リーンハルトが不機嫌だった。マルリーネとあったときには笑顔であったのに、と思えばおかしなアリステアだ。軽くその腕をつつく。 「……なんだ」 「眉間に皺が寄ってますよ、従兄上」 「当然だろう」 リーンハルトの言い分もわからなくはない。あれほど幼い姫の耳に入る場所で噂話などするな、と彼は言いたいのだろう。 「宮勤めは娯楽の少ないもの、と言いますよ」 「だから?」 「噂話くらい大目に見ておやりになればよろしいでしょう」 「我々のことをどうこう言われる程度のことならば我慢もできるがな」 侍女たちは言うに及んでアリステアのせいでテレーザが投獄された、と姫の前で噂に興じていたのだ。そればかりは許しがたく思う。 「お前のせいではないと言うのに……」 テレーザの暴走が主原因であって、そこから二人が近づいただけ、だ。が、それを一々宮廷の全員に説明して回るわけにもいかない。結果として、アリステアが首謀者と言われていることもリーンハルトは察してはいたのだが。 「まぁ……母親に会えなくなったのは私のせい、と言われると多少忸怩たるものがありはするのですが……」 「忸怩、で済ませるな」 断固とした態度に出ればよかろう。リーンハルトの険しい眼差し。彼には、わかっているはずだ。アリステアがそのような態度に出れば宮廷の反発を招くと。それを失念するほど不快であるだけ。 「ただ……少し、嬉しい……と言うのとは、違いますね。救われた、でしょうか」 遠い目をしてどこかを見やったアリステアが来た道を振り返る。とっくにマルリーネは影もない。冬の風に当たっては、と侍女が早々に連れ戻したのだろう。 「なに?」 アリステアの眼差しに、リーンハルトは険しい顔をしたまま。その肩先に、自分のそれを触れ合わせるアリステアだった。 以前は、このようなことはできなかった。従弟として隣にあってもアリステアは常に一歩を下がったまま。親しく話していたとしても、半歩は後ろに。いまは、こうして並んでいることができる。それがアリステアは嬉しい。些細なことではある。それでも。 「姫は、テレーザ殿がよい子になったらまたお目にかかることができるから、と仰せだったでしょう?」 「アリステア」 「なんです?」 「敬語が面倒なことになっているぞ」 ちらりとリーンハルトが笑った。わかっていてやったアリステアはしてやったり、というところ。察したリーンハルトの渋い顔。それでも格段に気配が和らいでいた。 「姫がここにおいでならまた違いましょうが。さすがに常から呼び捨てるわけにもまいりませんよ」 「そうか?」 「当然でしょう?」 「……私の娘だぞ?」 お前の子も同然と思えばいいではないか。リーンハルトの無言の声が聞こえてしまってアリステアは天を仰ぐ。それはいくらなんでも無茶というものではないだろうか。 「いや……気になる、だろうな。それは。確かに。これは私が無理を言った」 「従兄上?」 「今のは私がレクランを息子と思うようなものだろう」 「いやですか?」 「うん?」 「公式に発言すると多大な問題を含むと思いますが、私的にならば別に私としては異存はまったくありませんが」 リーンハルトはエレクトラが産んだアリステアの子をどう思うのだ、と問われていた。彼を見やった優しい眼差し。リーンハルトは息を飲む。 「言われてみれば、その点に関してはまったく、とは言わんが気にはならんな」 「でしょう? でしたら私も同じです。ただ、私は公的な立場として、その発言は控えますよ、というだけのことですよ」 本心としては、公私を問わず言ってはならないことであり、アリステアは召使の一人にでも聞かれていたら、と思って冷や汗をかいていたのだが。スクレイド公爵家の当主が、王家の姫を己の子同然、と発言すればそれだけ重大な問題を孕みかねない。逆に国王リーンハルトが公爵家の嗣子を我が子同然に扱えば、愛人の子に王冠を与えるのか、と宮廷雀が騒ぎ立てるのが目に見えている。 「それで。アリステア。話がそれているぞ」 「そらしたのは従兄上ですよ。――姫が、あのように仰せになった。その明るさ、希望と言い替えましょうか。それに私は少し、救われました」 マルリーネは、わかっていて言ったわけではないだろう。「よい子にしていないとだめですよ」と侍女から言われていることを口にしただけかもしれない。 ただ、それでも彼女はそうしていればいつかは母と会えるかもしれない。母もきっとよい子になって戻ってくる、そう信じる必要すらなく思っていたのが。 いつかは。マルリーネがもう少し成長し、事の次第が明らかになったそのときには、アリステアもリーンハルトも恨まれるのかもしれない。いまは物がわかっていないだけかもしれない。 「いや、マルリーネに限って、それはないだろう。あれは……神職に相応しい娘だ」 ドンカ神の司祭から聖職に携わってはどうか、と提案があったこともある。それだけ純粋で、彼女の魂は澄んでいる。 「父としては、いまはただ無事の成長を祈るだけだがな」 神に近い子供は、神に愛でられるがゆえに早くこの世を去る、とも言う。病弱な娘にそのような短い時間を歩んでほしくはないリーンハルトだった。 「姫はきっと美しく笑顔の綺麗な大人になられますよ」 「予想か?」 「神官の勘、ですね」 からりとアリステアは笑った。リーンハルトがそれで安堵するならば、と思って言ったのではない。確かにそれはアリステアの予感。頼もしい王家の姫となるたろう、彼女は。たとえ蒲柳の質であろうとも。 「それは……嬉しいものだな」 寝込みがちな我が子を案ずる父がそこにいた。リーンハルトのそのような姿を見るのがアリステアは好きだ。中々日頃は会えない子を慈しむ父の姿。秀峰宮に向かっている間に、偶然マルリーネにも会えて今日は彼にとっても喜びの日だったことだろう。 アリステアのそんな感情が手に取るように隣を歩くリーンハルトには伝わってくる。くすぐったいようなその歓喜。よいものだ、とつくづく思う。 その中で、リーンハルトは不快をも抱く。幼いマルリーネに、もっと責められるだろうと思った。アリステアも、自分も。お母様、そう泣き出しても不思議ではない、そうも思った。 しかしマルリーネのあの言葉。彼女の希望ゆえだ、アリステアは言うけれど、リーンハルトはそれとはまた違った感想を持つ。 母親との距離。父とこうあるよう、母とも肩を接して暮らしてきたわけではない。それはそれで事実ではある。しかしリーンハルトは亡き父母をいまなお慕っている。 だからこそ幼い娘が見せたあの距離が、哀しい。その程度で済んでしまうほどにしか、愛情を注いでいなかったテレーザに対する不快と不満。リーンハルトよりは忙しくはなかったテレーザ。子供たちと接する機会は多いはずであったのに。 テレーザが欲しかったものは、なんだろうとリーンハルトはいまも時折考える。この自分の愛が欲しかった、彼女は言う。けれど、真実それとは思えない。 「従兄上?」 「いや、なんでもない。急ごうか。またぞろ誰かに捕まると執務に戻る時間になるぞ」 「……そうですね」 ふっとアリステアが口許で微笑む。追及はしませんよ、と。その代わり、いつ何時であろうとも頼ってくださいと。リーンハルトはほんのりと笑みを返した。 すでに侍従が秀峰宮には連絡をやっていた。それなのにいつになっても王が訪れないものだからあちらはやきもきとしていたらしい。 「陛下……!」 もう少し遅くなるようだったら誰ぞを探しにやろうかと思っておりました、口の中で呟くよう秀峰宮の侍女頭が青くなっている。 「それは悪いことをした。途中でマルリーネと会ったのだ」 「まぁ、姫様と。お元気でいらっしゃいましたか。先日はこちらに遊びにお見えになって」 兄と楽しく過ごしていた、侍女は言う。子供たちはそれなりに仲良くしている様子で、リーンハルトとしては嬉しい話を聞く日だった。 「アンドレアス」 待ちくたびれた様子だった王子が、父の姿を見るとぴしりと背を伸ばす。その姿を傍らのレクランがほんのりと笑った。 「父上!」 「マルリーネと遊んでやったそうだな。可愛がっているか?」 「はい。リーネはとても素直で可愛い妹です。ちょっと、体が弱いですけど……でも、僕と一緒のときにはとても元気で」 そうだよな、とレクランを覗き込む。どうやらレクランもそこには同席していたらしい。レクランは王子に返答をしてから、父親に向かってわずかに目礼をした。アリステアも無言で笑んでは目顔で礼を返す。 「リーネはレクランに懐いているんですよ。僕と遊ぶより楽しそうだった」 陛下がお越しなのだから、と勉学は一時中断した彼らだった。侍女が茶菓の支度をしては壁際に待機をしようとし、笑ったアリステアに下がるよう言われている。 「お前たちがそこにいては堅苦しいだけだろう? 久しぶりの父子の時間だ。殿下をくつろがせて差し上げよ」 大らかに笑うアリステアに、侍女たちはくすくすと笑いながらお優しい公爵様、と囁きあって出て行った。人払いをされた、とは感じなかったらしい。アリステアがしたのはそれそのものだったのだが。 「レクラン」 侍女の目がなくなるなり、アリステアの灰色の目が厳しくなる。それにアンドレアスが驚いたほど。悟っていたレクランはただ頭を下げるのみ。 「殿下のお側にあるからと言って、姫君に狎れる真似は慎め。幼くとも、お前は男で、姫は女性であられる」 「はい。僕の過ちでした」 「待ってください、おじ上! リーネと遊んでやって、と言ったのは僕の方です!」 「存じておりますよ。それでも、レクランは振る舞い方を考えるべきなのです」 アンドレアスに向かって微笑むアリステアだった。リーンハルトはその横顔を見ている。厳しい父の顔であり、公爵の顔である彼を。思わず笑みが浮かんだ。 |