地下牢の区画を出れば、王宮付きの魔術師が待っていた。無言でアリステアに頭を下げる。レクランはなんだろう、と首をかしげていたが、その彼をアリステアが見やる。 「レクラン。少し離れているがいい」 苦笑気味の父に、聞かせたくないことなのだと悟ったレクランは騎士団長に伴われ、少し離れた。それを確かめ、アリステアは魔術師と話し込む。 「――非常に不本意だが。治療もある程度は頼む」 「かしこまりました」 「死なん程度でかまわん」 「承りました。委細お任せください」 頼む、アリステアは言い、司教を見やる。他にはないか、と問うように。司教もそれでいい、とうなずいた。 レクランに聞かせたくない話、というのは簡単だ。現時点までアリステアの支配下にあった暗殺者を、今度は魔術師に預ける。単に預けるだけではない。真言葉魔法には下僕化の呪文、というものがある。宮廷魔導師たちはいずれも技量に優れた者達。彼らが暗殺者にははっきりと知れない形で今後は彼を支配することになる。暗殺者は、アリステアこそが己を支配しているのだと思いこんだままに。 アリステア自身は、マルサド神の支配下でもかまわない、と思っている。だが暗殺者の生命を支えるために自分の命を削り続けるのも業腹だ。致し方なく、魔術師に預けることにした。実際問題として、このままでは活動も危ぶまれかねない。非常に疲労の大きい呪文でもある。 「行くぞ、レクラン」 まずは報告だ、とアリステアは息子を呼び寄せる。この間にレクランは騎士団長と多少の言葉を交わしたのだろう。どことなく彼らの間が和やかだった。 リーンハルトは、言われた通りおとなしく待っていたらしい。そのことにまずアリステアはほっと息をつく。もっとも護身呪に抵抗があればすぐさまそれとわかるものではあるのだが。 「終わったか」 顔を顰めたリーンハルトだった。アリステアは酷い顔をしていると気づいていないのだろうか。わかっている、無言でうなずくアリステアと、できることならば直ちに二人きりになりたい。他者の目があるところでの彼は親しい会話を許すまいと思えばこそ。 「報告を」 ならば手早く済ませるに限る。そうリーンハルトが考えたにしろ、話は長くなった。国王暗殺を企む貴族がいた。史上はじめて、と言うわけではないが、だからといって慣れるものでもない。 「シャルマーク系の陰謀、と言われた方が納得がいくものを。――騎士団長、いまのは内聞の話だ。他言せぬように」 「は――」 王の愚痴に近衛騎士団長が一礼する。漏らしてはならない言葉ではあったけれど、この王にして、このような愚痴を言うのだと思えば人間味があるというもの。いっそう忠誠が篤くなっただけだった。 「シャルマーク系を一掃するための門閥貴族の陰謀、とは迂遠に過ぎる。暗殺者の言を信じていいものか?」 「信じてよいと思いますよ」 「……信じざるを得ませぬ」 アリステアと司教と。多少言葉の毛色が違う。じっと見つめれば、司教が折れた。長い溜息をつき、わずかにレクランを慮る。レクランは静かに微笑んでその場にいた。 「スクレイド公にあのように迫られれば、嫌でも話さざるを得ませぬ。真実でないことを言えばどのようになるか。私ですら、知らないことまで話したくなりましたぞ」 「司教様」 「いや、失礼。効果的ではありましたぞ、アリステア殿。単に暗殺者の言は疑えぬ、それを陛下に申し上げたかっただけのこと」 そもそもマルサド神が許したからこそ、発動している、それが神聖呪文だ。真言葉魔法と違い、いわば神の奇跡を代行する、それが神官の魔法だった。発動したならば、ゆえに神の許しがあったことに他ならない。 「――詳細を省き過ぎだが、理解はした。それで、どうすべきと考える」 昏い蒼の目が鋭く光る。司教はリーンハルトの国王として悠然とした姿しか覚えがない。騎士団長は戦場での苛烈な姿を見知っている。だが、いずれとも違う。 ――私のアリステアによくぞそこまでさせてくれた。 リーンハルトの内心の声は誰にも聞こえない。幸いだった。殊に暗殺者にとっては。 「事実は内々に秘すのがよかろうかと存じます。従兄上が狙われた、に留めるべきでしょう」 「その心は」 「申し上げるまでもない。ただでさえここまで来てしまった二派閥の貴族たちです。事実が明らかになれば、否応なしにはっきりと割れることになりましょう」 「隠然としている方がまだしも、ということだな」 「はい、陛下。派閥があると誰の目にも明らかになれば、国が荒れます。私が言うことではありませんが」 「従弟殿の提言は常に貴重だと考えているよ」 ふっとリーンハルトが微笑む。違うことを言っているのはわかっていた。スクレイド公爵領での内乱が治まってすぐだ。公爵アリステアが国が荒れるなど言っても説得力は薄い。それでもリーンハルトはアリステアの心こそを汲む。アリステアがラクルーサを荒れさせたわけではないのだから。 「スクレイド公爵閣下」 ぐっと身を乗り出した団長だった。僭越ながら、と口を挟んだ顔は青くなっている。よほどの決心がいることを言うらしい。 「出来得ることならば、陛下のお側を絶えず離れずお守りしていただけませぬか。閣下にこのようなこと、申し上げるも憚られますが――」 公爵という尊い身にありながら、護衛の真似事をしろと言う。団長も不遜は覚悟の上だった。それでも、と言葉を続ける。 「我々近衛騎士は、陛下をお守りするための騎士。ですが、常にお側にあれるわけではないのです。閣下ならば」 寝所はおろか、浴室だとて守ることができる。さすがにレクランの目を憚って団長は言葉を濁した。当のレクランは察して微笑していたのだけれど。 「了承した。私としても従兄上をお守りするのは二重に務めである。どうぞ安心召されよ」 スクレイド公爵家の当主として、王室の藩屏たる身である。同時に、武闘神官として、リーンハルトの守護は彼の義務にして権利。にこりと笑ったアリステアに団長は傍目にも明らかなほどほっと安堵していた。 「そうそう、アリステア殿。あなたがお側にあるのならば心配は要らぬかと思いますが。陛下には毎日護身呪をおかけしたがよい」 「あぁ、それは大切ですね。わかりました。忘れずかけます」 「……従弟殿」 「率直に過ぎる言ではありますが、従兄上。手間でも面倒でもない。従兄上の守りになると思えばこそです。わずらわしくとも受け入れてください」 「わずらわしいなど微塵も思わんが。従弟殿の負担にならんのか」 ならないといま言った、アリステアは微笑む。だから多少は手間なのだろうとリーンハルトは思う。だがアリステアが退くとは思えなかった。渋々とうなずけば、そんな王の姿がおかしかったのだろう、司教がくすりと笑いを漏らす。それで一気に場が明るくなった。 重荷のおりた騎士団長が一足先に下がっていく。警備のことなど態勢を整えるのが急務だと言って。リーンハルトは頼むよ、と微笑んで彼を送り出した。感激する団長が出て行けば、難しい顔のアリステアに眼差しが。 「どうした、従弟殿」 「アンドレアス殿下のことですよ」 「あぁ……」 司教とレクランのみになり、アリステアの態度は多少和らぐ。騎士団長の前では堅苦しいスクレイド公爵の顔をしていたけれど、司教はアリステアの神官としての導師であり、父代わりのようなもの、アリステアという男を司教はよく知っている。 「まだ幼い殿下に外で遊ぶな部屋に籠っていろ、と言うわけにも行きますまい」 できることならばそうしてほしいくらいだったが、それをすればアンドレアスの人格に歪みが出かねない。短期間で済むかどうかすら、わからないのだから。部屋に籠らせて、隠れて抜け出されでもしたらその方が事だ。 「私が殿下の下に赴きまして護身呪他、お守りすることもできますが」 司教が控えめに言うのは、これで売り込むなどと思われるのが嫌なせいだろう。わかっている、とリーンハルトは静かに微笑んでいた。 「それで――」 行こうか、リーンハルトが言いかけたとき、ふとレクランに目が留まった。何か言いたそうな、けれど口を挟むべきではないと控えているその姿。促すべきはリーンハルトだった。 「レクラン。提案があれば言うがよい」 「ですが――」 「従兄上のお言葉だ。従うのもまた臣下の務め、と言える」 にやりと笑った父にレクランは含羞む。それから司教を見つめては深々と頭を下げた。司教が首をかしげるのは、謝罪の理由がわからないせい。 「僕に、アンドレアス様の守護を、お任せいただけないでしょうか」 「ほう? 先ほどのよう、お前の肉体で守るだけ、というのならば許せぬぞ、それは」 「いいえ。僕は――」 ゆっくりとレクランが司教を見やり、父を見る。そして詠唱をした。暗殺者を乱暴に扱ったときのものだろう、手の甲にあった長い傷が消えていた。 「レクラン殿――」 「黙っていてすみません、司教様。実は……マルサド神のお声が聞こえたその日から、神のお声が奇跡のことをたくさんお教えくださいました」 「なんと……!」 司教が絶句していた。司教にして、神の声が毎日聞こえる、などということはない。儀式を整え、伺いを立てる。神官と神とはそのようなものだ。稀に、神御自らより不意のお言葉を賜ることはある。けれど本当に稀なこと。けれどレクランは、このスクレイド公子は。 「見習いの身で、なぜこのようなことを知っている、と問われれば、父が疑われかねない、と考えました。黙っていたことを謝罪いたします」 「当然の配慮ではあるな」 リーンハルトだった、司教やアリステアが何を言うより先に同意したのは。司教もまた、リーンハルトに遅れること一呼吸、気づいてやれなくて済まないことをした、とレクランにかえって詫びる始末。 「一通りの呪文は可能と考えていいのだな? ならばアンドレアスの守護はお前に任せよう」 「レクラン。だがお前はそれを口にしてはならない。お前はただの見習い神官だ。神聖呪文の基礎すらいまだ手が届かない。わかったな?」 にやりと笑うアリステアにリーンハルトが仕方のない男だと肩をすくめる。レクランとしては申し分ない提案だった。 |