フロウライトがここで王子の保護を買って出る理由はただ一つ。自らの失地回復に他ならない。ならば、その点でフロウライトは利用できなくはない、とリーンハルトは考える。 次に何かを企めば、アリステアが黙ってはいない。逆に、王子を失ってでもよい、と考えることはあり得ない。 「フロウライトが企むとして、アンドレアスが手元にある場合、何を考える」 「当然、従兄上の廃位を。そして殿下の即位を」 「だろう? ならばその意味では、アンドレアスは安全だ。フロウライトは決してアンドレアスを失えない」 王子を手元から失えば、フロウライトはその手の権力を失うも同然だ。リーンハルトを退位させる根拠と、その後の権威の正当性、すべてを失う。だから、その意味だけならば、安全ではある。 「ですが、従兄上――」 「お前が賛同できない気持ちはわかるつもりだが」 「信用するにはあまりにも恨みを買いすぎていますよ、我々は」 「信用なんぞ必要はない」 従えばよい、言い放つリーンハルトにアリステアは苦笑する。本心ではそのようなこと、微塵も考えていない王だとアリステアは知っている。それでいて、いまはそのようにも言わねばならない事態なのだと。小さな溜息にリーンハルトがすまなそうな顔をした。 「次善の策です」 「うん?」 「従兄上は、殿下をフロウライトの手に委ねるお気持ちなのでしょう?」 「そう言われると否と言いたいがな……」 そもそも息子を自分の城で守り抜くことができない、と言われるのは城主として、国王として、何より父として屈辱以外の何物でもない。ただ、一つの契機にはなるかとリーンハルトは考えている。 「従兄上。不穏なことをお考えですね?」 「まぁな。――この城で私に対する危害を加えようという輩が、フロウライトの城で遠慮をするか?」 当然にしてする必要もない。アンドレアスは王城にいるより遥かに強い危険にさらされる。それを父としては、不安に思う。だが王として、不穏分子の割り出しにはなる、と感じてもいる。そんな自分をアリステアはどう思うのだろう。ちらりと感じたリーンハルトはその思いを押し込める。 「従兄上」 ふっと伸びてきた手が、何も言わずに体を包んでくれた。思わず息をつく。アリステアの方がよほど王位に相応しい、長年思い続けているリーンハルトだった。このようなとき、強く思う。それでもこうして、不安を無言で包んでくれるアリステアがいるならば、進める。 「アンドレアスが危険になることだからな。本人に聞いてから、にはなるが」 九つの王子に何を尋ねる、廷臣は言うのだろう。が、アリステアはそれが正しいと思う。アンドレアス王子は決してただの九歳の子供ではない。リーンハルトの薫陶よろしく次代を担うに相応しい資質の片鱗をすでに見せはじめている王子だった。 「狙うのならば狙え、との心構えもあらわに近衛の一隊でもつけてやろうかと思う」 「なるほど……」 「フロウライトが何かを企む気ならば、それもするがいい。我が目に触れない確信が持てるのならばな」 無理だろう。即座に発覚する陰謀など、するだけ無駄だ。それほど疑われている、と知ったフロウライトが王子保護を撤回するならばそれもまたよし、ということになる。すなわちそれは、フロウライトの心根をも表すことになる。 「その際、近衛には伯爵家内偵を堂々と申し付ける」 「堂々と内偵とは、言葉の意味がおかしな気もしますがね」 「気にするな、意味は通るだろう?」 にやりと笑うリーンハルトにアリステアは微笑む。腕から離してその顔を覗き込めば、表情ほど明るくはない眼差し。屈託のある目をしていた。我が子すら使わねばならないのが王というものだと理解していても、情に篤い彼としては、否と言いたいだろう。我が言葉でさえ。それがわかっているから、アリステアは彼が言えないことを言い、彼がうなずけないことに返答をする。 「では、提案です。従兄上、近衛の下僕にハートを加えてください」 「……なに?」 「内偵ならば、近衛にも可能でしょう。ですが、本当の意味での内偵はできない。ハートならば、うってつけです」 元々が暗殺者であったのだから。リーンハルトも一度は考えた。が、ハートを使いたくはない、その思いが退けさせた。だからこそ口にしたアリステア。リーンハルトはしばしのあいだ黙っていた。 「……わかった」 そう言ったのは、ずいぶんと経ってからのようにアリステアは感じる。それだけ嫌悪感が強いのだろう。同感だ、とアリステアも思うけれど、アンドレアスの安全には代えられない。 アンドレアスは不機嫌だった。父上の城からお出になされませ、と廷臣たちが言ってくるたびに、笑顔を作るのが面倒になっている。 「アンドレアス様。笑顔が張りついていますよ」 「だって。仕方ないだろう!」 「お気持ちは察しますが。それでは人形のようですから」 む、と唇を尖らせるアンドレアスにレクランは微笑む。そうしてくれる友がいるからこそ、アンドレアスは平常の生活ができていると言っても過言ではない。 「逃げだしたいのならば城ではなく廷臣たちからだよ。もう嫌だよ、僕は」 「いずれはアンドレアス様の臣下ですよ」 「それが遠いことをどんなに願っているか!」 父との代替わりを、でもあり、あのような廷臣を臣下にするのは願い下げだとの言葉でもあり。レクランはほんのりと笑う。 そこに、前触れもなく国王陛下のお出ましです、と侍女が立ち騒ぐ声が聞こえた。なんだろう、と首をかしげ、それでも父に会えると嬉しそうなアンドレアスの衣装をレクランは手早く直す。着替えるほどの時間はないが、予告がなかったとはそのままでいいとのことでもある。国王が部屋に入ってきたときには、レクランは平静の顔をして壁際に控えていた。 そんな息子の姿をアリステアはリーンハルトに従いつつ眺めている。どことなく微笑を誘われた。かつてまだ幼かった自分にリーンハルトがしてくれていた様々なことを思い出す。 「父上!」 喜びにあふれたアンドレアスの声音に夢想を破られ、いかにも自分は疲れていると自覚するアリステアだった。さすがに多忙が重なり過ぎている。血の魔術師の襲撃以来、マルサドの司教まで巻き込んでの大騒ぎが続いていると言っても過言ではなく、例の蛇に至っては宮廷魔導師との会合まで加わった。 アンドレアスの日常は侍女たちが心を砕いているのだろう、できる限り平静に過ごしている様子だった。学問のこと、武術のこと、久しぶりに会えた父にアンドレアスは嬉しそうに語る。そしてアンドレアスの顔が強張った。リーンハルトがフロウライトの城での静養を提案した瞬間に。 「父上、それは……。僕がここにいてはならないのですか」 「違う。逆に、危険なことだ」 だからこそ、尋ねる気になった、ともリーンハルトは言う。それでは断りにくいだろうとアリステアは苦笑するけれど、かえってアンドレアスは父の言葉に歓喜を見せる。自分は父の役に立てるのだと。 「もちろん、父上のお役に立つのならば喜んでまいります!」 「そうか……。万が一のことがないとは言えない。まして、フロウライトは」 「わかっています。母上の、弟にあたるとか。父上とおじ上のことを、色々と申すこともあるでしょう。でも、僕は父上のことが好きです。おじ上も好きです。だから、大丈夫です」 にこりと笑う我が子にリーンハルトは言葉を失った。この子から母を奪ってしまったのは自分だ、久しぶりに強烈に感じる。一瞬だけ瞑目したリーンハルトの背後、アリステアは何をするでもなくただ立っていた。それで充分なのだ、とレクランは感嘆の思いで見つめるのみ。この二人の関係とは違う、けれど本質では同じものを王子との間に築きたい、それをレクランは強く感じていた。 「レクラン」 王子が同意し、アンドレアスは近々フロウライトの城に向かうことになった。そしてアリステアも息子を呼ぶ。返答をした彼はもう何を言われずとも理解している様子だった。 「私はアンドレアス様の近侍ですから」 「殿下をお守りせよ、と命ずるつもりだったが。必要はなかったな」 「ありません。我が身に代え我が命に代えても」 結構だ、とアリステアが微笑む。それをアンドレアスのみならず振り返ったリーンハルトまで見やってくる。 「……従弟殿」 「私が従兄上をお守りするよう、レクランは殿下をお守りする。何か不都合がありますか」 「ないが。だが――」 せめて体をいとえくらいは言ってやれ、と言わんばかりのリーンハルトの目にアリステアは微笑んだ。言っても無駄なのだと。 「私が従兄上をお守りするにあたって、この身のことを考えると思いますか?」 レクランも同じだ、とアリステアは断言する。それに王子がレクランを見た。微笑んでうなずく少し年上の友に、アンドレアスは不満顔。 「自分は男性なのだから守られるなど侮辱、とお考えになっているようですが、殿下。殿下のお立場ならば守護があるのは当然のことなのです。また守護するものはそれを誇りに思うものなのです」 だから守られることを厭うな。アリステアの言葉にアンドレアスが頬を赤らめる。自分だとて剣も少しは使えるようになったのに、そんな思いを見透かされたようで気恥ずかしかった。 「だが、レクラン。無理をするなよ。お前の父はこのように言うが、我が子を死地に送りたい親などいない」 「だが私は殿下を失ったお前が戻ってくることは望まんよ、レクラン」 「父上、誤解があるようですが。そのときには私は死んでいます。戻りようがありません」 そんな言葉をレクランは冗談まじりに笑って言った。からりと笑うアリステアだったけれど、リーンハルトはこの親にしてこの子ありか、といささか冷たい眼差し。 「父上。何も戦場に行くのではありません。僕もレクランも無事に帰って来ますから」 「そう願っているよ」 「はい!」 少し遊びに行くだけ、の形を取った内偵だとレクランには通じている。アリステアは後ほどきちんと申し伝えることがある、と息子に目顔で伝え、レクランもほんのりと笑ったまま目顔でそれにうなずいた。 |