事件の詳細が発表されるなり、王宮は震撼した。国王が、その宮殿で暗殺者に襲われるなど。いまだかつてあり得ない、とは言わない。だがしかし。
 貴族たちの動揺は深く激しい。誰もが「首謀者は誰だ」と探しはじめる。密やかに。だが発表は語らない。リーンハルトも黙して語らず。
「まだなにもわからない、ということか――?」
「いや、陛下ならばそのようなことはあるまい」
「ならば、なぜ」
 人が集まればその話題で持ち切りだった。無論、スクレイド公爵の言動も話題の的だ。事件現場に居合わせた公爵の自作自演を疑うものも確かにいた。寵臣の地位を確かなものにするために、と言った輩。ほとんどの貴族が一蹴する。国王の従弟にして公爵家の当主、今更画策の必要はない。むしろ害になる。
「だが――」
 密やかな囁き声。原因はアリステアが執務室を移したことだった。それも国王執務室に、自らの執務机を持ち込む、という形で。
 アリステアは不機嫌だった。あれ以来、神経が張り詰めている。侍従たちもそんな彼の姿に普段よりは遠巻きにしている。
 彼はいままで、この立場になってからも頑として城に用意されたスクレイド公爵家の部屋を使い続けてきた。奢侈は慎むべき、と言い張って。
 それなのに、この突然とも言える振る舞い。国王の執務に介入するつもりかと言われても反論がしにくいほど。いままでもアリステアが施政に口を出しているのではないか、との疑いはあったのだ。リーンハルトはそのたびに笑い飛ばしていたのだけれど。
「――従兄上の尊厳が汚されている気がするわ」
 国王執務室に自分の机が運び込まれるのを見つつ、アリステアは吐き捨てる。彼の机、と言っても公爵家の部屋で使用していたものではない。更に簡素な、官吏の事務机と大差ないような代物。机の上で字が書ける、その程度のものだ。侍従など、本当にこれか、と疑ったほどの、言ってみれば粗末な机。いまの発言で、侍従たちは納得した。
 こうして自分などがリーンハルトの傍らにあること。一介の臣下に過ぎない身が国王執務室に存在すること。あってはならない事態だ、とアリステアは苦々しい。
 侍従の誰がそれを漏らしたものか。貴族の間にあったスクレイド公爵の専横、という発言は次第に影を潜めて行った。その間リーンハルトは何一つとしてしていない。何ら手を打つことなく静観していた。それがアリステアを守る、と彼は知っている。
「お前が常に私の傍らにある大義名分ができたと思うがいい」
 執務をしながら不意にリーンハルトが呟く。アリステアも自らの机についていた。スクレイド領は内乱で荒れている。嫌と言うほど問題だらけだ。リーンハルトの守護に全霊を注げば、民が飢えかねない。
「なんです、急に」
 ぼそりと言うのは、それだけ不機嫌なせい。侍従がいるのも忘れているのか、アリステアはぶっきらぼうだった。
「貴族の間で色々と言われていただろう。ずいぶんと静まった様子だが」
「聞いた覚えがありませんが」
「聞こえる余地もなかった、ということかな。従弟殿」
 顔を上げれば執務机の向こう、リーンハルトがにやりと笑っていた。傍らに立つ侍従が微笑ましげに二人を見ているのに、アリステアはばつが悪い。思わず空咳をすれば、リーンハルトが笑った。
「切りのいいところまでやってしまったら、休憩にしようか」
 アリステアを誘う国王に、侍従のほんのりとした眼差し。多忙に過ぎる国王が、公爵だけはこうして誘う。陛下の休息になる、と侍従にとっては喜びだった。
「従兄上のお言葉です。仕事など片付けますとも」
 ふっと笑ったアリステアが書類を横に追いやった。あとでグレンに渋い顔をされるかもしれない、リーンハルトは内心で肩をすくめるけれど、アリステアとの休憩を諦めるほどではない。
 では、と下がった侍従が女官に茶を言いつけるだろう。思ったとおり、ほどなく女官が茶と菓子を持って現れる。こうしてアリステアが机を持ち込んでから、わざわざ居間に移動して茶にする、ということがなくなってリーンハルトは面倒が減った、と喜んでもいた。
「無精ですよ、従兄上」
 休憩の間は余人を挟まない。執務室であっても、二人きりに戻る。おかげでアリステアもほっと息をついていた。
「いいだろう、別に。私は楽になったぞ」
 言いながらアリステアの傍らにと彼の方が移動する。そして目も向けずに机の上の書類を裏返して脇へと追いやった。
「別に見てもかまいませんよ?」
「礼儀、というものだろう、公爵殿?」
「我が領地と雖も、陛下の国に変わりはありませんよ」
 にやりと笑い、アリステアは手を伸ばす。座ったままの公爵の肩、国王が手を置いては長身をかがめてくちづける。これを見れば貴族がまたぞろ何を言うか、リーンハルトの唇が笑った。
「なにがおかしいんです?」
「色々とな」
「隠しましたね?」
「多少の隠し事は色恋の隠し味になる、と聞くが」
「我々の間で今更隠し事もなにもないでしょうに」
 呆れるアリステアは少し、気配を緩めていた。リーンハルトが軽口を叩けば、アリステアは楽になる様子。暗殺事件以来、ずっと神経を尖らせ続けている彼だった。
「もう少し、気を抜け。アリステア。私も剣の使い方も知らぬ乙女というわけでもない」
「従兄上に剣を取らせるようでは守護者失格です」
「そう気張ったものでもない」
 そっと頬を撫でれば、少し削げてきている気がする。顔を顰めたリーンハルトに、自らの現状に気づいたのだろうアリステアが苦笑する。が、改める気はなかった。決着がつくまで、あるいは一生。
「アリステア」
「……なんです」
「私は従兄としてお前が可愛い。わかるか?」
「……えぇ」
「更に言うなれば、一人の男として、愛しく思っている。わかるな?」
「くどいですよ、従兄上」
「言わねばわからん男だからな、お前は。――だからこそ、私はお前を幸せにしたいし、お前に幸せにしてほしいと思っている」
 簡素な椅子の腕に軽く腰を下ろせば、わずかに軋む。もう少しいいものを使え、と言いたくなったが、アリステアは決してこれ以上のものは使わないだろう。
「お前が気を張り詰めて、肉体を損ねて。こうしてわざわざ指摘するまでもないな? お前の肩から肉が落ちているのに気づかない私と思ったか?」
「……毎晩触ってますからね」
「アリステア!」
 言うな、とリーンハルトが声を荒らげては赤くなる。それにアリステアの口許もほころんだ。それこそ、言われなくともわかってはいる。だがしかし。
「いずれ、決着はつくし、つけて見せる。だから、あまり気を張るな」
「そう言っても――」
「私にお前を幸せにさせない気か」
 アリステアは息を飲む。そこまで言われて、なんの感情も覚えないわけはない。そこまで言わせてしまった己に苛立ちすら覚えるほど。
「……従兄上がウィリア殿を守らねばならなくなった理由が増えた、それが腹立たしいだけですよ」
 ようやく白状したか。リーンハルトは内心で息をつく。何かが気にかかっている様子だったのだが、アリステアは決して口を割らなかったのだから。
「なんだ、そんなことか。理由が増えようがどうということはないだろう。いずれ、守らねばならないのは同じだ」
「ですが」
「お前の気持ちはわかるつもりだよ、アリステア」
 微笑んで、顔を顰めたアリステアに再びくちづける。そのまま目を覗き込めば、灰色の目が感情に揺れていた。
 暗殺未遂事件はシャルマーク系貴族の陰謀である、との見方がほぼ決まった状態だった。実際は逆にラクルーサ門閥貴族のそれだったのだが、リーンハルトはそこを明らかにしていない。
 だからこそ、事実を知らない、事件とはかかわりのないラクルーサ貴族からシャルマーク系を一掃すべき、否、元凶であるウィリア王太后を処断すべき。否々、いっそ襲撃して亡き者に。そこまで埒もない言が広がっている。動きはしないだろうけれど、万が一を想定しなくてはならないリーンハルトだった。酔った貴族の愚かな若者が修道院を襲撃などしては目も当てられない。
 それが、アリステアは忌々しい。我が母なればこそ、いっそ自らを処しきれいに消えろ、とまで思っている。だが、それをされては現状では困ることになる。いまウィリアが死ねば、陰謀があったと囁かれるのは火を見るより明らかだ。リーンハルトが殺したにしろ、貴族が密かに殺したにしろ。そう解釈されるのは避けられない。たとえウィリアが天寿をまっとうしたのであろうとも。
「風聞は厄介だからな。とはいえ、風が運ぶ他愛ない言葉だ。我々にどうすることもできまい」
 多少操ることは可能でも、完全に操作することはできないのが風聞、というものだ。ならばできる限りのことをして放置する、が一番かもしれない。
「ウィリア殿とは、会ったのか?」
 すでにウィリアは海上修道院に移送済みだ。アントラル大公の公開処刑を待たずして、そういうことになった。アントラル元大公には、まだまだ聞きたいことがいくらでもある。それを済ませてからとなると処刑は年が改まったのちになるかもしれない。
「会ってませんよ。会う理由もない」
 ただ、アリステアの下にウィリアから言伝があったのは事実だった。修道院に入る前に一度お会いしたい、と。ウィリア共々修道院入りすることになる彼女の侍女を介しての言葉だった。アリステアは一読するなり、手紙を焼き捨てた、物も言わずに。手紙を持ってきた使者は、そのときの公爵の形相に、二度と遣いはごめんだと呟いたと言う。アリステアは怒りを浮かべたわけではない。声を荒らげたわけでもない。それゆえに、手紙の遣いは恐怖したのだけれど。
「会えば要らん憶測をされかねないからな、お前は」
「会っても会わなくても、ですよ。冷たい息子だ、と言われましたからね」
 肩をすくめるアリステアのその肩に、リーンハルトは手を置く。それに首を傾けて頬を寄せるアリステアだった。珍しい甘い仕種にリーンハルトは目を丸くする。
「時々、お前は妙に可愛いな。従弟殿」
「……従兄上」
「国王を恫喝するものではないぞ、公爵殿?」
 にやりと笑ったリーンハルトの腕を引く。体勢を整え損なったリーンハルトがアリステアの腕に倒れ込み、けれど目が笑う。強い腕に抱きすくめられ、リーンハルトは彼のくちづけを喜んで受け取った。




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