そんな二人の休息の時間に宮廷魔導師がやってきた。あの海上修道院での調査を共にしたダトゥムはこうして二人の用を務めることが多くなっている。アリステアはにやりとして報告を促した。
「どうだ?」
 リーンハルトは事情がわからず軽く首をかしげていて、それに魔導師が少しばかり驚いた顔をした。アリステアとしては使い物になるかどうかもわからないものを報告する気になれなかっただけのこと。
「問題はないかと存じます」
「具体的には」
「我が支配下にあり、条件付け他も完了いたしました」
「待て。なんの話だ」
 さすがに黙っていられなかったリーンハルトの険しい声音。だが緊迫感は薄い。アリステアへの信頼がそうさせていた。
「件の暗殺者ですよ、地下牢に放り込んでおいたあの者の話です」
「それがなんだと言うのだ?」
 眉根を寄せた王に報告を、とアリステアが無言で魔導師に示唆する。それに魔導師は一礼し、話しはじめた。聞くにつれ、あまり心躍ることではない、リーンハルトは顔を顰める。が、確かに有効ではある。
「我が支配下にあるとはいえ、条件付けとしては陛下と閣下への忠誠を刷り込んでありますので」
 反逆の目はない、とダトゥムは言い切った。そのようなことは考えられもしない、そのような呪文なのだと。倫理には反する。けれどこの際には手段を選んではいられない予感があった、リーンハルトにも。
「わかった」
「では――」
 一旦頭を下げたダトゥムが退出する。その間に、とアリステアを睨めば素知らぬ顔をされた。
「従弟殿。説明していただこうか」
「たいした話でもないのですが。真正面からばかりでは埒が明かない事態になりかねない、それはおわかりでしょう?」
「……あぁ」
「そのために、ちょうどよく手に入ったものを利用する。それだけのことです。もっとも、あの者は片腕を失っている。そうたいした働きは期待できないかもしれませんが」
 それでも、隠密行動に長け、闇から闇に忍んで情報を得るくらいのことはできるだろう、アリステアは言い放つ。それだけのことを決心させたのは、ひとえにウィリアに尽きる。
 ――あの女は。死んでも祟ってくれるわ。
 何かをして死んだのか、そう思わせて混乱すればよしとして死んだのか。それすらわからず翻弄されている。忌々しいことこの上ない。
「アリステア」
 むつりと口を引き結んだままだったアリステアをリーンハルトは引き寄せた。視線を向ければ、小さく微笑んだリーンハルト。そのまま触れるだけのくちづけをくれた。思わず目を瞬いてしまう。
「なんだ?」
「妙に可愛らしいくちづけをくださったものだ、と思いまして」
「本格的なのをするわけにもいかんだろうが? 戻ってきた魔導師殿が目を剥くことになりかねん。そもそも我が評判にかかわるぞ」
 くすりと笑うリーンハルトだった。そうして冗談にして、気持ちを軽くしてくれた彼にアリステアは微笑む。お返しに、とばかり軽いくちづけを返した。ふっとリーンハルトの目が和み、何かを言いかけたときにダトゥムが戻る。それには二人して声を上げて笑った。
 そんな王と公爵の姿に魔導師は一瞬だけ驚いた顔をする。けれどすぐさまほんのりと微笑んだ。その彼が伴っていた男。右腕のない、削いだような頬と燃える目をした件の暗殺者。
「今は、ハート、と呼んでおります」
 態度を改めた二人にダトゥムが男を引き合わせる。暗殺者であったハートは、真っ直ぐと二人を見上げたままその場に片膝をついた。
「ご存分に」
「ほう?」
「この生命、忠誠。我が持てるすべては陛下と公爵閣下のもの」
 魔導師の言ったとおりだった。アリステアに支配され、怯え騒ぐ男はもう影もない。名を変え、新たに生まれ変わったかのような、それはある意味では狂信者の誕生。
「では尋ねる。お前を我が下に送り込んだは、誰だ」
 確かめるつもりだったのかもしれない、リーンハルトは。暗殺者にとっての禁忌とも言える質問を放つことで。だがハートは王を見上げたまま答えを口にした。
「雇い主であった貴族のことはご存じのはず。直接に命じたのはドゥヴォワール・サクレなる魔術師です。ウィリア様を殺害した血の魔術師、と申せばよろしいでしょうか」
「……なに?」
「どうやら事実のようです。こちらで確認いたしました」
 魔導師としてはまず一番にそこを確かめたのだろう。そして結果が出てしまった。この謁見はそのためのものでもある、ダトゥムは言う。
「それをまず言わんか」
 軽い頭痛をこらえるようなアリステアの声音。もっとも魔術師とは不可解にして浮世離れの過ぎる者ら。この程度のことは致し方ない、と諦めた方が話が早い。ダトゥムも失礼いたしました、と一礼するだけだった。
「ただ、疑義がございます。我らは自らの名を師によって与えられます。そして独立を許されれば、その師の名を負うもの」
 ドゥヴォワール・サクレとはいかにもおかしい、魔導師は眉を顰める。師の名を合わせたにしては出来過ぎで、ゆえに偽名であろうと。
「聖なる務めがあるのだと名乗っているわけか。なるほど。出来過ぎの感は確かにある」
「偶然の可能性は否定はできませぬ。が、いわば偽名と申して問題はないかと」
「結構。いずれ本名だろうが偽名だろうが、本人がどこにいるのかもわからないままではどうにもならん」
 そもそも潜伏中にその名を使っているかもわからない、というより使っていないと見るべきだろう。ならばその真偽を問うても意味がない。ただ、それをハートが口にした、ということのみ、意味があった。
「他には何を知る」
「は――。処刑されたと聞き及びまする元アントラル大公は、血の魔術師をご存じでした」
「既に報告を受けている。他は」
「ドゥヴォワールは、変装、と申していいのでしょうか。姿を変えてウィリア様の下を訪れた、と聞き及びます」
「……なに?」
「詳細は存じません。暗闇で、何者もいないというのに誰かと言葉を交わしていた魔術師でした」
 自分はそれに聞き耳を立てていただけだ、と。話せることの少なさにハートは羞恥を覚えて顔を伏せ、そして再び歓喜と共に上げた。
「更に申し上げるならば、私が送り込まれたことを、フロウライト伯爵はご存じであったはず、と推察いたします」
 リーンハルトの気配が固くなった。これは前伯爵のことに違いないが、それにしても、と思う。隣でゆったりとした呼吸を保っているアリステアがいなければ、舌打ちの一つでもしていたかもしれない。
「娘が北の塔に収監されて、腹でも立てたか」
「伯爵の心情はわかりかねます。ですが、魔術師が暗殺者を――私のことですが、送り込む、と伯爵に話していたのを聞いておりました」
「なるほど。状況証拠的には真っ黒、と言うやつだな」
 ふん、とアリステアが笑った。ハートはいまだ真っ直ぐと二人を見上げているのみ。彼の背後に立つ魔導師は、そんなハートを観察していた。間違いなく下僕化の呪文下にあると確認するように。
「ちなみに、ドゥヴォワールの現在の居場所は、お前にもわからんか?」
「……はい。死んでお詫びがかないますことならばいかようにも」
「ここで死なれるのは迷惑だ。結構」
「は――」
 詫びるを許さん、そう聞こえたのかもしれない。途端にハートの眼差しが曇る。なるほど、確かに操られているとはいえ、その全身全霊を捧げられているらしいとはリーンハルトも思った。あまり気分のよいものではないが。アリステアの言いぶりはそれを表したものなのだろう。
「念のために申し付けておく」
 アリステアが言うなり、再び顔を上げたハート。命令されることに喜びを覚えるようになっている様子だった。リーンハルトの目顔の問いに、魔導師はかすかにうなずく。
 ――まったくもって気分の悪い。
 このように人間の精神を操るなど、率直に言えば血の魔術師と何が違う、と言いたい気持ちは多分にある。だが、万が一の際にはラクルーサを守る一手になりかねない。それだけ現状は不穏だ。ラクルーサはアントラル大公の内乱を経てウィリアの殺害と、正に累卵の危うきにある。それを自覚しないリーンハルトでもない。
 ――綺麗ごとを言って国を潰すわけにもいかん、か。
 もしアリステアが王位にあったのならばどうするのだろう。ふとそんなことを思う。いまと同じことをするのだろう、そう思ったことで覚悟が決まったようなもの。リーンハルトの口許にかすかな微笑が浮かんだ。それにハートがアリステアの言葉を待ちながらも歓喜を浮かべる。
「お前の忠誠は誰に捧げられているのか」
「陛下と閣下にございます」
 一切の遅滞のない返答だった。真っ直ぐすぎていっそ気持ちが悪いほどの。アリステアもまた、淡々とハートを見下ろす。
「間違いを教えてつかわす。銘と刻んで覚えおけ。お前の忠誠の第一にして至上はリーンハルト国王陛下だ。万が一にも私と陛下を比べて私を選ぶなどということがあってはならない」
「閣下が危難にさらされた場合には、いかがいたせばよろしいのですか」
「まず陛下の安全を確保することが第一だ。私はすべてが終わったあと、手が余ればそのときでよい」
「……は」
「不満か」
「とんでもないことにございます! 我が忠誠をどうかお容れいただきたく……!」
「どうしますか、従兄上」
「要らぬと言ったら?」
「処分いたします」
 そのようなことを眼前で言われてもハートは顔色一つ変えなかった。自らなどその程度の人間と決めてかかっているかのよう。内心でついたリーンハルトの溜息が聞こえる気がしたアリステアだが、ここは譲れなかった。
「わかった。容れよう。よく尽くせ」
「ありがたき幸せ……っ」
 平伏し、涙にくれるハートをアリステアは冷ややかに見下ろしていた。そのまま靴を舐めろ、と言えばハートは舐める。それも喜んで。それがわかるぶん、アリステアとしても気分がよろしかろうはずはない。
「ハート」
 呼ばれれば、顔中を涙で汚したまま、すぐさま顔を上げた。そのさまは誇りを失くした犬のよう。アリステアは無言で手を差し出す。それに戸惑うハートをアリステアは手を貸して立たせた。
「当面は我が騎士のグレンにつける。ダトゥム、頼んでよいかな」
「お任せくださいませ」
「では。――ハート」
「はっ」
 アリステアに立たせてもらった。その手に触れた、その喜びではちきれんばかりになっている彼だった。そこに追い打ちのよう、アリステアは微笑みかける。
「よく尽くせよ」
 失神しかねんばかりに打ち震えるハートを魔導師が連れて退出した。




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