秀峰宮に向かう途中だった。アリステアが幼い日々を過ごした離宮は、同じ城内にある離宮とはいえ、こうして庭伝いに行く方が早い。そのせいかもしれない。 「お父さま!」 向こうから走ってきた小さな影。幼い足がぱたぱたと音を立てる。可愛らしい外套をはためかせ、駆けてくるのはリーンハルトの姫だった。 「マルリーネ」 ふわりとリーンハルトは抱き上げる。その顔がほころんでいた。マルリーネは、リーンハルト王の三女に当たる。二番目の姫は生まれてすぐに身罷ってしまった。マルリーネ自身、あまり体が丈夫ではない。 「こんなに寒いところに出てきて、大丈夫なのか?」 後ろに従う侍女に言えば、本日はお加減がよろしいようです、と微笑む。それだけ普段のマルリーネが案ぜられるリーンハルトだった。まだたった五歳の娘だ。できれば健康に育ち、そして平和な世の中に暮らしてほしい、父として願う。 「お父さまもお元気?」 「あぁ、元気だよ。可愛い姫君」 うふふ、笑った姿は健康そのもの。冬の寒い風に当たった頬の赤さが彼女を健康に見せているのだとしても。 「お父さま、おろして」 なんだろう、と首をかしげつつリーンハルトは言われるままに下ろしてやる。そしてマルリーネは驚くべきことに今度はアリステアに腕を伸ばした。 「おじさま、抱っこして」 両腕を差し伸べてくる無垢な姿。アリステアは一呼吸以上もの間、動けなかった。マルリーネは、テレーザに似ているわけではない。どちらかと言えば、リーンハルト似だ。それでも、不思議と。慌てて首を振る。 「ご機嫌よう、マルリーネ姫」 言えば、ぷっと頬を膨らませた童女だった。おじさま、などと呼ばれて動揺しているアリステアだというのに、リーンハルトはからりと笑うだけ。 「それと……私のことは――」 いままでそのように呼ばれたためしがない。父の従弟、と聞いていてもさすがに五歳だ、理解まではしていない、だろうとアリステアは思うのだが。レクランが五歳当時のことを思い出そうとしても、あまり記憶が定かではなかった。 「お兄さまの嘘つき」 ぷい、とそっぽを向く娘の頭に手を置いて、リーンハルトがたしなめている。人を嘘つき呼ばわりなどするものではない、と言って。けれどマルリーネは機嫌を損ねたまま。 「だって、お兄さまは言ったもの。スクレイド公をおじさまって呼んだら、リーネのこともきっとお名前で呼んでくれるって」 「アンドレアスが……」 娘の言葉に父親が笑い出す。侍女が申し訳ありません、と青くなって頭を下げているが、彼女に責任は一片もないだろう。 「だ、そうだが?」 ちらりとこちらを見やってきたリーンハルトにアリステアは観念する。だが、やはり素直に手を伸ばしにくいのは幼い女の子、と思うせいかもしれない。壊しそうで怖い。 「……おじさま。抱っこして」 もう一度唇を尖らせてくるマルリーネに、父の姿を見た。甘え上手なのはリーンハルトに似たのかもしれない。アリステアは大らかに笑う。この父娘には負けておいた方がずっと楽しい。 「そんな顔をするものではないよ、リーネ」 ひょい、と抱き上げれば父の腕より高らかと上がる、と童女は歓声を上げる。幼い響きが澄んでいて、この姫のためにも平和な国に戻さねば、アリステアは強く思う。 「お兄さまの言ったとおり! 嬉しい。リーネって呼んでくださった」 「リーネのお兄さまは嘘などつかないが。お兄さまは一つ、言い忘れをしているよ」 「なぁに?」 「だぁれもいないところなら、とお約束してくれるなら、次もリーネと呼んであげよう」 顔を寄せ、囁き合う小さな姫と屈強な公爵。リーンハルトは隣に佇みながらつい苦笑した。面白いものだと思う。世界は日々新しく、様々なことが起こるものだと。よもや我が娘に嫉妬する日が来るとは思いもしなかった。 「……従兄上」 「うん?」 「なんでもありませんよ」 にやりと笑ったアリステアに、さては感づかれたか、とリーンハルトは苦笑する。侍女は素知らぬ顔をしているだけで、たぶん気づいているはずなのだが。アリステアこそ苦笑した。 「リーネ姫はこれからどちらに?」 「お夕食の前に、少しだけお散歩したいって言ったの。とっても綺麗でしょ?」 景色が、ではない。アリステアの、いまは腕に座らされた彼女だった。それがまた嬉しかったのだろう、目がきらきらと輝いている。そして彼女は自分の外套の裾を摘まんで見せた。 「可愛いでしょう? 新しいのができてきて、着てみたかったの!」 「とってもよくお似合いだよ」 「おじさまも素敵よ」 それはありがとう、アリステアが笑っていた。くすくす笑う童女と屈託のない顔をしたアリステア。景色としては美しいが、とリーンハルトは思う。その思いが吹き飛んでいくようなことを娘は言った。 「ねぇ、おじさま。お父さまのことが好きって、ほんとう?」 侍女が卒倒しそうな顔をしていた。その気持ちはよくわかるリーンハルトだった。端然としているアリステアを素晴らしいと思う。 が、アリステア自身はそうでもない。内心で冷や汗をかいていた。顔に出にくいのは、単に鍛錬の問題だ。軍神の神官戦士ともあろうものが動揺をあらわにするのは恥以外の何物でもない。 「本当だよ」 「ふうん?」 「おや、リーネは信じてくれないのかな?」 「だって……。お父さまは?」 「マルリーネ。そういうことは大人は人前では言わないものなんだよ」 軽い頭痛を覚えるリーンハルトをアリステアはからからと笑う。腕に座った童女が一緒になって笑う。そして彼女はアリステアを覗き込んだ。 「おじさま、お父さまのこと、好き?」 「もちろん。愛していますよ、従兄上」 「……そういう言われ方をして嬉しいと思っているのかね、お前は」 「なんと残念なことを仰せか。こんなに思っていますのに」 冗談口に紛らわせた本気が透けた。それこそ寵臣の地位に立ってから、アリステアが人前で仮に軽口の類だとしても、このように断言したことなど一度もない。逆に以前の従兄弟同士のままならば、あったのだが。愛する従兄上、と呼ばれていた記憶は遠い。いまは意味が少し、変わっている。同じように口にしていたとしても。それがリーンハルトには気恥ずかしいような喜びだった。 「なかよしね?」 「仲良しだよ、可愛いお姫様」 「だからお母さまがいなくなったの?」 侍女の体が揺らいだ。咄嗟に手を差し伸べたリーンハルトの手に彼女は縋る。真っ白になったその顔。わななく唇。縋った手が国王のものだと気づいてもいない。 「リーネがお母さまに会えないの、おじさまのせい?」 「あぁ、私のせいだ」 「やっぱり――」 侍女を庭石に腰かけさせたリーンハルトだった。そしてそのまま娘の腕を掴む。童女は痛そうに顔を顰めた。 「従兄上。そんなにしたらリーネが痛がる」 「だが」 「従兄上がどう庇ってくださろうとも、妃殿下暴走の原因は私にある」 「違う!」 高くなった父の声にマルリーネは目を丸くした。日々接している、と言えるような父娘ではない。それでも、こんな父の姿を見たことはない。怯える彼女をアリステアはしっかりと抱いていた。 「リーネはお母様に会えなくて、寂しいね」 そう思える母であったことが、マルリーネのために嬉しいアリステアだった。こくん、とうなずいた童女に詫びてはならないと思う。謝罪だけは、してはならない。 「でもね、お兄さまも遊んでくださるし、みんなもいるし。リーネは平気よ」 「もし――」 「お母さま、悪いことをしたんでしょう? それで牢屋ってところに入れられたんだって、聞いたの」 いったい五歳の姫の耳に入るところで誰が何を言ったのか。リーンハルトの眼差しが険しくなる。少しは顔色の戻った侍女がまたも青くなった。 咎められないな、とアリステアは内心で苦笑していた。侍女たちの噂話好きは今にはじまったことでもない。マルリーネがまだ幼い、と思えばこそ、聞いているとは思わずにお喋りに興じたこともあるだろう。 まして、国王を王妃から奪い取った男がいるのだから、この王宮に。娯楽の少ない城勤めとあっては、噂話くらいしか楽しみはない。 「お母さまがよい子になったら、またリーネは会えるんでしょう?」 「それは……わからない。テレーザが『よい子』になるとは、私には思えないよ。マルリーネ」 「お父さまはそうおっしゃるけど。でも、リーネも悪いことして叱られたらごめんなさいをするわ。そうしなさいって教えてくださったのはお母さまだもの」 だからきっとまた会える。マルリーネの言葉にリーンハルトとアリステアはほんの少し、救われたような気がした。同時に酷く痛んだ気もした。 「それにね、リーネ。おじさまも大好きよ? お父さまより抱っこが高いんだもの」 「だ、そうですよ。従兄上」 「なんと聞き捨てならないことを。よい、マルリーネ。おいで」 アリステアの腕から娘を奪い、リーンハルトは高らかと抱き上げる。驚いて丸くなった娘の目。澄んだ青の、儚いほど美しい目をしていた。 「すてき! お父さま、すてき!」 「マルリーネ姫は私とアリステア殿と、どちらがお好みかな?」 「うーん。おじさま!」 娘の言葉に拗ねて見せたリーンハルト、再びマルリーネを抱き取ったアリステアが笑う。二人の間に挟まれて、彼女は幸福そうに笑っていた。 「そろそろ寒くなってきたよ、リーネ。もうお部屋に戻ろうか」 「まだ……もうちょっと。だめ?」 「だめ。お風邪を引くよ、可愛い姫君」 「アリステアの言う通りだぞ、マルリーネ。温かくして休みなさい」 はい、と言いつつ不満そうな顔をしていた。まだまだ遊びたいとばかりに。侍女の手に返せば、顔が上げられないのだろう彼女だった。並びかけ、そっとその耳にアリステアは囁く。 「気にせずともよい」 侍女の手が強張ったのに、マルリーネは彼女を見上げた。繋がれた手が痛いほど。無言で頭を下げる侍女に連れられ、マルリーネは笑って二人に手を振った。 |