元アントラル大公が雇った血の魔術師の存在がある。万が一を想定し、ヨハンの処刑時にはマルサドの司教が立ち会った。神の許しを与えようなどという心持ちからではない。死んだ瞬間、強制的に神の下に送る、死霊化が考えられる罪人に対する、最も不名誉な死の儀式だった。 「おかげで、それは考えなくてよいがな」 マルサドの司教の神聖魔法ならば、何の不安もない。ヨハンの信仰がどのようなものであれ、あの男は神の裁きの庭にいる。それだけは間違いのない事実としてリーンハルトを安堵させた。 「この上、死霊まで来られたのではさすがにやっていられないぞ、私は」 文句を言いながら書類を片づけていた。そうするだけ、リーンハルトは回復している。数日というもの、無言で仕事をしていた彼を思えば。 「そう言えばアリステア」 「なんです」 「アントラル領のことだが」 アントラル大公、と呼ばれ敬われていても、実際の領地は小さく少ない。それを言わば養っていたのがスクレイド公爵アリステアだ。アリステアにとってはその恩を仇で返されたようなものだったが、養われていた身には言い分が他にもあるだろうとは思う。 「領地がどうかしましたか?」 当主を失うのみならず、アントラル大公家そのものが族滅した。すでにアントラルを名乗るものは存在を許されていない。生きるを許されたのは、名を変え、別の一族に嫁した女性か、修道院で暮らすか、そのようなものばかり。一族すべてが、ラクルーサから消された。 その弊害はもちろんある。何を言おうが、アントラルは古の名家であった。それを滅するのだから、国内貴族の反発も相当に激しかった。もっとも、それはウィリア殺害にかかわったと判断されたことでほぼ消えたが。 問題だったのは、小さいとはいえ領地の方だ。遠縁などに任せれば、次のアントラルが生まれる。しかも今度は王家に対する恨みをもって。リーンハルトに取れる手段は多くはない。 「お前に任せたいと思うが。かまわんか」 「お断りいたします」 「アリステア?」 あまりにもきっぱりとした声音で、リーンハルトは瞬く。彼の背後に立つ侍従がどぎまぎとしたほど、アリステアの声は決然としていた。 「王にはご賢察のことと存じますが――」 「従弟殿。端的に言え。時間はあるようでない」 「では」 にっとアリステアが唇で笑う。それにほっと息をつくのはリーンハルトではなく侍従の方。それにはリーンハルトも苦笑するしかない。 何かが、間違っているのだろうとリーンハルトはすでに察していた。アリステアがこのような態度を取るときは、王としてあるべきではないことを口にしている。それをリーンハルトは疑っていない。 「陛下は我が領内にあったものなのだから私に任せる、とのおつもりでしょうが」 そのとおり、とリーンハルトはうなずいていた。スクレイド公爵領内に、大公領地がある、という一種異常な状況だったのだ。ここは改めてもよいだろうと彼は思う。そもそも領地経営がうまく行っておらず、スクレイド公爵家が大公家の費えを賄っていたのだから。実状に名分を与えるだけのこと。だが。 「従兄上。私は何者ですか?」 少しばかり悪戯っぽいアリステアの言葉。リーンハルトは首をかしげる。人前で言うようなことか、との思いが顔に出て、アリステアを苦笑させた。 「従兄上のお心はかたじけなく。ですが、そのお心に付け込んだ、と言われるのが落ちですよ」 「な――!」 「言われないと、お思いですか?」 スクレイド公爵が王を操って領地を増やした。実際は増えてはいないし、元大公領地の荒れ具合を考えるに、アリステアの負担が増えるだけ、とは貴族は決して思わない。 「……少々ぼんやりしていたようだ、私は」 「お目覚めあそばせ、従兄上」 「あぁ、覚醒した。なるほど、では領地は我が直轄領としよう。それでいいな?」 「ご英断と存じます」 つい、と頭を下げたアリステアに侍従の笑み。これをまた侍従は召し使う者同士の雑談で言ってまわるのだろうとリーンハルトは思う。噂話は禁じようがないし、これは言ってもらった方がいいことでもある、そう考えて気にすることをやめた。 「さて、次の案件だがな――」 長いリーンハルトの溜息。侍従が差し出した書類に目を通す。そこには不愉快なことが記してあった。とはいえ、先送りにはできないことが。 数日後、フロウライト伯爵が子息と家中のロックウォール子爵を伴って王の謁見を賜った。伯爵の子息は、北の塔に収監中のテレーザの弟に当たる。癇の強そうな、気位だけで生きているような青年の顔をリーンハルトは冷ややかに見ていた。 「陛下におかれましては――」 震える伯爵の声。否、すでに爵位を子息に譲った元伯爵、というべきか。リーンハルトはアリステアにだけ渋々と許す、そう言った。いっそフロウライトも叩き潰したい思いはあったのだと言いつつ。アントラルに続いて元王妃の生家まで取り潰したとなれば何が起こるか予想もつかない。やりはしないだろうと思いつつ、内心では必死に止めたアリステアだった。 そのアリステアもまた、謁見の場には同席している。暗殺未遂を彼は忘れていない。おそらくは王宮の誰もが忘れてはいない。それでいて、リーンハルトの傍らにアリステアがあるのを嫌う勢力は確実に存在する。いまのロックウォールもそうだった。 「フロウライト伯爵位を認める。フランツ・イェーガー。よく励め」 王の認可で、はじめてここで新伯爵が誕生した。苛立ちと誇りとを同時に浮かべたフランツは、優雅を気取って頭を下げる。そんな子息を父がはらはらと見やっていたけれど、彼には父は王に譲り過ぎだ、との思いがあった。何をびくびくとしているのか、父を詰りたいフランツの、ロックウォール子爵はよき理解者でもある。 リーンハルトはフロウライト新伯爵を重んずる気はない、との確かな表明として、謁見を早々に切り上げた。それをロックウォール子爵アーチボルト・レイブンズが見やっていた気がして、アリステアは心に留める。 「いかがした?」 さっさと下がって執務の続きを、と急ぐリーンハルトにアリステアは苦笑する。少し庭を散策しましょう、と誘った。 「アリステア」 「仕事に精を出し過ぎてもよいことはありませんよ、従兄上」 「怠けていてもよいことはないぞ」 「根を詰めすぎるから、私に指摘を許すようなことになるのです」 アントラル領のことを言われては顔を顰めざるを得ないリーンハルトだった。いまにして思えば、そこに気づかなかったとは自分は何を考えていたのかと我ながら呆れるほど。 ――補佐してくれる男がいるのも善し悪しだな。 こうしてアリステアが万が一の際にはたしなめてくれる、その気の緩みがさせたこと、とも思う。それが少し、面映ゆいような気がした。 まだ冬の最中にある庭は、歩いても花など咲いてはいない。木々の緑もほとんどない。そのぶん、庭師が丹精込めて育てている木の枝ぶりがいっそう美しいようにアリステアは思う。 ほんのしばしの休息だった。リーンハルトにとっても、アリステアにとっても。王から半歩下がり、共に歩む公爵の姿を遠目に貴族たちが見ている。好意的であったり、攻撃的であったりと様々だ。 「いっそあからさまなものは可愛らしいのですがね」 「うん?」 「私を嫌う、とはっきり表明してくれる方が気が休まりますよ」 陰でこそこそされるのは神経に障る。アリステアは肩をすくめた。血の魔術師は、ウィリアは何を企図していたのか。闇の中でなされる事件が多すぎる。 「少し、悔やまれるな」 「従兄上?」 「人目があると、腕も組めん」 その言にはアリステアも吹き出さずにはいられなかった。その中でほんのかすかに思う。もしここに立つのが王の寵姫であったならば、王がその肩を抱こうが少々他聞を憚る振る舞いに及ぼうが、貴族は何を言うこともないだろうに、とは。 「アリステア。何を考えている」 「いえ……ロックウォール子爵でしたか」 「レイブンズか。嫌な目をした男だとは思うが」 「そうはっきりと仰せにならないように。――何か、気になる目をしていました」 「ほう?」 どういう意味だ、とリーンハルトの眼差しが問う。色めいたものでは断じてないのがありがたいような、物足りないような。 「確か、以前見かけたことがあるように思うのですが……」 ないはずがない。あれでも元王妃の生家の一族で、伯爵の補佐をも務める子爵だ。何度も王宮に伺候している。ただ、アリステアには違和感があった。何か、まるで別人になったかのような、と言えばいいのか。否、それ以上の敵意とでも言おうか。 首をかしげるアリステアをリーンハルトはほんのりと笑っていた。しばしの散策。それでずいぶんと気持ちが明るくなったことに感謝をしつつ。 アリステアの疑問には女官が答えをくれた。あまりレイブンズは評判がよくないらしい。殊に彼女たちには。 「申すもはばかりますことながら、殿下にはお気をつけあそばしませ、と申し上げねばなりませぬ」 「だからな、女官長――」 「それだけ真面目な話にございます。殿下」 リーンハルトの執務室に向かう途中で女官長に呼び止められた。すでに扉は見えている。アリステアがそれだけは譲らなかった。本当ならば一瞬たりともリーンハルトから目を離したくないと女官長もまた知り抜いている。 「ロックウォール子爵のことにございますが」 女官長は言う。彼は生粋のラクルーサ貴族であることを誇っているのだと。シャルマーク系からの血は一滴も入っていない、それが誇りらしい。ラクルーサ至上主義者、とでもいう男なのだと。 「それはそれで、まぁ。咎めるべきことでもない」 視野が狭いのは問題だが、かといってたかが子爵だ、アリステアからしてみれば。それに女官長は首を振る。 「ここだけの話にございますが。――あの方は、大の同性愛者嫌いにございます。影で口にするもはばかることを申しているとか」 リーンハルトについてか。アリステアの目顔の問いに女官長は無言でうなずく。彼女に限っていらぬ風聞など口にするはずはなかった。 |