秀峰宮からの帰り道。リーンハルトは少しばかり楽しそうな顔をしていた。アンドレアスの日常を瞥見することができた、それが嬉しい様子だ。そのあたりが生真面目だ、とアリステアは内心で笑む。レクランは出来過ぎた息子で、気配りをしなくとも大丈夫、と思ってしまうせいもある。
「レクランは、よい努力をしているな」
 いくら庭園を歩いているとはいえ、庭師がいることもある。リーンハルトの奥歯に物が挟まったような言いぶりはそのせいだった。
 秀峰宮でアリステアは確かめている。すでにマルサドの司教が確認したことでもあった。レクランの楯の守りの精度、強度。いずれも申し分ない。念のために父の前でやって見せよ、と詠唱をさせればレクランではなくアンドレアスの緊張の表情。
 大丈夫ですよ、とかえってレクランが微笑んではアンドレアスに照れ笑いをさせていた。そしてはじまった詠唱に、アリステアはただ一つ、うなずいただけ。まったく問題がなかった。
「ただ、なんと言うのか……。お前より、大変そうではあったな」
 それを見ていたリーンハルトの率直な感想だろう。アリステアも同感ながら、そのようなもの、としか思っていなかった。レクランは幼く未熟、その頭がある。
「どうした?」
「いえ……そのようなはずがないことにいま、気づきまして」
「うん?」
 未熟もなにもない。レクランは護身呪を発動させることができる。神官の言葉で言うならば、神の奇跡を代行できる。その上で、あの苦労ぶり。
「そう言えば、私も以前はそうだったな、と思い出していました」
 護身呪とは、離れた場所にいる相手を神の加護を以て守護する、というもの。それだけ篤い信仰と強い精神力が求められる。何より神の許しが要る。神官の方にも、かけられる相手にも。神官だけが許しを得ていた場合、発動は労を伴う。双方が神の目に適っていれば、多少は楽になる。
「……なるほど」
 リーンハルトの難しい声音。何を考えているのだろうとアリステアは覗き込む。以前ならばとてもこんなことはできなかった。いまの立場があるからこそ。ふとリーンハルトが笑った。
「レクランが、あるいは……が、どうの、ではないのですよ、これは」
「……ほう?」
「問題は、我々の方にこそ、あるのだと今更気がつきましたよ、私は」
 ひりり、とした気配がアリステアの肌を撫でる。見やるまでもない、緊張したリーンハルト。それがここまで顕著に察せられるようになっている。いままで気づきもしなかった。
「従兄上に護身呪をかける私は楽々かけているように見えるでしょう?」
「見えているな。違うのか?」
 レクランのよう、大変な思いをしているのならば。言いかけたリーンハルトはアリステアの和らいだ灰色の目に黙った。
「守護と定めし方、ということが今更ですが、理解されました。そういうことです」
 マルサド神の目に、自分たちがどう映っているのかは神ならざる人の身、アリステアにはわからない。ただ、神に認められているのだと、理解した。
「それは……その……」
 アリステアの示唆に、リーンハルトが目を瞬いた。アリステアを見上げ、そういう意味か、と目顔で問う。そのとおり、無言で返す。アリステアに戻ってきたのは苦笑だった。
「……それはないでしょう、従兄上」
「そうか? 知らずして誓約式を行っていたようなものなんだぞ? 私としては目一杯にお前を着飾らせてみたか――」
「従兄上」
「……なんだ」
「そのような無茶を仰せにならないように」
 寵臣の立場にあるだけでも波風を立てている。この上誓約式、などと言い出せばまたぞろアリステアがラクルーサの王冠を狙うと言い出す輩が出てくるに決まっている。むしろ出ないほうがどうかしている。アリステアの険しい声音にリーンハルトは無言で肩をすくめた。
「やる、と言っているわけではない。やってみたいと思っただけだ」
「思うだけに留めてください。だいたい私は着飾りたくなんてない」
「そうか? 見栄えがすると思うのだがな」
「新年の典礼にでも衣装を誂えてください。それなら許容範囲です」
「そう堅苦しいことを……」
 長々と溜息をつくリーンハルトのくつろいだ気配。実際は、誓約式などリーンハルトは想像もしていない。さすがに国王がそのような振る舞いに及べば暴挙の謗りを免れ得ないだろう。アリステアとの雑談、彼が止める、叱ってくれる、そうわかっているからこその他愛ない戯言だった。
 それにアリステアはリーンハルトの疲れを見る。平素ならば止めにまわるのはリーンハルトの方。無茶をする「スクレイド公爵」を国王はたしなめていた。自分のためだとわかっていても悪評が立つ真似は慎め、と。
 それなのにあの言葉だった。アリステアが知る以上に、リーンハルトは様々なものを抱えている。内政だけではない、ハイドリンに駐屯する軍の様子。隣国との外交。宮廷ではリーンハルトがなんでもアリステアに相談をする、と噂されているがアリステアは政治に関しての相談を受けたためしは一度もない。
 ――そうして従兄上は私を守ってくださる。
 だからこそ、自分がリーンハルトの心と肉体を守らねばならない、せめて、別のところはこの手で守りたい。その思いに、マルサド神が応えてくださった結果が、いまなのだと思う。
「アリステア。思い出したのだがな」
「なんです?」
「お前が神剣を授けられたのは、我々がこうなる以前だったと思うが」
「それが、なにか?」
 不思議そうなアリステアだった。神官としては疑問の余地のない問題らしい。リーンハルトはそんな彼の指先に軽く触れる。いかに寵臣とはいえ、他者の目がありかねない場では慎むべき振る舞い、というものもある。
「従兄上。神の目に、我々人間がどう映っているかご存じですか? まぁ、私も知りませんが。要は、神の目に人間など卑小なもの、ということです。時間の感覚すら違うのでしょう」
「つまり?」
「我が神にとって、我々はすでにあの時点でこのようにあった、ということなのだと思いますよ」
 悪戯に片目をつぶったアリステアにリーンハルトは黙った。いかにもぎくしゃくとそっぽを向く。かすかに笑ったアリステアは眼差しを追わせなかった。
「従兄上」
 だがしかし。緊張したアリステアの声音にすぐさまリーンハルトは立ち直る。顔色さえ平静に戻っていた。
「なんと……」
 リーンハルトもだが、驚きを隠せない。顔を戻した先、庭園の石の腰掛には小さな影。温かな毛皮を敷き、ふっくらと外套をまとった少女が。
「ロザリンド。いかがした、このような時間に、このような場所で」
 リーンハルトの長女だった。アンドレアスには年子の妹にあたる。父の顔を見てロザリンドは立ち上がった。
「お父様」
 八歳になる上の姫はそう優雅に腰をかがめた。編み下げにした髪が似つかわしくないほどの落ち着きを感じる。
「リーネが、お父様にお目にかかった、と申しましたから。私もお話しがしたくて」
 そう言ってロザリンドは微笑んだ。少女のよう、というよりは貴婦人のよう。アリステアはそれに相応しく礼をする。
「姫」
 軽く少女の指先を取り、唇を掠めさせる。それにはくすぐったそうに、けれどほんのりと微笑むロザリンドだった。
 ロザリンドとマルリーネは同じ離宮で起居している。マルリーネが戻ってきてはお父さまにお会いしたの、と騒ぐのをロザリンドもまた耳にした。
「こんなに冷えて――」
 冬の陽も落ちかけている。だというのに少女はただ待っていた。せめて秀峰宮に来ればよかっただろうに。
「訪問の約束はしていませんでしたもの。それに、お兄様だって、お父様にせっかくお目にかかるのに、お邪魔でしょう?」
「そのようなことはないぞ」
「姫がお風邪を召せば、王子殿下もいたく悔いられましょう」
「まぁ……」
 ふわりとロザリンドが笑う。そしてこればかりは年相応の子供のような仕種で父の手を求めた。リーンハルトは顔を顰め、冷え切った娘の体を腕に抱く。
「従兄上」
 一言だけそう言い、アリステアはリーンハルトの外套の前を留めている飾りピンを外す。なるほど、微笑んだリーンハルトは外套の中に、娘を包み込んだ。
「温かい……」
 腰のあたりに腕をまわし、けれど少女の腕ではとても後ろまでは届かない。それが父の逞しさを知らせるようで、ロザリンドは微笑む。
 無論、彼女は一人でここで待っていたわけではない。腰掛の背後には侍女が立っていた。何度も帰ろうと、またになさいませ、と言ったのだろう。侍女の頬も赤くなっている。
「従兄上、見逃してください」
「……うん?」
 何をだ、と問うまでもなかった。アリステアが自分の外套を脱いではロザリンドの侍女に羽織らせる。あっと声を上げ、侍女は言葉もない。公爵の外套をお借りした、と思えば緊張に声もないらしい。
「よいことをした」
 目で笑うリーンハルトだった。そんな父をロザリンドが見上げ、そしてアリステアを見る。少女の澄んだ眼差し、というよりなお遠くを見晴るかすような目を持った少女だった。神に愛された眼差し、と言い替えてもいい。神官としてのアリステアは彼女に深い神職としての適性を見る。マルリーネより更に。
「お優しい……おじ様。ありがとう存じます」
 ふっと口ごもり、けれどロザリンドは言う。侍女の目があるけれど、お許しくださるでしょう、眼差しが語る。アリステアもリーンハルトもそれには苦笑するしかなかった。
「できればその呼称は――」
「今だけですもの。他の方がいるときには呼びません。なら、いいでしょう?」
 マルリーネならば不安がある。けれど年齢以上に落ち着いたこの姫ならば。アリステアは軽く膝を折り、ロザリンドに一礼していた。




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