アリステアたちが王宮に戻ったのは、もう明け方も近くなるような時間だった。寒さにだけではない、酷い顔色をしている。リーンハルトはその間、じっと執務室で待っていた。 「体を温める物を」 こちらもまた起きて待っていた侍従に申しつければ、すぐさま蒸留酒が出てくる。葡萄酒などではとても暖まらない寒さだった。 「ありがとう存じます」 率先してアリステアが言い、不作法もかまわず口の中に放り込む。それでようやく騎士たち、魔導師、神官が彼に倣った。それでも顔に血色は戻らない。リーンハルトは暖炉に赤々と火を焚いていたというのに、だ。 「話を聞こうか」 厳しい王の顔。アリステアもいまは公爵の顔をしていた。騎士たちは不動の姿勢で背筋を伸ばして起立したまま。神官がわずかにアリステアを窺った。 「従兄上が寄越してくださったのは正解でしたよ」 軽く顎をしゃくって、神官と魔導師を指す。それに彼らが一礼をした。リーンハルトを見れば、険しい顔。当たっていてほしくなかったぞ、その顔に書いてある。だが、彼にとっても想定の事態だったのだろう。 「よからぬ魔術師が入り込んでいた形跡を発見いたしました」 「従弟殿。率直に言っていただこう」 「――端的に申し上げれば、血の魔術師ですよ、従兄上」 すう、とリーンハルトの顔が青白くなる。それほど、血の魔術に対しての嫌悪感は強い。まして至高の座にある彼にとっては。最も有用な呪殺の手段でもある、血の魔術とは。アリステアはそっと首を振る。 「従兄上は、私がお守りしている。我が神の加護ある限り、従兄上を呪殺するのは不可能です」 「……なるほど」 では、血の魔術師は何を目論んだ。リーンハルトの目に問われても、アリステアにも答えの持ち合わせがない。いまのところまだそれは不明だった。 「血の魔術師が存在した形跡を発見いたしましたので、公爵閣下と、神官殿にお頼みして擬似復活は防いでいただきました」 「擬似復活、とな」 「簡易に申し上げるならば『生ける死者』にはさせずに済ませた、ということになります」 ダトゥムの発言に騎士たちがぞっとした顔をしていた。アリステアと神官は協力して、ウィリアにとどめを刺している、神聖魔法的に、と言う意味だが。ウィリアは、あの神聖呪文で確実に死んだ。肉体が、擬似的な生を得て戻ってくることはない。魂はアリステア到着の時点で神の――どの神かは知らないが――御許に発った後。すでにその気配はなかった、と神官であるアリステアは確認している。 ――ただ、不安がある。 アリステアは感じている。ウィリアが、生ける死者として戻ることなど、はじめから画策していた気がしない。遥かに陰惨なことを企んでいたような、ただの不安感で済ませるには重たい気配めいたものをアリステアは感じていた。 もっとも、推測を口にすることはなかった。この場には他人がいる。騎士たちはそうと知れば恐れおののくことだろう。それを思えば口にはとてもできない。 「そもそも、だ。ウィリア殿はなぜ亡くなられた」 やはり、それを聞かれるかとアリステアは思う。もっともな話ではあるが、確定した情報がなにもない。 「推測になりますが」 「かまわん」 「――侍女が、消えています」 「ほう?」 結局あのあと、アリステアたちは海岸を捜索したものの、侍女を発見することはできなかった。ダトゥムの言によれば、すでに肉体は損なわれ、この世のいずれでも見つけることはできないのではないかとのこと。アリステアも納得せざるを得なかった。 本音を言えば、見つかってほしかった。なにも侍女への哀れみだけが、理由ではない。その肉体が残っていれば、何らかの魔法の影響をダトゥムが読み取ることができる。なおかつ、血の魔術であるならば、肉体の残存は魔法の失敗を意味する可能性がある。半ばのみかかった魔法ならば、対処はしやすい。だがしかし。 「小舟に、血痕のみ、か――」 リーンハルトもまた、それを考えたのだろう。口許に軽く指先を当てた姿。そんな自分に気づいたのだろう、彼は再び姿勢を正す。 「それは血の魔術の痕跡、と考えてよいのだな?」 「はい。何らかの呪法が行われた、としか申し上げることできない菲才の身を恥じます」 「よい。すべてがわかる者などどこにもおらぬ。ではウィリア殿は、他者の手にかかった、ということなのか……」 「魔法の触媒にされた、と言う意味ならば、諾であり否でありましょう」 む、とリーンハルトが唸る。さすがに専門的な話になると、よく理解しているとは言えない。アリステアも同じこと。ダトゥムに続きを促した。 「不法にも命を奪われた、と言う意味での他殺では、あり得ませぬ。ただ、血の魔術師がとどめを刺した可能性は、あります」 「ウィリア殿が、自ら死んだ可能性は」 「それが最も高いもの、と申し上げざるを得ません。生贄が自ら死を望み、魔術師の手によってとどめを刺されたときほど効果的な触媒はないのです」 アリステアの鋭い問いにダトゥムは背を伸ばして回答した。やはりか、アリステアは内心に溜息をつく。あの女ならば、そう考えてもまったく不思議はない、そう感じていた。目的は、何かはわかっている。リーンハルトに対する何らかの攻撃。ただ、その手段となるとわからない。 「従弟殿。ウィリア殿が亡くなった、それ自体がすでに私に対する攻撃である」 きっとしたリーンハルトの声音にアリステアは目を見開く。そのとおりだった。今後、血の魔術師が何をしてくるにせよ、ウィリアが死んだことですでに混乱が予想されている。だからこそ、ウィリアを守護してきたリーンハルトだ。 「従兄上に対する嫌がらせになるならば、己の命すらかける女でしょう、あれは」 溜息まじりのアリステアの言に、近衛騎士たちが息を飲む。己の母に対してそこまで言うかと。だがアリステアにとっては、産んでくれた恩こそあれ、いまは完全に敵対している。あの女扱いしているだけまだしもだ、と本人は思っていた。 「私に対する嫌がらせで自ら死ぬか?」 「従兄上がどれほど困るか、それを思いながら笑って死ぬでしょうよ」 実際、死体は満足げに笑っていた。真実の幸福を感じてでもいるかのような、そんな笑顔に背筋が寒くなったアリステアだ。グレンも同感だったのだろう、アリステアの背後で彼の騎士がわずかにうなずく。それにリーンハルトは得心していた。彼らは決して語るまい、だが、自分に語っている以上の酷いものを見たのだと。 「いかん、忘れるところでした。――酷い話ではありますが」 「気にするな。酷いことが一度に起こった」 「いえ……それにしても、です。死者はそれにとどまりませんでした」 「……なに?」 眉を顰めたリーンハルトにアリステアは素直に詫びる。自分の手の届くところにいた民が不当に命を奪われたとあっては、黙っていられないのが王たる彼だ。 「修道院長が、亡くなりました。こちらは、確実に殺されたとわかっております」 「犯人は」 「おそらくは、血の魔術師」 要は捕縛の目途はまったく立っていないと言うことか。リーンハルトの目が険しくなる。それには自らを恥じる宮廷魔導師だった。あの場にいて、すでに逃亡を果たしたのだろう血の魔術師の気配すら掴むことができなかった。どこから姿を消したものか、それさえわからなかった自分を彼は恥じる。 「上手はどこにでもいるものよ。まして、相手はいかなる手段をも恥じることのない罪人だ」 そんなダトゥムに気づいたリーンハルトの声が柔らかみを帯びた。素晴らしいな、とアリステアは思う。いまのリーンハルトは様々なことが一度に押し寄せ、他者を気遣う余裕など剥ぎ取られているだろうに。だが彼は王だった。彼こそは、アリステアの王だった。 「亡くなられた修道院長の手に、魔術師がいたとの証拠を発見いたしました。それで血の魔術師が存在した確信が持てました」 「なにがあったのだ?」 「従兄上には言えないようなことですよ」 にやりと笑って見せるアリステアに騎士たちの気配が和らぐ。リーンハルトに感嘆する彼ではあったけれど、アリステアもまた彼同様だった。それに本人が気づいていないだけのこと。リーンハルトの目がかすかに微笑んだ。 「わかった。まずは休むといい。ご苦労だったな。朝までもうさほど時間はないが」 少しは眠るといい。ほんのりと微笑んだ王に一同が揃って礼をする。この王のため、身命を賭さんと。騎士たちが下がり、魔導師と神官は更に何らかの討論を重ねようと共に下がっていく。 「お館様」 濡れた外套をグレンが受け取った。どうした、と問う暇もない。腕に外套をかけ、グレンは軽く笑って下がっていく。 「なるほど。干しに行ってくれたか。アリステア、お前も来い」 「……はい?」 「いいから来い」 ぐい、と腕を引けば不思議そうな顔をしてアリステアはついて来た。他人がいるところでは、気を張っていたのだろう。いまはアリステア本来の表情が透けて見えていた。 「ほら、座れ」 執務室から出て、寝室に引き取る。侍従たちの姿もないのはもう朝方だからか。平素のアリステアならば自分たちがこうしているからだ、と理解するだろうに。腕を取り、軽く組んだまま歩いてきた自分たちにアリステアは気づいていない様子。リーンハルトはそちらの方が己の身などより遥かに不安だ。 「従兄上?」 寝台に腰かけさせ、酒杯に蒸留酒を注ぐ。飲め、と目顔で言えば素直に飲んだ。強い酒が喉と唇を焼いたのだろう、軽く唇を噛み、痺れをなだめるアリステアのその唇にリーンハルトは触れた。そっとくちづけ、まだ冷えたままの髪を指で梳く。暖炉などではとても、酒でもなお温まらなかった彼の体を両腕で抱いた。 「……なにかが、起こりそうで」 「怖いのか、アリステア?」 「従兄上に何かがあったら。それを思うと……怖くて」 珍しかった。そこまで率直に恐怖を語るような男ではないというのに。いまのアリステアはリーンハルトを抱き返していると言うよりは、しがみついてでもいるかのよう。ふと幼いころを思い出す。 「おいで、私の可愛い従弟殿。今夜は私の腕で眠るといい」 ゆっくりと押し倒し、衣服を剥ぐ。まだ濡れて冷えたそれを身につけていては、いつまで経っても温まらないだろうと。リーンハルトは己の肌身を以て最愛の伴侶の肉体を温めた。 |