ようやくに飛んできた宮廷魔導師は、アリステアが持つ蛇を見るなり顔色を変えた。それでもう正体は知れたようなもの。二人は顔を見合わせ溜息をつく。
「後は頼むぞ」
 魔導師に言いおいて庭園を後にする。リーンハルトとしては、訝しい思いの方が強い。ちらりと横目でアリステアを見れば、平静の顔つき。
「尋ねたいことがあるが、いいか?」
「なんです?」
「先ほどの襲撃のことだ」
 言えばアリステアは戻ってからにしましょう、と微笑む。それでリーンハルトにも見当がつく。思わず浮かんだ笑みにアリステアが渋い顔をした。
 すでに宮廷には襲撃が知れていると見え、女官たちが立ち騒いでいる。だがアリステアの普段どおりの笑い顔、平素と変わらぬ端然とした笑みの国王を見るなり静まった。
「人徳だな、従弟殿」
「従兄上がご無事だったからでしょう」
 言いながらリーンハルトの執務室で茶を飲む。本当は、いまはアリステアの茶がいい、思ったけれど女官たちの心情を思えば注文はつけかねた。ほんのりと渋いそれを口にすれば、女官の動揺具合も知れる。アリステアも同じ思いを抱いたのだろう、リーンハルトを見ては苦笑していた。
「それで。従弟殿。話の続きだ」
 執務室には当面の間、誰の入室も禁じてある。アリステアがよいと言うまで、ここには誰も入ってこられない。おかげでリーンハルトもくつろいでいた。通常ならば、自分の許可あるまで、などアリステアは断じて言わない。襲撃があったからこそ、と女官も侍従も心得ていた。
「従兄上は、何かお気にかかることが?」
 ふっと灰色の目が笑う。いまのアリステアは自分の執務机ではなく、リーンハルトの傍らに。何も襲撃で緊張にさらされた王の側に、などと言うようなものではない。リーンハルトは充分に身を守れた、とアリステアは知っている。いまはただ、側にいたいだけだった。
「例の蛇だ。あれに私を傷つけることが可能だったと、お前は思うか?」
 リーンハルトの眼差しに、アリステアはにやりとする。それにお気づきでしたか、と言うような、当然だと言うような。そんな精悍な笑み。リーンハルトは時を忘れて見惚れそうになる己を叱咤した。
「やはりな。神官殿」
「まぁ、人に言わなくてもいいことですからね。知られていなければ、それはこちらの武器になる」
「無論だ。だがな、アリステア」
 ひょいと伸びてきた手がアリステアのそれを取った。先ほどまで神剣を握っていた彼の手を。固い、これが高位の貴族の手だとは誰に言っても信じないだろう、武人の手。剣胼胝のできた指をリーンハルトはさする。
「だからといって、自らの身を危険にさらそうとするな、お前は」
「私は――」
「お前の武芸のほどは、私が誰より知っている。それは認める。だがな、危ない真似はしてほしくない、と言うのが本音でもある」
「従兄上は私にどうしていてほしいんです?」
「……そう言われると、困るな」
 ふと寄せられた眉根をアリステアは笑った。危ない真似など断じてさせない、籠の鳥になれと言われたならばアリステアは笑い飛ばすだけだろうけれど、それでも言わないリーンハルトが愛おしいと言ったならばこの従兄はどうするのだろうとは思う。
「なにが言いたい?」
「そんな顔をしていましたか」
「していた。何を考えた、アリステア」
「従兄上が愛しいな、と」
 わざわざ身をかがめ、リーンハルトの耳元に言う。誰も入ってこないとわかっている執務室の中で。さっとリーンハルトの頬に血の色。むっとしながらもアリステアを見上げてはくちづけを求めた。
「……従兄上」
 触れるだけのつもりだったくちづけは、それだけでは足らず、奥を求めた。唇を割り、絡み合う舌。堪能し、離したときには唇を繋ぐ糸が。それにまた頬を赤くするリーンハルトだった。
「なんだ」
 つい、と顔をそむけるのは信頼の証し、と言えようか。どのような態度であれ、アリステアは誤解などしないという。事実、誤解はしていなかったがアリステアはけれどしかし、笑っていた。
「アリステア!」
「可愛いな、と思っていたのですよ。それだけです。お気に障ったならば謝罪します」
「可愛い、の方が気に障ったぞ」
「それは失礼。でも従兄上だってそう言うではないですか」
「私はいいんだ」
 ふん、と鼻を鳴らしたリーンハルトの目が煌めく。昏い蒼がこんな輝きを宿すのだとは、アリステアしか知らない。テレーザも。一瞬にも満たないあいだ感じたアリステアは何事もなかったかのよう、その思いを退けた。
「誰も入ってこないからと言って、奔放にすぎますよ。お気をつけあそばせ」
「お前が仕掛けてきたんだろうが」
「さて。そうでしたか?」
 気がつきませんでしたね。アリステアは笑う。さも楽しげで、襲撃などなかったかのよう。それにリーンハルトも平静を取り戻していく。己でそう感じたことに、わずかな驚きを覚えた。
「意外と、驚いていたのだな、私は」
「従兄上?」
「いや……お前の腕は信じていたし、我が身に何の不安もなかったのだが――」
「それはそうでしょう? まさかご自分の城であのような魔術的手段で襲撃を受けるなど、普通は想像もしませんよ」
「あぁ……確かに」
 だから驚くのは当然だ、アリステアは言い切る。ただ、リーンハルトに疑ってほしくないことがあった。宮廷魔導師を疑ってほしくはない。彼らは彼らでよくやっている、とアリステアは思う。
「従兄上――」
「お前の言いたいことはわかっているよ。魔導師が手引きした、とは思っていない」
「それはよかった……」
「疑うと思っていたか?」
 思われていても不思議ではないな、とリーンハルトは言ってから苦笑する。だがアリステアは小さく微笑むだけ。
「従兄上を信じているのはもちろんですが……魔導師が裏切っていないのを私は知っていますから」
「うん?」
「私の調査がどこまで伸びているのかは、従兄上にも内緒です」
 悪戯っぽくアリステアは唇の前に指を立てて見せた。それには呆れるリーンハルトだ。よもや宮廷の人員まで、アリステアは調査をしていたのか。
 否、それで当然だと思い直す。王妃が裏切りを働いた状況で、信じられるのは互いだけ。そうしておいた方が危険は少ない。アリステアはそれをはっきりと口にしたも同然だった。
「殺伐としたものですがね。それでも信じて従兄上に万が一があってからでは遅い」
「そのときには――」
「もちろん復讐戦は行いますが。……従兄上、あなた亡きあと俺が生きていると、本気で思うんですか?」
「な――」
 そこまで真っ直ぐと言われるとはリーンハルトは思っていなかった。万が一の際には国を頼む、そう言おうとしたはずが。言葉を失うリーンハルトの金の髪にアリステアはくちづける。
「この命は従兄上を守るためにある、と我が神は仰せです。ならば、従兄上亡きあとこの身があるはずもない。ご理解いただけましたね?」
「……お前に長生きをさせたければ、精々足掻け、ということだな、それは」
「とも、言いますね。私は従兄上と幸福を楽しみたい。夏の離宮で休暇を楽しむなど、いいでしょう? 狩りにも行きましょう。楽師を招いて音楽会と洒落込んでもいい」
「そのために、我が身をいとえ、と言いたいわけか。……まったく」
「従兄上?」
「恋人の言、というよりは乳母の小言だぞ、それは」
 酷いことを言うとアリステアが笑う。その朗らかで明るい笑い声を聞いているだけで真実幸福だと思う。同時に、そう感じる自分を見ているアリステアが幸福に浸っているのを知っている。それを知ることが、幸福と言うのかもしれないともリーンハルトは思う。
「アリステア」
 ふと手を握る。指を絡め、互いの目を覗く。少し懐かしいような気がして互いに首をかしげ合う。それで、気づいた。
「そう言えば、幼いころにもこんな風にしていたな」
「今にして思うのですが確かにテレーザ殿には疑われてしかるべきであったと思いますね」
「それを言うか、お前は」
 渋い顔のリーンハルトをアリステアは笑い飛ばした。そうするだけの信頼と、時間。テレーザのことを口に出しても、リーンハルトは傷つかなくなりつつある。それを知れば彼女は深く傷つくだろうが。
 ――従兄上を裏切った女が傷つこうが、私の知ったことではない。
 内心に嘯きつつ、アリステアは目をそらしはしない。テレーザからリーンハルトを奪い取ったのは自分だ。もっとも、それをリーンハルトに言えば自分から、アリステアを奪おうとしたのがテレーザだ、と言うのだろうが。
「従兄上――」
 呼びかけて、アリステアが言葉を切る。どうした、と問うこともせずリーンハルトは彼の横顔を見ていた。彼の目は扉に。一拍間を置いて、叩かれた。
「勘がいいな、従弟殿」
「神官戦士はそのようなものですよ」
 苦笑して、アリステアが扉を開けに行く。許可なく入るな、と言っているのに呼びかけてくるとはよほどのことに違いない。その手は剣の柄にかかっていた。
「何用――っと、失礼をいたしました」
 つい、と頭を下げたアリステアの横を走り抜けるよう滑り込んだ小さな影。すでにリーンハルトも察していた。
「父上! ご無事で……よかった……」
 襲撃を耳にし、居ても立ってもいられなかったのだろうアンドレアスが執務室に駆け込んできた。その背中にはいつもどおりレクランが従っている。
「申し訳ありません。お止めしたのですが……」
「よい。陛下も殿下に会われてお喜びになっている」
「はい」
「護身呪は、上達しているようだな。レクラン」
 国王父子の対面の影、公爵父子も言葉を交わす。固い、公式の言葉ではあったけれどレクランはほんのりと頬を染めて父の期待に応えられている己を誇っていた。




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