院内に戻った途端、修道女たちの抑えた悲鳴。アリステアが抱きかかえていたのは、院長の亡骸だった。雪に濡れ、波に洗われ、力なく垂れ下がる腕。先ほどまでお元気でいらしたのに。誰からともなく呟いてはすすり泣く。 「誰か――」 棺台の用意を。アリステアが言いつけなければ、彼女たちはそのまま泣き崩れていたかもしれない。それを思えば、ウィリアとの扱いの差が顕著だった。院長は彼女たちに慕われていた。ウィリアは違う、それがここまであからさまに出ている。 急遽用意された棺台は、修道院の質素な食堂の大卓だった。修道女たち心尽くしの刺繍入りの白布が敷かれ、院長はその上へと横たえられた。 「お召し物など――」 せめて替えて差し上げたい。修道女が言うのにアリステアがうなずこうとしたとき、駆け込んでくる若い修道女。足がもつれている。また何かが起きたのか、さっと緊張したグレンだったが、すぐに穏やかな表情へと戻った。彼女の後ろには複数の男性が従っている。 「スクレイド公爵閣下。陛下のご命令によりまかり越しましてございます」 すう、と頭を下げたのは魔術師の長衣を身につけた男。宮廷魔導師の中でも殊に有能なこのダトゥムは以前、暗殺者を預けた相手でもある。 「助かる。来てもらおうかと考えていたところだった」 「何なりとお申し付けを」 淡々とした口調が気味悪いのだろう修道女たちだった。魔導師など、見かけたことすらないのかもしれない。まして宮廷魔導師ともなれば、市井の魔術師などよりよほど恐ろしいことが色々とできる。風聞から、事実まで。様々なことを言われている彼らだった。 「閣下――」 ふ、と何かに耳を澄ますような仕種のあと、魔導師は急造の棺台に近づく。修道女たちがあるいは避け、あるいは立ちはだかろうとし。アリステアの差し伸べた手に止められていた。 「どなたか、水を……いえ、私がしてもよいのですが。不作法かと」 「私が言うようなことではないが、緊急事態だ、気に留めずともよい。必要と思うことすべてなしてよい」 「は――」 何をするのか、気味悪げに彼女たちが見守る中、ダトゥムは院長の左の手を取る。固く握りしめられたままの手だった。 「手伝うか?」 指を開かせようとしているらしいのだが、うまく行かない様子だった。アリステアの言葉に魔導師はほっと息をつく。妙に生身を感じさせる仕種で、彼女たちの態度が和らいだ。 ――これは。 あまりにも固く握っていた。亡くなったのがそう前だとは思えない。最低限、ウィリア捜索の時点ではまだ院長は生きていた。それなのに、この固さ。まるで決して開くまいと死の間際に神に願ったかのような。折ってしまいそうな恐怖を覚えながら、アリステアとダトゥムは協力して院長の細い指を開かせる。一本、また一本と。 「まぁ……」 「なんと、惨い」 「院長様――」 見てしまった修道女たちの嘆き。院長の掌は目をそむけたくなるほどの傷がついていた。だが、魔導師は動じた様子がない。これを見るとわかっていたかのようだった。 「知っていたのか?」 小声で問えば、無言で首を振る。そして相手が高位の貴族、と気づいたのかかすかな動揺を浮かべて目を上げた。そこには気にするな、と微笑むアリステア。息をつき、改めて魔導師は答える。 「知っていたわけでは、ありません。何か妙な気配と血の臭い……というより血に関する魔法の気配、とでも申しましょうか。それを感じたまでです」 「血の魔術、か……」 「ご存じですか」 「知らないわけにもいかない立場でな」 スクレイド公爵にして王の従弟、マルサド神の神官。アリステアは何重にもそれを知らねばならない立場にいる。ダトゥムがそのとおりだった、と軽く頭をげた。 「お館様」 「ん……。まぁ、知らない方がいい話ではあるのだがな。いや、悪夢を見るぞ?」 だから下がっていた方がいい、アリステアは修道女たちに微笑む。彼女たちは顔を見合わせ、しばしの後にまたまいります、と言いおいて下がっていった。内密な話、と察してくれたらしい。そしてここにはアリステア主従と、リーンハルトが送ってくれた魔導師と騎士たち、そしてマルサドの神官が一人。男ばかりが残った。 「血の魔法と言うのは……私が説明するよりもそなたがした方が正しいだろう。頼んでもいいか」 「かしこまりました。血の魔法なるものは、我々――」 魔術師が何をおいても嫌うものだ、と彼は言った。同じ魔法ではないのか、騎士たちが不思議そうな顔をする。その中にはグレンまでいた。 だがダトゥムが言うには決定的な差があるらしい。アリステアにはそのあたりが飲み込めている。血の魔法は、犠牲者の血を使うところからそう呼ばれる。それがまず忌まわしい。 「そして血の魔法、というものは我々の真言葉魔法より遥かに発動が楽なのです」 「つまり、それは。ダトゥム殿――」 「何者かが、血の魔法を使った形跡がある、ということです」 リーンハルトが送り出してきた近衛騎士たち。顔色が悪かった。近衛は実戦の場にはさほど出ない。当然だった、国王の警護こそが彼らの任務なのだから。それを鑑みてもなお、酷い顔色。グレンは彼らを目にすることで、平静を保つ努力をしているらしい。アリステアの騎士たるものが動揺を見せるわけにはいかないと。そのあたりが可愛い男だ、とアリステアは内心で微笑む。 「ここに――」 魔導師は己の掌を上に向けた。そこに何かが集まり、わだかまり、いつしか水の塊になる。掌を下に向ければ、滴り落ちる水滴。院長の傷だらけの掌を洗った。そして彼はそのまま、手巾を取り出し、彼女の掌に当てる。真っ白い手巾はまだ固まり切っていない血に染まった。その傷口の形をはっきりと写して。 「な――!」 「ご覧のとおり、五芒星です」 「そなたはそれをどう考える」 まったく揺らぐことのない眼差しをしたスクレイド公爵に魔導師の目が和みを浮かべた。彼は、理解している。それが態度に出ていた。それでいて、魔導師を恐れる素振りを微塵も見せない。魔法の使い手にとってはありがたいことだった。 「院長様ご自身でなさったこと、と拝察いたします」 ほう、と誰かが声を上げた。不可解な、と思っているのだろう。自らつけた傷にしては、あまりにも無惨だった。 「五芒星は、我々魔術師を象徴するごく一般的な印、と申し上げてよいでしょう」 「それを院長が我と我が手に印した、か……」 「はい。院長様は、この件に魔術師がかかわっている、と最後の力を振り絞って示唆されたもの、と考えます」 「同感だ」 短いアリステアの言葉だった。彼は院長の手が握りしめられているときにすでにそれと察していた。何がどう、とは言えない。あるいはこの島はいまアリステアが願ったマルサド神の加護のうちにある。そのおかげかもしれない。 「そなたはまだ血の魔術師がここにいると感じるか」 「いいえ。閣下も逃亡を察しておいででは?」 「そのとおりだ。この天候だからな……」 逃げようと思えばできただろう、実に簡単に。冬至の雪は翌年の豊作を約束する幸運の印、などと言われているがいまはただただ忌々しい。 「そうだ。ウィリア殿が乗っていたと思しき小舟に、血痕があった。血痕、などというものではないな……」 「量は、いかほどでしょう」 「見に行ったほうが早いか。行くぞ」 当然だ、とダトゥムが軽い一礼をするに至って、近衛騎士がはっと正気づく。スクレイド公爵をこの雪の中に出すわけにはいかない、とでも言いたげだった。 「我々が小舟とやらを持って参りましょう。それでいかがですか」 「どうだ?」 「……遺憾ながら」 「だ、そうだ。現場に行くぞ。従兄上の御為だ。雪くらいどうと言うことはない」 ウィリアの死亡は間違いなくリーンハルトに影響を与える。険しい顔のアリステアに、誰より先に従ったのはグレン。まだ濡れたままの外套をさっと一振りして彼の肩へと羽織らせた。 「あとで温かいものでも召し上がられませ。お風邪を召しますぞ」 「あとでな、あとで」 「お館様――」 むっとした口調を作りながらグレンは笑っている。そうすることで気力を取り戻そうとでも言うように。近衛の全員を率いても仕方ない。アリステアは一人だけ伴うことにして、あとは修道院の警護に当たらせる。 ――万が一、ということもある。 魔術師が逃亡していない可能性、あるいは院内に協力者が。その場合、修道女が更に狙われかねない。また、低いながらもウィリアが生ける死体として動き出す可能性もなくはない。そのために、マルサドの神官も残して行った。 「ずいぶんと……厳重な警護をなさいました」 差し出口でしたらお忘れください。そう言いつつダトゥムが呟く。強くなってきた雨まじりの雪が彼の長衣をはためかせた。 「なに、ウィリア殿に生き返られたら厄介だからな」 「――それは」 ふっと魔導師の気配が固くなる。一歩先に立っていたダトゥムの足が止まり、アリステアを振り返った。宮廷魔導師は、陽に焼けることがない人々。だがそれにしても蒼白だった、彼は。 「そこまで、お考えでしたか――」 「血の魔法、と聞いた瞬間に想定した。おかしなことか」 「いえ」 かすかな笑みが浮かんで消えた。唇だけのそれに近衛騎士がわずかに怯んだ気配。この男は宮廷魔導師。それでもなお、やはり恐ろしいと思ってしまった様子だった。 ――咎めるわけにはいかんな。 この酷い天候。殺されたに間違いない院長の死体。血に汚れた彼女の掌。真の闇の中、ダトゥムが灯した青白い魔法の明かりで海辺に向かう。アリステアでも多少は背筋に薄ら寒いものを覚えていた。 |