レクランはあれ以来、秀峰宮で起居している。国王暗殺未遂という事態の重さを鑑みて、スクレイド公爵の嗣子がアンドレアスの傍らにある事実はさほど重大には取られなかった。むしろ見習い神官でもあるレクランが側にあるのは――何もできないとしても――安心だ、と見る向きもあったほど。 司教はすでに何度かレクランの様子を見に行っている。王子のご機嫌伺い、という形にしてはあったが。その際レクランの護身呪を確認もしていた。 ――なんと言う。王家は我が神の加護を受けているのか。 それほど強力な護身呪を、いまだ見習いでしかないレクランが発動させている。素晴らしい技量、と魔術師ならば言うだろう。が、司教はなんと篤い信仰かと感嘆する。実際レクランの教義における理解度は熟練の神官を唸らせてもいた。 「とても、見習いにしておくべき人材とは思えませぬが」 それとなくアリステアに位階を勧めることを提案したけれど、父としてありがたくは思うが事件の決着がつくまではどうか、と頭を下げられた。 そのあたりがスクレイド公爵父子のよいところだ、と司教は考えている。むしろ、好感を持っている。高い地位身分にありながら、彼が第一に考えているのは国王、あるいは王子のこと。一身を捧げ王室を守ろうとするその姿。だからこそ、マルサド神も厚い加護を下すのかもしれない。 そしてレクランが秀峰宮に起居するのなら、彼を守護する騎士ニコルもまた。いままでは城の待機所にいたものが、レクランが城下町に下がらないとなると秀峰宮に赴かざるを得ない。そのような形を取って、ニコルもまたアンドレアス守護の任につく。リーンハルトより直接に、内々ではあるが、と依頼をされたときの感激ぶりと言ったらなかった。同時にアリステアは思い出している。 ――ダニールよ。見ているか。 ニコルが弟のように愛していた、殺された騎士の名を内心に呟き指先が聖印を小さく描く。それだけは、何がどうあろうともアリステアは許せない。レクランが誘拐されたことよりなお、そちらの方がより痛んでいると言っても過言ではないほどに。 「アリステア」 執務に忙しいリーンハルトだが、アリステアが共に執務室に詰めるようになってから、こうしてしばしば声をかけている。 「どうしました?」 それは同じ多忙な従弟が自分以上に神経を尖らせていると知っているせいだった。時折は雑談でもさせないと、いつか切れそうで、それが怖い。 「少し時間があるか?」 「なくても作りますよ。どうなさいました?」 悪戯っぽい彼の口調。作られたもの、とリーンハルトは気づいている。気づかれていることにアリステアもたぶん、気づいている。 「ご容赦ください。もう、自分でもどうしようもない」 「わかっているさ。だからな、従弟殿。少し息抜きをしようか」 「もちろんですとも」 すらりと立ち上がり、アリステアはリーンハルトの下まで進み出てはその椅子を引く。傍らに待機していた侍従がする暇も与えない。それでいて優雅極まりない仕種だった。 「それで、どちらに?」 庭園を散策でもしたいのだろうか。これで意外とリーンハルトは花々を愛でることを好む。季節の移り変わりすら忘れかねない執務室とあってはそれだけが慰めでもあった。以前アリステアが神殿から送って寄越した手紙につけられていた香草の一枝はすっかり根付いて小さな鉢に植え替えられ、この執務室の窓辺を飾っている。立ち居のたびに仄かに香るそれで心慰めている、慰めなどそればかりの王だなど貴族は夢にも思わないに違いない。 「いいや。たまには息子の顔でも眺めに行く、というのもよいものかと思ってな」 小さくリーンハルトが笑う。心得た侍従が人を呼びに行こうとするのをアリステアが留めた。護衛ならば自分がする、と言って。 「かしこまりました。では、知らせだけあちらに」 「頼む」 「お任せくださいませ」 静かに微笑んだ侍従が退室して行った。本来ならば同じ城中とはいえ、国王の臨御だ、ぞろぞろと侍従や女官がついて歩くのだが、リーンハルトはそれを嫌う。 「いいのか?」 ふわりとその肩に外套を羽織らせ、アリステアは肩をすくめた。わずらわしいのだろう、彼も。そう思ったリーンハルトだったが事実は違う。 「従兄上一人を守ることならば容易い。従兄上自身、戦う術がありますしね。ですが、剣も持てない侍従や女官が大勢いては、守れるものも守れない、そういうことです」 「なるほど――」 「従兄上だけならば、命に代えても守って――」 リーンハルト手ずからアリステアに外套を着せていた。それこそ女官が見れば卒倒しかねない。二人きりだからこそする甘い仕種。 だがしかし、リーンハルトはぐい、とアリステアの耳を持っては引き寄せる。まるで子供を叱るように。 「今、なにを、言った? 従弟殿」 「……ですから」 「お前は、お前に守られて、私一人が残されて、それで本当に幸せだと、ありがたいと思うと、思っているのか?」 「従兄上――」 「お前の方が腕は立つ。神剣もある。お前に守ってもらうことに否やはない。だが、死ぬな、決して。私を一人にするな、断じて」 「はい――」 そっと腕にリーンハルトを抱く。仕方ない男だ、と言わんばかりのリーンハルトの腕が背中にまわり、なだめるようぽんぽん、と叩いてくれた。あまりにも子供扱いされてつい、アリステアは笑い出す。 「そう子供扱いせずともよいでしょうに」 「聞き分けのないことを言うからだ」 「また、そうやって……」 文句を言いつつ執務室を出れば、侍従が揃って見送ってくれた。アリステアは察していたのだろう、すでに公爵の顔に戻っている。器用な男だ、と思ったけれどリーンハルト自身、似たようなものではある。 「陛下、お言葉を返すようですが一言だけ。よろしいですか?」 城の廊下を行くときのアリステアはいつもこの調子だった。侍従たちは執務室での日常を見慣れはじめているのだからよいだろうに、と思っているのだが、雑にせよ、とも言い難いリーンハルトだ。 「いかがした?」 リーンハルトもまた、こうして国王としての顔を作るようになっている。以前は意識していなかった気がする。いまは意識的にしている部分が無きにしも非ず、というところ。 「私の方がより技術に優れている、とお褒めを頂戴しましたが。誤解です」 「そうか?」 「陛下に勝てたためしのない私ですから」 にこりとアリステアが笑った。行き会った貴族たちが頭を下げる中、そんな会話をしている二人だった。またいずれ、この話が噂の的になるだろう、とリーンハルトは思う。 マルサド神自らが武芸優れたる我が神官、と認めたスクレイド公爵が、国王に勝てないのだと。リーンハルトを讃えるのか、アリステアを貶すのか、微妙なところだった。 「お前は本気で立ち合ってくれるからな。それを私は嬉しく思う」 「手加減など、それこそご無礼に当たりましょう」 「と、私も思うのだがな」 にっとリーンハルトが笑う。貴族との立ち合いでは、リーンハルトは常に自分より弱い相手に手を抜かれ続けている。そういうものではあるけれど、苛立たしくもある。 秀峰宮への道は、二人にとって懐かしい道だ。幼いころ、よく遊んだ場所がそこここにある。アリステア王子とリーンハルト卿だった時代の彼らの遊び場だった。 冬の寒さ厳しい折とあって、木々は葉を落とし、花もほとんど咲いていない。だが冬にだけ咲く色の深い花もある。その趣き深い色合いがリーンハルトは好きだった。 「あぁ、咲きましたね」 「うん?」 「降臨花ですよ」 ちょうど降臨祭のころに咲く花、としてそう言われてきた、渋い色をした花だった。下向きに咲くその姿は慎ましく、恥ずかしがり屋の庶民の乙女のよう。城のものは陛下に色ある庭をとの庭師の努力の結果か、まだまだ降臨祭の時期には間があるというのに咲きはじめていた。 「そう言えば……降臨祭を祝わなくなって、どれほどになるのかな」 「さて。記憶にありません……というより、文献を当たらねばならないほど、ではありましょうね」 「やはり、魔族の横行、というより、シャルマーク、かな。原因は」 「我ら人間をお助けくださらなかった神人、と民が恨んでも仕方ないことだと私は思いますよ」 「神官が言うか?」 「神官だからこそ、言うのですよ」 一時はそれでずいぶんと信者も減ったとアリステアは文献で知っている。降臨祭が行われなくなったのと同じほどに古い話でもあったが。 「助けてほしいときに手を差し伸べてくれない神など。そう思うのは致し方ないことだと思うのです」 「……王も、同じだな。必要なときに伸ばせる手を持ちたいものだ」 「従兄上はそう努力しておいでですよ。これ以上はお体を損ねます。ご自愛くださいますように」 ぴしりと言うアリステアだったが、笑っていた。リーンハルトは思わず冷たい目で彼を見る。その心得が必要なのは自分ではなく、アリステアの方だと思えて仕方ない。 「私は手を抜くときには抜いていますよ」 「そうは見えん」 「見えたらおしまいですからね」 にやりと笑う。だからたぶん、抜いていないのだろうとリーンハルトは思う。アリステアは抜いている、と主張しても実際は違うのではないだろうか。彼の騎士グレンに尋ねてみたい気がした。 「冬の庭もよいものだ」 リーンハルトは庭園を歩きつつ呟く。風は冷たく、肌を切り裂きそうだったけれど、隣にアリステアがいる。 「従兄上はどの季節がお好きです?」 問われてきょとんとしてしまう。その気を抜いた眼差しがアリステアの喜び。日々どうにもならないものばかりを抱え続けるリーンハルトの、時折見せる鬱屈のない表情。自分の、自分だけのものだと思えば気恥ずかしい。 「さて。お前は?」 「春は芽吹きが美しいものですし、夏の陽射しは恋しい。秋の実りは豊かな気持ちになりますし、冬はこうして冷たい中にも独特の美がある。いずれとも決めがたく思いますが……。でも、春が好きかな」 「では私も春を好むことにしようか」 「ずるいですよ、従兄上」 「どこがだ?」 リーンハルトは笑っていた。アリステアが春を好む理由を悟った。幼い二人がはじめて出逢ったのは、爛漫の春の日だった。 |