話がしたい、と言うロザリンドだったが、これほど遅くなってからでは体に障る。リーンハルトは渋い顔をし、それに娘ががっかりとしたのを見澄ましてから。 「では共に参ろうか、姫君」 そう言っては外套に包んだままロザリンドを抱き上げた。ぱっと顔を明るくする娘にリーンハルトも目を和ませる。 恐縮する侍女と共に、ロザリンドが暮らす群星館まで戻った。ここでロザリンドは、妹のマルリーネとまだ乳飲み子の末の王子と共に起居している。すっかりと陽も落ちてからの王女のお戻りに、他の侍女たちが立ち騒いでいた。それにはロザリンドも困った顔をする。 「私が言いつけたのだから、叱ってはいけないわ」 もっと早くに戻るようロザリンドを促すべきだった、と年長の侍女に叱られている侍女が可哀想になってしまったのだろう。ロザリンドは言う。だがアリステアは差し出口ながら、と口を挟んだ。 「ロザリンド姫は、過日の事件をご存じですか」 「はい。お父様とお兄様が不埒者に襲われたのだとか」 「そのとおりです。不埒者は、陛下と王子殿下だけを狙うとお思いですか」 「あ……」 かすかに開いた柔らかな唇。ロザリンドは指先を当て、目を丸くしていた。まさか自分が、とは思ったこともないのだろう。王女であり、幼い、と思っているのかもしれないし、そこまで考え至っていないのかもしれない。 「お考えの通りです。姫もまた、危険の中においでです。ですから、あまり我が儘を言ってはなりません」 「はい――」 「姫のお言葉ならば侍女は容れてしまうものなのですよ。ご自分のお考えを通すことも必要ですが、周りの者のことを慮ることも必要です」 八つの幼子に話す口調ではない。だがロザリンドならばこれで理解する。それをアリステアは逆に、周囲の侍女たちにわからせたかった。幼いとばかり言っていては、ロザリンドの身が守り切れない。知覚力に優れたこの姫には、事情を話した方がずっといい。 「わかりました。ご助言ありがとう存じます」 にこりと笑ったロザリンドにリーンハルトは微笑みの中で驚いている様子だった。娘がここまで、とは思っていなかったのだろう。アリステアは噂話の一環、として知ってはいたが、やはり驚いてもいる。 「では、我が儘を一つ」 再びにこりと笑ったロザリンドは、お父様とお喋りがしたいの、と侍女に甘えて見せた。それには仕方ない、と笑みを見せる侍女たち。あっという間に全員が下がっていった。 「……ロザリンド。少々やり過ぎだと思わないのかね」 「でも、聞いてくれるのですもの」 くすりと笑う姫は、けれどリーンハルトの膝にいる。こうしているとただの父娘だった。容姿が一番似ているのも、ロザリンドかもしれない。美しい金の髪に、深い蒼の目。リーンハルトの昏さはなく、澄み切っているのだけが違いと言えば違いか。 「夕食は済んでいるのかな、姫は」 「はい。軽くいただきました。あまり、食べたくなかったの」 「それはどうして?」 「読みたいご本がありましたし、お父様を追いかけたかったし」 「きちんと食べないといけないよ。あなたはまだ育ち盛りなのだから」 リーンハルトの手が娘の頭を撫でる。できることならば、そうして過ごしたいのだろうな、と思わなくもない、アリステアは。家族に囲まれて、当たり前に過ごす、などアリステアもリーンハルトも経験がない。だからこその憧れがないとは言わない。 「……聞いてくださる、お父様」 膝から下り、きちんと自分の椅子に座り直したロザリンドだった。これはかなり深刻な話題だ、と二人は顔を見合わせた。ロザリンドを幼少だとは思わない方がいい。背筋を伸ばした二人の前、ロザリンドは眼差しを落とす。 「リーネから、お母様のこと、聞きました。リーネはお母様がよい子になったら戻ってくるの、と喜んでいるけれど」 「あなたは違う?」 「えぇ、お父様。……お母様は、ずっと私に」 ふ、と視線を上げ、ロザリンドはアリステアを見た。それから哀しいような目をする。幼い子供の目にそのような色が浮かぶのは見たくない。 「スクレイド公は好かない、嫌いだと仰せだったの」 「……わからないでもない」 「でもね、お父様。それだけじゃないの。お母様は、だから、私にも嫌えと仰ったの。ご自分が好きではないものは私も嫌って当然なのですと、仰せだったの」 リーンハルトは息を飲む。アリステアは言葉もない。幼い姫に、ではなくとも言うべきことではない。娘と母は距離が近いもの、とは言う。だが二人は別人であるのは当然だ。母が感じることを娘が感じる必要などどこにもないものを。 「私が戸惑っていると、お母様はいつもお怒りになられて。でも、私、いつも答えられなくて」 スクレイド公爵アリステアをそれほど知りもしない。知らないものを嫌うことは難しい。幼いロザリンドであったけれど、彼女はそう考える姫だった。素直に母が嫌いならば私も嫌い、と言えたならば彼女は苦しむこともなかっただろうに。 「気がついたら、お母様は白鳥亭にお移りになられて、あまり会えなくなって。私、会いに行きました」 なぜだろう、と思ったのだとロザリンドは言う。王宮を出て、離宮に、それも夏の水遊びに使う離宮に移る理由がわからなかった彼女だった。けれど。 「お母様、会ってくださらなかった」 「それは……」 「面会の申し込みは、していたの。そのときには訪問のお許しが出たの。でも……行ってみたら、お帰りくださいって、侍女が出てくるだけで、お母様は。――お母様の姿は、見えたのよ、それでも」 池に張り出した露台から水を望んでいた貴婦人の姿が見えた、とロザリンドは言う。間違いなく母で、その傍らにはエレクトラがいたと。 「お母様も私にお気がつかれたの。――でも、すぐどこかを向いてしまわれた」 会いたくない、との無言の拒絶。ロザリンドは黙って戻るしかなかった。自分の後ろでなんと惨い、ロザリンド付きの侍女が涙を飲んでいるのも見ていた。だから、ご都合がつかなかったのね、と笑うしかなかった、彼女は。 「ロザリンド――」 リーンハルトが椅子から下り、娘の前に膝をつく。そのままぎゅっと抱きしめる彼の目に涙があった。父にしがみつくのかとアリステアは思った。だが、逆にロザリンドが父を静かに抱き返す。 「大丈夫です。お父様、私なら、平気です」 耳元に、娘の幼い声。リーンハルトは何を言うこともできなかった。国が荒れるより、痛みを覚える。傍らにやってきたアリステアが、無言でロザリンドの手を取る。 「姫――」 「おじ様も。どうか、そんなお顔をなさらないで。私なら平気なの。お母様はやっぱり、あの時すぐにおじ様を嫌いと言えなかった私をお拒みになるのだな、と思っただけなのだもの」 「だが」 「私、子供らしくないのですって。お母様はご機嫌がよいときには第一王女として相応しい、とお褒めくださったけれど、ご機嫌がよくないときには、あまりいい言い方をされなかったもの」 ちらりとアリステアを見て笑うから、アリステアに似ているとでも言われたのかもしれない。リーンハルトの子であるとテレーザが一番よくわかっていながら、それでもアリステアの方の血の発現を見てしまったのかもしれない、従兄弟としてある二人だから。 「姫には何の罪咎もないことを……そのような……」 「お母様にはきっとそうではなかった。私がどうであっても。おじ様がおいでだ、というだけで、だめだったの、きっと」 だからマルリーネの言葉にはうなずかない、ロザリンドは言う。母は変わらないし、戻ることはない。逆にそれに安堵した自分が哀しいとも彼女は言った。 「私、おじ様とはあまりお喋りしたことはありませんでしたけれど。でも、お兄様のところには時折おいででしたでしょう?」 「えぇ」 「そのときに、お見かけしたことがあったの。レクラン、でしたか。おじ様のお子。お兄様とレクランが一緒にいるところも何度も見ています」 マルリーネと違って共に遊んで、とは言いにくかった、とロザリンドは含羞む。そんな娘の言いぶりに少しリーンハルトも体を緩めた。そのまま再び膝の上に抱き上げて座り直す。 「失礼」 話の途中だけれど、と断ってアリステアは手を伸ばし、まだ頬に残るリーンハルトの涙を拭ってやった。目を瞬くリーンハルトの頬が赤くなる。あからさまな仕種にでもあり、娘の前だからでもある。父を見上げたロザリンドはどこか嬉しそうに笑っていた。 「お兄様たちを見ていて、レクランがあのようならば、おじ様がお母様の言うような悪い方とはとても思えませんでした」 「そのとおり、と言うには憚りがあるが……だが、あなたの目は正しいと私も思うよ、姫」 「よかった。お父様に褒めていただいたわ」 「褒めてはいないよ、事実だと言っただけだ」 くすりと笑い合う父と娘。胸の奥が痛かった、アリステアは。こんな小さな子供にまで、自分たちの起こした嵐の余波が、と思えばこそ。だがその防波堤となるべき人が与えた暴言となれば、自分たちのせいとばかりは言ってもいられなかった。 「そうだ。お父様、おじ様。こちらをお持ちになって。差し上げる」 こればかりは子供らしくぴょん、と父の膝から下りたロザリンドが窓辺から小さな鉢植えを持ってきた。濃い緑の葉の中、ふっくりと愛らしく咲く紫の花。冬の最中だというのに鮮やかだった。その瑞々しい姿に目が和む。 「これを……?」 よいのか、と言いつつリーンハルトは受け取り、娘に礼を言う。それにアリステアの目がかすかに潤んだ。 「おじ様?」 「なんでもないよ、ローザ姫」 「やっと呼んでくださった。嬉しい!」 リーネ、と呼ばれていたのがずるいと思った、ロザリンドは明るく笑う。父の下から離れ、アリステアの手を取る。じっと見上げてくるその頬、アリステアは包み込む。この無垢なものを守らねばならないと。 「普段はローザ、と呼ばれているのかな、あなたは」 「いやなお父様。ご存じなかったの?」 ぷい、と頬を膨らませて父を振り返る笑顔。二人とも強く感じる、守らねば、と。 |