片腕を失っているハートは、騎士団の雑用係、という体でグレンの下にいる。騎士たちとはそれなりに悶着があったらしい、とアリステアは報告を受けた。 「あれでは致し方あるまいよ」 リーンハルトもまた渋い顔。危険を排除するための下僕化の呪文の悪影響でもある。絶対的、というよりはむしろ狂信的な忠誠をリーンハルトとアリステアに抱いているハートはたとえ冗談であれ、誰かが二人のことを悪く言おうものならば剣を抜きかねない有様だ。 「まぁ、致し方ない。確かにそうですな」 長いアリステアの溜息をリーンハルトが笑った。一応は、平静を保つ必要がある二人でもある。彼らがきりきりとしていては、異変が起こっていると知らせるも同然。だから一日に一度は、こうして庭園を散策してみたりもする。 「あまり楽しくないぞ」 「同感です」 「見世物か、私は?」 文句を言うのは、よほど不愉快なのだろう。当然かもしれない、とアリステアも思う。いかに伴侶が傍らにある、とはいえ人目を気にしての散策が楽しいはずもない。 「……まぁ、お前がいてくれるのは、嬉しいのだがな」 そんなことをぼそりと言うリーンハルトではあるのだけれど。思わずくすりとアリステアは笑いを漏らす。半歩下がった彼をリーンハルトはわざわざ首を振り向けては笑った。 「従弟殿。聞きたいことがあるのだが、いいかね?」 そのような物言いをする時、決まって無理難題を言ってくるリーンハルトだ。アリステアとしては覚悟は決めた、というところ。なんですか、と目顔で問えば皮肉げな笑み。 「いつも思っていたのだが。なぜ従弟殿はそうやって半歩下がっておいでだね?」 ふん、と鼻で笑うリーンハルトにアリステアは返す言葉がない。色々と言い訳はある。だが、彼は聞く耳持たないだろうと思えばこそ。 「寵臣、と公表したときには違ったようにも思うのだが。私の勘違いかな?」 「従兄上――」 「気にするようなことか、それは?」 「気にすべきことでしょうが」 「いいから並べ。話がしにくい」 むっとしたリーンハルトに促され、アリステアはようやく彼に並ぶ。確かにいまのアリステアの立場ならば、並んでなんの不思議もない。王が寵姫の肩を抱く姿など、特に珍しいものでもないことを思えば。 「色々と言われますよ」 「放っておけ」 「そうもいかないでしょうが」 逆にアリステアだからこそ、言われる。アリステアがなんの地位身分も持たない女性であったのならば。ここまで悪くは言われない。下賤のなんのとは言われるだろうが。だが王を籠絡したのと口にするもおぞましいことは言われはしない。 「元々お前は一緒に歩いていただろうが」 「一歩下がってね」 「それは――」 「従兄上は、国王陛下なのですよ。私は陛下の臣下にすぎません」 きっぱりとアリステアは言う。それが微笑みとともでなければ、リーンハルトは傷ついたかもしれない。アリステアの真意は、わかっている。それでも、ときにはただの幼い二人であったころに戻りたくもなる。 「人目のないどこか、というものに憧れるものだな、こんなときには」 「アンドレアス王子ご成長のみぎりには、そう致しましょうか」 「なに? ……それは、よい夢だな。素晴らしい」 ふっとリーンハルトの目が輝く。昏い蒼が煌めくのを見るのはアリステアの喜び。叶わない夢だと、双方が知っている。いくらなんでも退位したのちに隠れ住むなど無理などというものではない。それでも。 「アリステア――」 何かを言おうとしたリーンハルトの声が留まる。彼のせいではない、アリステアの。瞬時に変化したアリステアの気配。何事だ、と思う間もなくアリステアは剣を抜く。切り伏せた何か。リーンハルトもまた剣を抜きつつ、それを見やった。そこまでが互いに一動作。鍛錬とは無縁の貴族たちには手の動きなど見えなかっただろう。 「……蛇?」 頭上から落ちてきたのは、蛇に違いはない。だがしかし、王宮の庭園に蛇が出るものか。庭師が日々周回してそのようなものは取り除いているはずの庭園に。 「な――」 さらにまた一匹。アリステアが切ったとき、最初の一匹にリーンハルトはなぜか視線が向いた。それに目を見開く。蛇が、溶けていた。とろとろと、血溜まりになっていく、形も残さずに。 「従兄上!」 アリステアの片腕が伸びてきては、リーンハルトは彼の背中に庇われた。紛れもない異変だった、これは。そのままリーンハルトも剣を振る。だがしかし。 「アリステア!」 「従兄上はそのままでいてください」 「しかし」 「逃げまわれ、とは言いません。おとなしくしていてください」 首だけ振り向けたアリステアの口許の微笑。精悍な灰色の目。けれど眼差しには警戒が。リーンハルトの剣は、蛇を通り抜けていた。まるで幻でも切ったかのよう、抵抗がなく、蛇も健在。しかも徐々に蛇は増えている。 「なんだこれは!?」 アリステアの集中を乱したくはなかったが、リーンハルトはつい叫びを上げた。周囲を蛇が囲みはじめている。アリステアの剣もいつまで。 「ご心配なく」 ふっと笑ったアリステアは、何匹もまとめて切り捨てて行く。繰り返せば、少しずつでも数は減る。その程度のことで疲労するような鍛錬は積んでいない。 そうしつつ、アリステアは蛇を見ていた。生きた蛇でないのは歴然としている。魔法の産物、と言ったところだろう。この場に宮廷魔導師がいないのが悔やまれる。が、いずれ異変を察知して飛んでくることは疑いない。ならば自分はそれまで持たせればいいだけのことだ。リーンハルト一人を守るくらいならばいかようにでもできる。 だが、宮廷魔導師が察知するより遥かに速く、アリステアは蛇を片づけた。それほどの腕の冴え。リーンハルトは彼の背中でアリステアの武芸を堪能していた。 「なんなんだ、これは」 むつりとした口調なのは否めない。いかにアリステアの素晴らしさを堪能したとはいえ、己が狙われたことは紛れもない。それで機嫌よくいられるほどリーンハルトは人間ができていない。 「さて――」 アリステアが苦笑して、まだびくびくと動いている蛇に近づこうとした。その前に、とリーンハルトを振り返ってはその額の金髪をかき上げ、軽くくちづけをする。 ほんのりと喜びが込み上げてくるリーンハルトでもあった。アリステアもまた、目にだけ同じ色を浮かべて蛇へと向かう。ちょうどそのときだった、ロックウォール子爵が駆けつけたのは。 「陛下!?」 しかもその目は先ほどのアリステアのくちづけを目撃した、と憤怒に染まってもいる。ロックウォールには、アリステアが何をしたのか理解ができないのだろう。否、逆の理解をしているのだろう。 「従弟殿が高位の神官であるとは、知らぬはずもない事実と思っていたが」 冷ややかな王の眼差しにロックウォールはかすかに怯む。だからといって引く気もなかった。国王ともあろう方が、そんな眼差しのままリーンハルトの前に進み出る。 「かくも不埒な振る舞いをお許しになるとは、陛下は――!」 「私が、なんだと?」 はっとロックウォールは口をつぐんだ。自らの失言を悟ったのだろう。ふとアリステアはそれを背後に聞きつつ違和感だけは覚えた。ロックウォールとは、どんな男だったのか。 否、このような男であったのならば、疾うに話が聞こえていたはず。だが最近まで、この激烈な性格の表出を聞いたためしがない。訝しいことではあった。 何はともあれ、いまは蛇だった。ロックウォールが何かを仕掛けてきたとしてもかまわない、アリステアは。いまは少し離れた場所にいるリーンハルトに、自分の剣は届かない。だがリーンハルトは、アリステアを負かせることができるただ一人の男でもある。ロックウォールが剣の達人であるとは聞かない。ならばそちらは問題ない。 ――まったくもって、人間相手ならば何の不安もないものを。 この蛇からしてそうだった。血になった、と言うべきなのか、血に戻ったと言うべきなのか。どろりとした液体になっていく蛇の一つをアリステアは取り上げる。 「従弟殿」 リーンハルトの険しい声音。そのようなものを手にして大丈夫なのか、言葉の裏側で案じてくれた。それに目顔で返答をするのは、口中で詠唱中のせい。それもロックウォールには通じなかった。寵臣の不敬な態度、と映ったらしい。一々取り合うのも面倒でリーンハルトは放置した。 「ほう?」 「魔導師に見せるためにも、溶けられては困りますので」 「放っておくと溶けるのか、それは」 「そのように推察いたします」 ロックウォールが今更だ、そんな顔をしていた。だが彼がいるからではない。平素から、他者が一人でもいる場合の彼らはこのようにして話している。取り繕っているつもりは毛頭ない。 「従弟殿の考えはいかに」 「憶測は控えるべきかと存じます」 「なにを、公爵閣下。そのようなもの、憶測など申すもない。噂の魔術師の仕業に決まっておりましょうが!」 「それを、憶測、と言うのだ。何者かがそれを装った場合にはいかがいたす」 アリステアがロックウォールを見やったその射抜くような眼差し。アリステアは見ていただけだ。それでも気圧されたかのロックウォール。ゆっくりと深い息を吸い、口の中で何かを呟く。 「あれは謝罪だったと思うかね、従弟殿」 もごもごと何かを言いながら一礼して去って行ったロックウォールがさすがに不可解だ。リーンハルトは肩をすくめてアリステアを見やる。 「私には悪態に聞こえましたがね」 同感だ、リーンハルトはもう一度肩をすくめた。好感を持っていない相手が何をしでかしたとしても驚かない。二人にして、それは油断であったのかもしれない。あとのことを思えば。 |