ヨハンは、血の魔術師がウィリアに何をしたかを知らなかった。ウィリアが、何を企図したものかも、知らなかった。これでは生かしておく価値もない。
「では、死んでもらおう。ウィリア殿殺害の罪も加えてな」
 淡々としたリーンハルトの言葉だった。いままで生かしておいたからこそ、ウィリアが死んだ可能性が、現時点では否定ができなくなった。ヨハンが生きていようが死んでいようが、魔術師は動いたかもしれない。が、ヨハンが生きていたから動いた可能性がある以上、リーンハルトは苦々しい。
「従兄上」
 悲鳴が上がり続けていた。地下牢にいる意味はすでにない。リーンハルトの背を軽く押すようにして、アリステアはその場を後にしようと促す。
「後は頼むぞ」
 本来ならば、これはリーンハルトが言うべきこと。だがこの場にいるのは侍従と宮廷魔導師。いずれもリーンハルトには好意的な人間であるのが幸いしている。アリステアの僭越を見逃してくれることだろう。
 は、と頭を下げる彼らに送られ、二人は地下牢を出て行った。唇を引き締めたままのリーンハルトが案ぜられてならない。だが、人目があるうちは、何を言うこともできない。従弟であろうとも、寵臣であろうとも。
「従兄上。少しお飲みになって」
 執務室に戻り、アリステアは強い蒸留酒を小さな酒杯に注いで渡した。先だっては、リーンハルトが自分に入れてくれたもの。そう思えばどことなく苦笑が浮かぶ。
「……あぁ」
 くい、と喉の奥に放り込むような飲み方を、平素のリーンハルトならばしない。それだけ、苛立っているのだろう。あるいは後悔か。
「従兄上。何を考えておいでですか」
「……わかっているだろう」
「だいたいは。従兄上のせいではないと思いますがね」
 肩をすくめ、アリステアは改めて茶を淹れる。女官を呼んでもよかったが、いまは他人を入れない方がいいだろうとの判断だった。気安く茶の支度までする公爵、とは珍しい。はじめてリーンハルトがそれに気づいたか、小さな笑みを浮かべた。
「器用なものだ」
「慣れましたよ」
「……ほう?」
「戦場にいると、なんでも自分でするものなんですよ、従兄上」
 神官戦士として、アリステアは各地の戦場に立っている。王宮にいるだけのリーンハルトとはそこが違った。もっとも、王自らが出陣するなど、異常事態ではあったが。それをさせないために、臣下が働いているとも言う。
「どうぞ。お気に召すといいのですが」
「お前が淹れてくれたのならば気に入るに決まっているとも。私の可愛い従弟殿」
「よしてください。恥ずかしい」
 ぷい、と顔をそむけて見せたアリステアだったけれど、どうやら本気で照れているらしい。耳の先がほんのりと赤くなっていた。それに微笑んで、常態に復したリーンハルトだった。
「私がヨハンをさっさと処断していれば、お前の母君は死ななかったかと思うとな――」
「はぁ? 従兄上。何を言っておいでです」
「お前は――。わかっていると言ったではないか」
 驚いてアリステアを見やった。目を丸くして、本気で呆れているアリステアがそこにいる。すぐ側にやってきては、椅子の腕に軽く腰を下ろすという無頼じみた姿でアリステアはリーンハルトを覗き込む。
「従兄上は、国のことを考えて後悔なさっているんだとばかり、思ってましたよ」
 昏い蒼の目が、それはそれで嘘ではない、と言っている。だがしかし、とも。それをアリステアは笑い飛ばしていた。リーンハルトがむっとするほど大らかに。
「俺の母親? そんなものはおりません。従兄上だって、ウィリア殿と俺が不仲なのは、ご存じでしょうに」
「……知らんでもないが」
 それとこれとは違うだろうとリーンハルトは思う。いくら何を言おうとも、母が死んだ。その思いがアリステアにあったとしても、当然だろうと思う。
「元々不仲な母と息子でしたよ。おまけに、ウィリア殿は従兄上に反旗を翻した。許す理由も容赦する理由もない。率直な言葉を聞きますか?」
「……聞かせろ」
「では」
 覗き込んだまま、アリステアは微笑んだ。金の髪を手指で梳かれ、リーンハルトは少しずつ気持ちが静まって行くのを感じてはいる。けれどまだ。そんな彼にアリステアは微笑み直す。
「殺しておくのだったと、思っていますよ。俺はね。個人的にならば、殺しておきたかった。国のことを考えたらできないから、放っておいた。修道院に放り込んだ直後に乗り込んで殺っておけばよかった、と後悔してますが」
「アリステア!」
「率直な話だと言ったじゃないですか」
「だがな、お前――」
「俺が実行するぶんには、問題が少なかったはずですよ」
「少ないはずがあるか。何をどう言おうが、母を殺した男、と言われるに決まっている!」
「言われるでしょうね。ですが、それだけです」
 いまこうして起こる問題より少なかったのではないか。アリステアは無言で示唆する。リーンハルトは断じて納得しなかった。
「お前が私のためにそう言うのならばな、アリステア。私はお前のために、それを拒否する。間違っているか」
「ですが――」
「お前の手を汚すくらいならば私がするよ、可愛いアリステア」
「……それ、やめていただけませんかね。私が可愛らしく見えているとしたら従兄上はどこかがおかしい」
「さて、恋の病とはそのようなものらしいがな。――茶をもう一杯所望できるかな、従弟殿。大変おいしくいただいたよ」
 さらりと言ってリーンハルトは立ち上がる。呆気にとられたアリステアの顎先を捉え、軽くくちづければ正気に戻った彼が赤くなる。
「従兄上!?」
「私を立ち直らせようとしてくれる心遣いは受け取ったさ。仕事を再開するぞ、従弟殿」
「……茶を所望と仰ったくせに」
「茶を飲みながらでも書類は書けるからな。死刑執行状の書式はどこだったかな。侍従を呼んでくれるか」
 早速と処刑する気になったらしい。いままで延ばしておいたのは、何らかの情報が得られるかと期待してのこと。何も知らないと確定したのならば、生かす意味より殺す意味の方が重くなる。
 文句を言いながらもアリステアはほんのりと微笑んでいた。リーンハルトに後悔などしてほしくない。ウィリアとのことは、本音だ。あれを生かしておいても害悪だ、そう思っていたのをそのままに、実行しておくのだったと、それこそ後悔をしている。
「アリステア」
「なんです?」
「よけいなことを考えるのではないぞ」
「さて?」
「私の害悪になる人間を殺してまわるような真似をするな、と言っているのだ。わかっているな?」
 そこまで察せられてしまってはアリステアも肩をすくめるより他にない。その仕種に、多少はアリステアがそうと考えたのではないかとリーンハルトは疑う。
「実際問題として、殺しておいた方がいいようなものはもういないような気がしますが」
「探し出して殺すなよ」
「そこまで暇ではありませんよ」
 にやりと笑うアリステアに暇があるのならばするのか、とリーンハルトは冷たい目。だが、アリステアとしては実行するかどうかはともかく、警戒を強めておくに越したことはないと感じている。
 そもそも血の魔術師がウィリアと何を画策したのかが、わかっていない。乱が起こることだけは、確定としても。しかもヨハンの狂乱を見るにつけ、以前の証言が気にかかる。闇の手の連絡員だろう、と考えた男、ウィリアの下に出入りしていたヨハン曰く「下衆な男」は真実闇の手の一員か。血の魔術師の一派であってもおかしくなくなってきた。否、本人が姿を変えていた可能性だとて。
 いまのラクルーサは、少々の騒ぎがあったり内乱があったりとしつつも、宮廷はおおむね平穏ではある。異形の侵略を押さえ、隣国ミルテシアとの外交をこなし、とリーンハルトは強い王として貴ばれてもいる。その彼を、本気で倒しうる勢力はおそらくは、いないはずだ。アントラル大公が倒れた今は。あれが最大勢力では、あったのだから。
 ――まだ、いる。
 アリステアは一つ一つ、貴族たちを数え上げて行く。不満を持っているものをすべて。結局それは、ラクルーサの貴族をすべて数え上げる作業にもなる。
「こちらで――」
 侍従がリーンハルトに書式を提示していた。おおよその書類として既に作り上げていた死刑執行状。リーンハルトは精査し、署名をするだけ。精査するあたりが真面目だ、とアリステアは視界の隅でそれを見ていた。
 書類に視線を落としているおかげで、かすかに伏せた目。長い睫毛が昏い蒼の目を飾っている様。それだけを言えば女性的な美貌であるのに、リーンハルトを見れば紛れもない男性美がある。引き締まった頬も、精悍な眼差しも。
「アリステア」
「はい、従兄上」
「私に見惚れていては仕事にならないと思うのだがな」
「従兄上!?」
 侍従がこらえきれなかったと見え、ぷ、と吹き出した。慌てて頭を下げるのに、アリステアは肩をすくめる。リーンハルトは生真面目な顔のまま書類を読んでいた。
 小声で文句を言うスクレイド公爵に、侍従は同情しているらしい。かすかに浮かんだ笑みが好意的だった。ありがたいことだと思う反面、思い浮かぶのは別のこと。
 侍従がこれほど自分に好意的である理由を考える。リーンハルトが多少は休息を取るようになっただとか、執務が片づくのが早くなっただとか、そちらは些末なことであろう。
 ――テレーザ殿か。
 かつて、リーンハルトは一人で執務をしていた。テレーザが執務室にやってくるのは稀であっただろう。それはそれでよいことではある。だが、やってきた機会が侍従には、良い印象を与えなかったのだと察した。
 王妃が政治に口を出すのは慎むべきこと、とされている。むしろ他者が、なのだが通常は口を挟める立場にいるのは王妃か寵姫だろう。リーンハルトに寵姫はおらず、テレーザは。
 こうして暗殺未遂以来執務室に詰めているアリステアは、一度たりとも政治に口を出さない。それどころか、意見を求められても拒むことすらあるのだから。それが侍従にとってはこれ以上なく好意的な理由なのだろう。
 リーンハルトが書き上げた執行状を恭しく捧げ持ち、侍従は退室して行く。二人、自然とその背中を目で追っては苦笑した。




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