目的にリーンハルトをまるで信仰の強さで讃えている。ハートは、そう作り変えられた。そうしたのは宮廷魔導師の魔法であっても、指示をしたのはアリステアだ。人ひとりの心を踏みにじり、奪った。たとえそれがリーンハルトを襲った相手であれ、神官としては決して許されることではない、と思う。だが、アリステアは悔いない。リーンハルト守護のためならば、死後マルサド神の叱責を受けようともかまわない。また神はそれを嘉したまうとも思う。 「閣下。お呼びにより参上いたしました」 ニコルが去ったあと、平伏せんばかりにハートが深い礼をする。ハートとしては、這いつくばりたい。だがそれではあまりにも見苦しく目立つ、とグレンに叱責され、アリステアに苦言を呈され、ハートは半ば嫌々ながら立ったまま。 父と暗殺者と。レクランは見ていた。父の顔によぎった一瞬の影。苦悩というよりは、決意のようなそれをレクランは正確に見てとったように思う。父はそこまでの覚悟をもってことに当たっているのかと、賛嘆すらしていた。ならば自分ができるのは続くことだけ、いまはまだ。ぐっとレクランが歯を食いしばる、顔つきは平静に軽く微笑んだまま。 「見知っているな? 我が子、レクランだ」 「は――」 レクランに向け、より深い礼をハートはした。あの日、気が違っていたのか自分は国王陛下と王子殿下に剣を向けたのだとハートは覚えている。血の魔術師に命ぜられたからと言って、なぜあのような暴挙を、と思うといまでも身悶えし、今すぐ死んでしまいたいほど。しかもそれをこのレクランはその場で見ていたのだと思えばなおさらに恥じ入るばかりだった。 「ハートと呼ばれていると聞きました」 「……はい」 「あなたの忠誠はいずれにありますか」 穏やかな、少年の声とは思い難い高貴さすら感じさせる声音だ、とハートは震えそうだった。こんな方を自分は襲ったのかと。レクランにここまでの物を感じるのならば、殿下はどれほど。思ってしまう。 「陛下に」 ハートは、一瞬の戸惑いもしなかった。レクランを見つめ、真っ直ぐと即答をする。無礼である態度、とは気づいていないのか、それでもそうすべきと感じたか。己の忠誠を知らせるにはそうするしかないとでも言うような必死さだった。 「ならば同じ王家の臣です」 ふ、とレクランが口許で微笑む。ハートの紅潮した頬。手指が感激に震えていた。こんな屑を同じ臣下とレクランのような高貴の方が口にしてくれる、その思いに。 ――率直に言って気分が悪い。 自分のした結果がこれではある。が、見ていて気分のいいものでは断じてない。作られた忠誠を捧げられるリーンハルトはよりいっそう強くその思いを抱くだろう。アリステアはゆえに目をそらさない。自らが作り変えた人間がここにいる。 「すでにハートにも告げたが。お前の素性は殿下をお守りする近衛の隊長とこのレクランのみが知る。――レクラン、何かがあればこの者を頼るように」 無論、アンドレアスは彼の顔を覚えているだろうし先ほどのニコルにしても。だが、それだけだ。スクレイド家中の騎士ですら多くは知らない。 「よろしく頼むよ」 「なんと……。どうぞ、何なりとお申し付けくださいませ……っ。先方のお城では、お声の届く範囲に必ずおります。姿が見えずとも、一声かけていただけば飛んで参ります。どうか……っ」 「いや、それはならぬ」 「閣下!?」 「内偵が優先だ。お前の任務はまずフロウライト伯爵が何を企んでいるか、あるいは企んではいないのかを調査することにある」 「お言葉ではありますが……」 なるほど、とアリステアは納得をする。下僕化の呪文、というものの影響を学問として知ってはいるが、魔術師ではないアリステアだ。本質的なことはわからない。ハートが何にどう反応するのかがいま一歩わかりかねていたけれど、いまので確信を持った。彼に設定された第一条件は、まず肉体の保護なのだと。 「内偵を優先いたしますと、殿下が危険にさらされることにもなり得るかと存じますが」 アリステアの言葉に逆らっている、その自覚のあるハートは震えていた。目の前にいる男は決して逆らってはならない、否、そんなことを考えてすらいけない人物だというのに。考えたくなどないというのに。 「ハート。お前の優先順位はどうなっているか」 「リーンハルト国王陛下が第一にして至上。ついでアンドレアス王子殿下」 ついで王女たち、末の王子。名を上げるたびにハートの表情が恍惚として行く。レクランはそれをじっと見ていた。これが、下僕化というものなのだと理解するために。 「そしてスクレイド公爵閣下、レクラン卿の順で――誤ってはおりませぬでしょうか」 不安そうに言葉を収めたハートだった。それにアリステアは微笑んでうなずいて見せる。途端に輝く顔。レクランは気色の悪さを顔に出さない。が、内心では吐きそうだと感じていた。これが父のしたこと。そして自分がいずれ通るだろう道の行き先。アンドレアスのため、レクランは迷わない。 「よくできた。ならば、わかるだろう。お前がすべきは陛下のための内偵だ。レクランは殿下のお側から離れることはない。いざというときにはお前を呼ぶだろう」 「……そのとき、わたくしめが間に合うとは限りませぬ。レクラン卿が」 「レクランは後回しでよい」 非情な言葉にハートは戸惑っていた。だがレクランがほんのりと微笑んでみせる。それでハートは高揚した気分に変わっていく。意気揚々と深い一礼をしては肯った。 |