馬を飛ばせば入江まではすぐだった。そこから小舟に乗れば修道院のある小島。海上修道院とはいえ、ほんの目と鼻の先の島だった。
「少々揺れます」
 修道院の下働きが緊張を隠しもせずにそう言って舟を出した。アリステア主従は言葉を発することなく揺られる。
 冬至の晩の海は寒かった。ちらちらと舞い落ちる雪が、波に煽られて逆に空へと舞い上がっていく。背筋が震えるような景色だった。小舟の先頭につけられた小さな角灯がぶらんぶらんと揺れ動く。下働きの腰は強張り、必死になって櫂を操っていた。
「ご苦労。冷えないようにな」
 下働きの肩を叩き、身軽にアリステアは島の岸へと飛び移る。それに下働きが驚いた顔をして、慌てて頭を下げて主従を見送る。
 すでに出迎えが立っていた。真っ青になった修道女にアリステアはうなずく。それだけで、異変があったと理解ができるというもの。決して通常の死ではなかったと。
「ウィリア殿は」
 母とは呼ばず、アリステアはそう言った。事実上、すでに母ではない。彼女は俗世を捨てた修道女ウィリアだ。それをどう感じたのか、修道女は無言で頭を下げて修道院内部に彼らを案内する。
「申し訳なくは思っているよ」
 女子修道院に男性が立ち入るなど、本来はあってはならないことだろう。修道女ははじめてそれに気づいたと見え、自分で驚いた顔をした。それだけ、彼女も動転しているのだろう。
「こちらに」
 通されたのは小さな部屋だった。平素ウィリアが使っていたものではないだろう。あるいは物を収めておくための部屋か。奥の使い古しの大きな卓に白布がかけられ、その上にウィリアは寝かされていた。
 つかつかと歩を進めて行く主の背中をグレンは見ている。案ぜられてならなかった。母、とは思っていないだろう。だがしかし、いまここでウィリアに死なれることの意味をグレンもまたぼんやりとではあっても理解している。だからこそ、アリステアの背中に怒りを見る。
 無言で体の上にかけられた布を剥ぐ。と、その時。アリステアの顔色が変わった。グレンに見えていたのは背中だけ。修道女は戸口に佇んだまま。
「お館様」
 咄嗟に進み出たグレンが主の腕を掴む。そのまま主人を見上げれば、グレンの方こそ顔色が変わるのを抑えきれない。それほどのアリステア。憤怒の形相にグレンが一歩を引きかけた。
「あぁ……」
 が、その騎士の様子にアリステアは深く息を吸い、自らを立て直す。小さく口許で笑い、無言でグレンの肩を叩いた。
「すまんな」
 それは修道女には母を失った嘆きにでも見えただろうか。グレンは彼女の目が気になる。スクレイド公爵に関する妙な風聞の元になどなられては困る。
「見るがいい」
 アリステアは気にした風もない。顎でグレンに死体を示す。それで、彼にもアリステアの怒りの理由が理解できた。
 ウィリアは、笑っていた。満足そうに笑って死んでいた。歪んだ口許、死の瞬間にも浮かべていただろう歓喜。それが、事故死でなかったことを表しているようで。
「ウィリア殿が亡くなった経緯をお話しいただけるかな」
 これ以上見る気はない、とばかりアリステアは再び彼女の死体を布で覆う。まるで気遣いにも見える仕種だった。そのせいか、修道女は軽く頭を下げて別室へと彼らを誘った。
「お寒い中、ご酒の一杯もないのは不調法ではありますが」
 明かりの下で見た修道女は若い。寒さと恐怖に青ざめた唇。酒が必要なのは彼女の方だろう。しかしここは修道院だった。神に身を捧げ、祈りの中に生きる女性の家。酒などあろうはずがない。
「お気づかいなく。あなたこそ、こちらに。火の側で少し暖まられた方がいい」
 修道女、ということを考えたかアリステアは彼女に指一本ですら触れなかった。その代わり、仕種で彼女を暖炉の側へと座らせた。眼前の男が公爵である、と彼女は怯んだ様子ながら、肉体の疲労には敵わなかったのだろう。よろけるよう椅子に腰かけた。
「ウィリア様のことですが――」
 修道女のため、扉は開け放ったまま。おかげで風が入って寒いと言ったらない。それにアリステアは気づいてもいないのではないだろうか。グレンは案ずる。真っ直ぐと修道女の前に立ったままの彼。
「俗世では、降臨祭を祝わなくなってずいぶんになりますが――」
 ここは神に仕える女の家であり、もちろん冬至ではなく降臨を祝う。ご馳走などはない。代わりに感謝の祈りが捧げられる。その礼拝に、ウィリアの姿がなかった、と彼女は言った。
「ウィリア様は、その……あまり」
「信仰に熱心ではなかった? そのような方だ。お気になさるな」
「……はい。ですので、今夜もか、とは思いましたが。でも、降臨祭ですから」
 せめて大事な祭りの礼拝くらいは出席すべきだ、と修道女たちは探し回ったのだと言う。修道院長が院内だけではなく、外まで探しに行ったときには雪が降りはじめていた。
「ここは、小さな島ですが……それでも、わたくしたちの慰めになる美しいところは、いくらでもあるのです」
「平素は穏やかな島であろうな」
「はい。春の日には、可愛らしい蟹が戯れる磯もあるのです。――そこで、ウィリア様を見つけたのは、わたくしでした」
 紙より白い顔の彼女のため、グレンは暖炉に薪を足す。ぽっと火の粉が散る。それに彼女とアリステアの横顔とが照らされた。
「そばには、小舟が。ですが、こんな日に……まして、もう陽も落ちて」
 そう長く行方が知れなかったわけではない。夕方にはウィリアと侍女の姿を修道女が何人も見かけている。ほんの短時間での出来事だった。まして、雪が降りはじめていた。舟など乗る意味がわからない。
 ――意図的なもの、ということだな。
 アリステアは顔を顰めていた。事故死を装った自殺、と考えた方がいいだろう。ウィリアはかつては王妃の座にあった女。いまここで自分が死ねば、国内の貴族がどのような反応をするか、嫌と言うほど理解しているはず。門閥貴族もシャルマーク系貴族も、互いに詰り合うことだろう。アリステアにはそれを意図していたとしか思えない。
 ――自分の死すら、利用しますか。
 そういう女だ、とは思っている。だからこそ、その思考に無理を感じられない。あるいは、考えたくもないことだが、息子であるからこそ、母の思考の筋道があっさりと理解ができる。
「修道院長はいずれに?」
 このまま死体を放置もできないだろうし、できれば院内の話も聞きたい。アリステアがそう言ったとき、修道女は不思議そうに周囲を見回した。
「院長様は――」
 その顔に、アリステアは悟る。この場にいるはずだったのだと。だが、院長はいない。さっとグレンを振り返る。
「誰ぞ」
「は――」
 すぐさまグレンは室外に。そして別の修道女を見つけてきては話をしてくれた彼女と共に残しておく。逆に、自分たちは外へと。
「どこにいると思う」
「まずは、どちらですかね」
「逃げたか、やられたか。さて――」
 自分ならばどちらだ。アリステアは雨まじりの雪に肌をなぶらせ、きっと海を見ていた。すでに闇が海を覆う。もし逃げていたならば、逃亡は容易いだろう。アリステアは胸元の聖印に触れ、小さく祈る。
「まずは、ウィリア殿が見つかった、という磯に」
 もし逃げていたならば、追うのは無理だ。そして逃げていないのならば、アリステアにはわかる。不作法ではあるが、マルサド神の奇跡を賜った。いまこの瞬間、島に出入りする者をアリステアが見落とすことはあり得ない。
 ならば、ウィリアの死の状況を確認しておきたい。自分の思い込みであって、本当にただの事故死の可能性もまだないとは言えない。
「グレン。気をつけろ。滑るぞ」
「……情けのうございます」
「うん?」
「主を先に立たせる騎士がどこにいるものですか」
「まぁ、気にするな。私の方が慣れているだけのことだぞ?」
 からりと笑う主を強い、とグレンは思う。その広い背中を目標に、グレンは足を進める。溶けかけた雪と、波しぶきとにひどく滑る道だった。それなのに、アリステアは一度として足を取られることはない。
「このあたりだな――。あぁ、あれか」
 小舟、と修道女が言っていたものがなんとか磯の岩に持ち上げられて置かれていた。普段はこのような場所から上げるものではないのだろう。流されないように、とかろうじてそうしたのがわかる。
「ここ、ですか……」
 グレンには訝しいことがいくらでもある。舟一つとっても。ここから上げるような場所ではないのならば、なぜウィリアはここにいたのかと。
「見つけてほしかった、ということは考えられるな」
「お館様?」
「海の藻屑になってしまっては、ただの自殺だろうが。誰かに殺されたのかもしれない、その状況があの女には必要だった」
 雪より冷たいアステアの眼差し、声音。真っ直ぐ海と小舟を見つめつつ。念のために、と小舟を改め、そして眉を顰めた。
「見ろ」
 そしてグレンに示したのは明らかな血痕だった。ウィリアの遺骸に傷はなかった。ならばこれは、誰のものだ。魚のそれにしては多すぎる。
「人ひとり分は、あるな――」
「考えたくはありませんが……。ウィリア殿の、侍女はいずれに」
「あぁ……」
 そう言えばいなかった、とアリステアは思い至り、溜息をつく。どうにも頭に血が上ってやり切れない。グレンがそんな主人の傍らに無言で立つ。せめて支えになりますと言いたげに。
「助かるぞ、グレン。さすがに怒りに我を忘れそうだよ、私は」
「無理もないかと。せっかくの晩餐でしたのに」
「……そこではないだろうが」
 リーンハルトと囲む晩餐を邪魔されたのだから、と悪戯に揶揄したグレンにアリステアは小さく溜息をついて見せる。それで少し、気持ちが静まった。
「とりあえず侍女の行方と――」
「いや、待て。あそこに、何かが見える。手を貸せグレン」
 足場の悪い磯を鹿のように跳ねて行く主人の後をグレンは必死に追った。追いついたときには、白くぐったりとしたものを抱え上げたアリステアが。




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