王太后ウィリアの死去を隠すわけにはいかなかった。まして修道院長が殺害されている。宮廷は、あるいはウィリアの目論見通り、騒乱の只中にあった。シャルマーク系の陰謀だ、否、ラクルーサ門閥貴族の暗躍だ。いずれとも定め得ず蜂の巣をついたような騒ぎ。
 その中で、ひときわ凄まじい騒ぎが起きたのは地下牢。リーンハルトもアリステアもその時点では知らなかった。宮廷をしばしなりとも鎮めるのに忙しかったせいもある。
「陛下――」
 侍従の申し訳なさそうな顔だった。多忙を極める国王だというのに、いままたここで騒動が起きたなど、侍従は言いたくはないのだろう。ウィリアの件があって以来、リーンハルトの頬は鋭さを増している。
「いかがした」
 執務室でも書類の束が一山は増えている。宮廷だけで騒ぎが起きるわけはない。宮廷で起きているのならば、貴族の領地でも起きている。その報告書類が山のようになっていた。
「ヨハンが騒ぎを起こしまして」
 はて誰だっただろうか。リーンハルトは首をかしげる。そこにアリステアの低い笑い声。元アントラル大公ですよ、と彼は言う。
「なるほど」
 通常、高位の貴族は姓名を呼ぶことが少ない。爵位で呼ぶばかりであるから、すっかりと失念していた。すでにアントラル大公位を廃されたヨハンだった。
「それで、あの者がいかがした?」
 またぞろ騒いだか。リーンハルトは顔を顰める。地下牢に収監して以来、当然のよう騒ぎ続けている男でもあった。あれがエレクトラと組んで内乱を企てたか、と思うと苦いアリステアだ。あの程度の頭で国を乗っ取ろうなどリーンハルトを馬鹿にされたような気すらする。
 だが、侍従の報告に顔色を変えた二人だった。牢番と言わず、誰と言わず。ヨハンは笑いながら叫び続けていると言う。
「狂ったか?」
「そうであれば話は簡単なのですがね」
 早急に片づけるべき問題、と二人は地下牢へと向かっていた。その前に、万が一のことがあっては、とアリステアはリーンハルトの額にくちづけをする。
「お前は気にし過ぎだ」
「従兄上がおおらかに過ぎるのです」
 地下牢に収監され、武器と言えるようなものは何一つとして手にしてはいないヨハンだ。だがしかし、手がある。手があれば爪がある。口があれば歯がある。まったく何もできない、などということはない。ヨハンは生きている。だからこその護身呪の強化だった。
 もっとも、リーンハルトはそれを嫌がっているわけではない。むしろ神聖呪文の加護でありながら、アリステアの愛に包まれているような気がしては悪い気分では決してない。
 ――少し、ご機嫌が直ったか。
 それを期待してのアリステアでもあった。ウィリア死去の件からアリステアも神経を尖らせ続けている。それをなだめようとリーンハルトが気を使い続けているのもまた事実。二人してこれでは先が思いやられる、とようやくアリステアは平静を取り戻したばかりであったというのに。
 ヨハンは、ウィリアの死にかかわっているのは自分だ、と言っているらしい。何度も何度も、もしかしたらリーンハルトを手の届くところに呼び寄せるためにそうしているのでは、と疑うほど。だが、行かねばならないリーンハルトであり、アリステアであった。
「私だ! 私が手配した魔術師が、ウィリア殿を殺害したのだ! 私の魔術師がウィリア殿を殺した! 私だけが、魔術師を止められるのだ!」
 地下牢の、最後の階段を下りる前からヨハンの笑いまじりの叫びが聞こえていた。リーンハルト共々、顔を顰める。思わず顔を見合わせ、やはり狂っているのではないかと疑いを深めた。
「おぉ、これは国王陛下。よくぞお越しで」
 にやりとしたヨハンだった。元アントラル大公は、顔の形が変わるほど窶れ、頬など削げ切っている。衣服も貴人に相応しいものではなく、貫頭衣を被っているだけ。窶れ衰えた体で鉄柵のところまで這い寄る。ぎらぎらとした目だけが光った。
「なにやら申していることがあるとか」
 淡々とした眼差しのリーンハルトだった。ヨハンへの怒りは強い。あるいはテレーザを処分できないことへの苛立ちが、ヨハンに向かっているのかもしれない。アリステアはそうも思っている。あの内乱においての首謀者側に立っていた人間で、処分できるのはヨハンのみだ、いまはもう。エレクトラはアリステア自身がその手にかけたのだから。
「そのとおり。さぁ、私を解放せよ。ウィリア殿を殺した魔術師が何をしたかご存じか?」
「何をしたと?」
「言うものか! ははは、言うものか! まずは私を解放してからだな。こんなところではなく、明るいところで話をしようではないか。爵位も当然、返していただこう。本をただせばこの城とて、我が家のもの。あなたは借家人と言うわけですよ国王陛下」
 からりからりとヨハンは笑う。いつの時代の話をしていると思っているのか、彼は。確かに白蹄城はアントラル大公の居城であった時代がある。だがそれも遥か遠い昔の話だ。
「誰ぞ」
 リーンハルトが神官を呼ぼうとしたのに、アリステアは首を振る。自分がいると。だからこそ、リーンハルトは呼びたかったのだが。
「なにもわざわざ呼びつけることもありますまい」
 目だけで笑い、アリステアはかすかな詠唱を響かせる。鉄柵の間から手を伸ばし、ヨハンの首を掴む。咄嗟に避けられなかったヨハンが鈍い悲鳴を上げた。特に、接触が必要な呪文ではない。単なるアリステアの嫌がらせだった。
「どうだ」
「ヨハンもまた、知らないようですね。魔術師が何を企んでいるかなど、この男は何も知らない」
「ほう?」
「知っているのは、ヨハンが自分の配下だと考えている魔術師が、ウィリア殿を殺害した、というところまでですな」
「――き、貴様!」
「なにか?」
 鼻で笑うようなアリステアだった。冷淡な灰色の目がヨハンを見下す。わずかに怯み、けれど失うものは何もない男だった、ヨハンは。
「……男妾が。王の尻にしゃぶりついて得た地位は甘いか、え?」
「ここで怒るのも馬鹿らしい。負け犬の遠吠え、という言葉を知っているか?」
「貴様、言葉に気をつけろ! 私は――」
「反逆者。死刑の決まった罪人。エレクトラに踊らされた阿呆。さて、どれがいい?」
 にっとアリステアが笑った。その背にリーンハルトを隠したまま。間違いなく、彼の顔色が変わったのを気配で捉えている。このような言に彼が付き合う必要はない。身の穢れになるばかりだ。怒りに震えるヨハンに言葉はなかった。鉄柵を掴み、握り締めた指先が白い。
「……私だけが、魔術師を止め得るのだぞ。嘘かどうか、その男妾が知っているだろう」
 神官として、虚偽を見抜く呪文を使ったのだろうから。ヨハンの唇が嫌な形に歪んだ。軽くアリステアの肩が叩かれる。
「お前がそこにいては邪魔であろう、従弟殿?」
「失礼。ですが、従兄上の目の汚れになります」
「気にするでない。エレクトラの男妾も務まらなかったような男に何を言われても馬鹿馬鹿しいだけだな」
 ふん、とリーンハルトが笑った。それにはアリステアも笑うしかない。怒りに赤かったヨハンの顔が青白くなった。
「……ただの冗談だったのだが。どうやら事実であったようだぞ、従弟殿」
「あの女にも理性があったと知って安堵しておりますよ。仮にも妻と呼んだ女だ。趣味に奇矯なところがあったと知るのは面白くない」
 リーンハルトがにやりと笑った。まるで動じもしない二人にヨハンは歯を食いしばる。エレクトラに跳ねつけられたことなど、彼らは知らないはずであるのに、そう思えば屈辱は深まるばかり。
「それはともかく。誰ぞ、魔術師を」
 リーンハルトは振り返る。牢番がさっと走り去った。リーンハルトはすでにアリステアの表情に読み取っている。ヨハンは、嘘はついていないと。確かに彼は魔術師を止め得るのだと。
「問題があろうな?」
 リーンハルトの念押しに、アリステアは笑みを見せた。さすが我が王、と。アリステアは虚偽を見抜くことはできる。ただ、本人が嘘偽りなく信じている事実、であればそれは虚偽ではない。その区別は彼にはできなかった。ほどなく呼ばれた宮廷魔導師ダトゥムがやってくる。地下牢の淀んだ臭いにかすかに顔を顰めた。
「――と、この男は言っているが」
 概略を話す間もヨハンは魔術師を止められるのは自分だ、と叫んでいた。宮廷魔導師に確認などするまでもない、否、確かめればいいのだと。それで正しさが証明されれば、この待遇を変えざるを得ないだろうと。
「理解いたしました」
 ゆったりとうなずく魔術師だった。それにアリステアは口許で笑う。どうやらヨハンの思ったとおりにはならないらしいと。
「その男が何を理解しているかはともかくとして。現場を捜査した魔術師として、断言いたします。すでに、魔法は、発動しております」
 それが何か、は宮廷魔導師にもわからない。いまだ調査が進んでいないのを彼は王に詫びた。気にせずともよい、リーンハルトは軽く首を振る。そして目顔で続きを促した。
「はい。発動した魔法は、放った矢を弓に戻すことができないのと同じく、今更魔術師が何をしようと止め得るものではありませぬ」
「つまり、ヨハンが言っていることは、事実とは異なると」
「それが信じているのは事実でありましょう」
「なるほど。魔術師にも手玉に取られた、と言うわけだな」
 ちらりとヨハンを見やれば、ぽかんとした顔。仮に捕縛されたとしても発動した魔法を止めさせ得るのは己のみ、と言えば解放されるに違いない、とでも言われていたか。アリステアからの眼差しに、次第に理解と恐怖と恥辱が浮かぶ。灰色の目が、かすかに笑った。
「……そんな、馬鹿な。私が止めれば、あの魔術師は言うことを」
「聞く必要がどこにある。お前は無力で、その手には何もない」
「私には、身分が。爵位が。私を誰だと思って」
「お前はただの罪人、いや……大罪人だ。他に何があると?」
 否応なしに理解してしまったヨハンの血の気の失せた顔。アリステアはもう気に留める価値もない、と割り切る。
「あの魔術師を止めれば、私は」
 地下牢から出て、王の謝罪を鷹揚に受け入れ。再び栄耀栄華を極めるのだと、ヨハンは呟き続けた。
「もう価値もない。持っておく必要がありますか、従兄上」
 ないな。リーンハルトは言う。低い悲鳴が上がった。




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