リーンハルトの執務室に彩りが加わった。あの日、ロザリンドからもらった鉢植えは、以前アリステアから贈られた香草の小さな鉢植えに並んで窓辺を飾り、寒い時期だというのに次々と咲く花はリーンハルトの目を和ませている。 「そう言えば――」 ふと視線を上げたリーンハルトだった。暗殺未遂に関しての調査の成果は上がっていない。――ということになっているだけであって、捕縛した暗殺者から知らされた依頼人である貴族にはすでに監視をつけたリーンハルトだ。あちらも脛に傷持つ身、いまは慎ましく過ごしている。むしろ成果が上がっていないのはアントラル元大公からの聞き取りだ。まったく要領を得ない話ばかりで、完全にエレクトラが首謀者であったと証し立てられただけ、内密に、ではあるが。その中で一つだけ、聞くに値することがあった。 何者かがウィリアの下に出入りしていた、と彼は言った。見かけない、下衆な男であったと。エレクトラとも会談を持っていたとも彼は言う。リーンハルトとその報告書に目を通したアリステアは、むつりと唇を引き締めたものだった。つまるところそれはおそらくは闇の手の者だったのだろうと。確定の情報ではない、それを心に留めて置く彼ではあった。 「なんです?」 ちょうどウィリアの下を訪れていた何者かはいまだ不明であるとの報告書に始末をつけ、別の書類を読みはじめたところだったアリステアは目も上げない。だが、すでに侍従も気に留めなくなっている。 「ロザリンドの花のことだが」 お持ちしましょうか、侍従がそっと尋ねるのにリーンハルトは黙って首を振る。それに侍従は微笑んで、ではしばし休息といたしましょう、そう言って女官に茶の支度を申しつけに下がった。 「ちょっとした雑談のつもりだったのだがな……」 小さく呟くリーンハルトにようやくアリステアは顔を上げる。それで侍従が消えているのを知っては苦笑した。あまり気分のいい報告ではなかったせいで気づかなかった自分を思う。もっとも、敵意に反応するよう鍛えている肉体だ、侍従の挙措ならば気づかないのも無理はない。 「それで、どうしました。従兄上」 「いや、ロザリンドの花だが。お前は何か気づいた風であっただろう?」 ロザリンドから託されたとき、アリステアの目が一瞬驚きに丸くなり、ついでずいぶんと柔らかく微笑んだ気がしたものだった。我が娘とあっても、あまり他者に向けてほしい目ではなかったリーンハルトは鮮烈に覚えていたのだが。 「あぁ、あれですか」 アリステアは気づいていないらしい。自分がそのような目をしたことにも、あるいは気づいていないのかもしれない、ふとそんなことを思ってリーンハルトは内心で肩をすくめる。少々気恥ずかしさが勝った。 「従兄上?」 「いや……」 言いつつ、結局リーンハルトは自分が何を考えたのか、ぽつりぽつりと語る羽目になっている。侍従に何を言われたにしろ、女官は現れなかった。 「そんなことでしたか」 ふっと笑ったアリステアが書類を伏せて立ち上がる。そんな仕種も珍しいもので、逆にリーンハルトはそちらの方が気にかかるほど。スクレイド公爵領もまた国王のもの、従兄上に見られて困るものなど何一つない、と常日頃から言っている彼であるというのに。 「姫のお心が、嬉しかったんですよ」 リーンハルトの背後にまわり、アリステアはそっと彼を両腕に抱く。椅子の背越しの抱擁がもどかしい。むっとして体をずらせば、きちんと抱き直してくれた。 「どういう意味だ?」 アリステアの胸元に頬を寄せれば、規則正しい鼓動。温かな肉体にリーンハルトは息をつく。それを見澄ましたよう、ぎゅっと抱かれた。 「あの花は……殊に、紫の花を咲かせるものの花言葉は、信頼、というのです」 「なに……?」 「姫は、私と従兄上を信じる、と言ってくださった。それはやはり、この上なく嬉しいものでした」 「お前……」 見上げてきた呆然とした目。薄い瞼にくちづければ、ほんのりと甘い気がしてしまってアリステアは内心で身悶える。自分で自分が恥ずかしいが、けれどリーンハルトの幸福そうに閉ざされた目、ほんのりと開いた唇。軽く唇にも触れて、腕の中に抱え込む。 「なんです」 ぶっきらぼうな言いぶりをリーンハルトが笑った。リーンハルトもまた、アリステアの跳ねた鼓動に気づいている。それがたまらなく、嬉しいような、恥ずかしいような。 「お前が花言葉、などと言うと奇妙に聞こえるだけだ」 「一応は貴族のたしなみ、とやらですか。一通りは心得てはいますよ」 「ほう?」 「知らないと馬鹿にされますからね。面倒ですが」 「そんなことも……ないと思うのだが」 「マルサドの神官は武術一辺倒になりがちですし。それをからかわれるだけならばまだしも、陛下の従弟でありながら、と言われるのは嫌ですから」 何をしてもどうあっても噂の的にならざるを得ないアリステアだった。いまも、昔も。おそらくは今後も。肩をすくめてアリステアは腕を離す。リーンハルトはそれに不満顔。 「執務を片づけてしまいますよ、従兄上」 長い溜息をつくリーンハルトをアステアは大らかに笑った。リーンハルトがこちらの心情を読んでいる、そんな気がした。彼ほど熱心に執務に励むものはいない。どんな貴族より多忙でありながら、どの貴族より民のことを考えている。そのリーンハルトが机に向かうのを嫌がるはずもない。 リーンハルトは先ほどアリステアが伏せた書類が何か、気づいているのだろう。だからこそ、嫌がる素振りをして、共に早く終わらせてしまおう、そんな顔をしてくれる。 ――ありがたい。 内心に呟き、己の机に戻ったアリステアは平静の顔つきのまま書類を精読しはじめた。どれほど顔色を変えまい、と思っても強張ってしまう。 それだけ、嫌な話だった。それでも聞かずには済ませられない報告でもあった。海上女子修道院で尼僧生活を送るウィリア王太后のこと。彼女の下には時折客がある、と言う。とはいえ、女性の客ならば拒むこともできない。 ――修道院長に。いや、それをしては、修道院長が。 拒め、とアリステアが言うことは実際に可能だろう。けれどそれをすれば修道院が政治に絡むことになる。今現在、すでに絡んでいるとは言えるが、只中に放り込むにはためらいがあった。 「アリステア」 「……なんです」 「もう見当がついているから口を出すがな。ウィリア殿の下に客が来ている、という報告だろう、それは」 「まぁ、そうですね。客の素性まで洗い出していますが、従兄上の方にも来ているでしょう?」 「言うまでもない。頻度から素性からきっちり調べさせているぞ」 「……考えたのですが、二度手間ですね、これ」 「そうだな。一本化するか。お前の方でやってもいいが」 「お願いします。私がするより従兄上の方が問題が起こりにくい」 同じだがな、呟いてリーンハルトは肩をすくめた。お互い手の者が同じ情報を持ってくるならば、どちらかでいいだろう、ここに及んだならば。空いた手で他のことをさせたい。リーンハルトの望みをアリステアは容れる。 「止めるならば、私がするぞ?」 「私がしてもいいのですが……止めると、影に隠れるだけでしょう。その際誰が危険になるかと言えば」 「修道院長だな。ただでさえ面倒を持ち込んでいるのだし……」 む、とリーンハルトが口をつぐんだ。おそらく、とアリステアは考える。修道院長はかまわない、と言うだろう。だからといって、神聖な場を荒らす気にはなれない。そう考えるのはやはりアリステアが神官だからだろう。 「まだウィリア殿に期待をしている貴族、というのは洗い出してあるのだが」 「私に愛想を振りまいて来ているのもいますよ」 「第二のアントラル大公にしようとしているのかな?」 でしょうね、と肩をすくめるアリステアにリーンハルトもまた肩をすくめる。この強固な信念を持つ男をあのような惰弱な大公と一緒にして欲しくはなかった。 「元アントラル大公からは何か聞けましたか」 「まぁ、色々とな。そろそろ気がおかしくなりつつあるから、処分してもいいような気がしないでもない」 「正気のうちに処刑したほうが効果的ではありますからね」 何を見てもわからない状態になってしまってからの処刑では効果が薄い。逆にそれをすればリーンハルトの方が苛政の王、と言われかねない。 「いや、泣きわめく類だ。それは問題ない。処刑台でも盛大に悲鳴を上げてくれることだろうよ」 「……従兄上」 「お前を巻き込んだことを私は生涯許さんよ」 光る昏い蒼の目。王として内乱を起こされ、玉座を窺われるだけならばまだしもだ。そのようなものは国王の宿命とも言える。だがしかし、アントラル大公とスクレイド公爵夫人エレクトラ、王太后ウィリアは結託してアリステアを巻き込もうとした。彼らが立てる正当な王として。それを断じて許す気はないリーンハルトだった。 「それを私情、と言うのです」 「だからなんだ?」 「従兄上!」 「そのくらいは許せ。偶々、図らずも私の思いと、王の責務が合致した、それだけのことだろう」 「偶然にもほどがありますが」 「実に珍しいことだと思うよ、従弟殿」 しみじみと言ってのけたリーンハルトにアリステアは吹き出した。ついに、負けさせてくれた。ありがたくて、思わず笑みが浮かぶ。度々このような無茶をする男ではないことはアリステアが一番よく知っている。それを知っているからこそ、リーンハルトは時折こうして無茶を言うのだろうとアリステアは思う。 「私的な思いをもう一つ言うのならばな、アリステア。あの日のロザリンドの言葉を覚えているか?」 忘れられるはずがない。様々なことを語ってくれたリーンハルトの長女。惨い話をほんのりとした笑みに包んだ少女だった。 「ロザリンドのこともある。マルリーネのこともある。子供たちのために、テレーザを投獄したのはよいことだったと、私は思わざるを得ないのだよ」 「従兄上……」 「お前を嫌うのは結構。そこまで止める気は私にもない。だが娘に自分の嫌うものを嫌えと? いったいどんな無茶を言うのだ、あの女は」 吐き出すような口調のリーンハルトにアリステアは驚く。ここまで口汚くテレーザを罵ったのは実にはじめてだった。自分のせい、自分たちのせい、そう言い続けているアリステアとリーンハルトだ。だが、娘のためにリーンハルトは怒りを見せる。こればかりは自分のせい、とばかりは言っていられないと。 「アンドレアスも、言われていたのかもしれないと思うと。腸が煮えるわ」 アリステアは口をつぐむ。レクランより聞いていた。アリステアの眼差しにそれを読み取ったのか、昏い目が不穏な色を宿した。 |