暗い地下牢で暗殺者は一人、安堵していた。右腕を切り飛ばされ、治療もされていない自分はほどなく死ぬだろう。だがそれに不安はない。名を秘された偉大なるかつての主導者が、いまは守り神となって自分たちを守ってくれている。死せばその方の下に行くのみ。
 暗殺者は薄く笑ってすらいた。響いてくる足音にも、怯えなどしない。石造りの地下牢は、音が響く構造になっている。ただそれだけのことだ。己はなすべき務めを果たしただけ。残念なのは、結果を出し切れなかったこと。
 アリステアたちが地下牢で見たのは、落ち着き払った暗殺者だった。レクラン一人が顔を顰める。気持ちが悪い、そう感じたのだろう。無理もなかった。大の男でもこの地下牢に放り込まれれば動揺くらいはするものだ。
「さて、話してもらおうか」
 こん、と木でできた小さな腰掛を自分で持ってきたアリステアはそこに腰を下ろす。わざわざ牢の扉を開け放ちまでして。
「……話すと?」
 思っているのか。暗殺者が嘲笑う。スクレイド公爵の表情は変わらない。暗殺者にはその背後にいるのがマルサドの司教と近衛騎士団長であること、そしてスクレイド公爵の子、レクランであることもわかっている。事前にその程度の調査は済んでいた。
「話さない理由はないと思うのだがな」
 暗殺者の薄笑いに、アリステアはまったく揺らぎもしなかった。騎士団長が不快そうに眉を顰めたときでも。
「率直に言おうか。お前を殺して心臓に口をきかせることができる、我々には。その手間を省きたいだけのことだ」
「すればいい」
「ほう?」
「殺されるのを厭いはせん」
 なるほど、アリステアはそっと微笑む。さすがに暗殺者も訝しく思ったらしい。いまは覆面をはがれ、装束もむしられた男だった。ほとんど下着だけになった男の肉体には血が飛んでいる。右腕からは、時折血液が滴った。牢に入れられるとき、手荒な扱いを受けたのだろう。
「お前の心臓は、動いているか?」
 ふっとアリステアが笑う。何を当然のことを。暗殺者はそれでも己の心臓を意識した。着実な鼓動を刻む己の器官を。
「右腕は、血を滴らせているな」
「お前に切られた」
「そのとおり。では、右腕を見るがいい」
 言われた通りにすると思っているのか。男が言いかけ、そして青ざめる。己の首が、じりじりと右側へと傾く。まったくそのようなつもりはない。否、抵抗すらしている。それなのに。
「どうだ?」
「な、に……を――」
「さてな。傷口から少し血を出してみようか」
 途端に出血が酷くなる。暗殺者の唇がわなないた。まじまじとアリステアを見、空気を求めるよう口を開く。
「理解が及んだ様子だ。では、語るがいい」
「誰が――」
「まだ足らぬか?」
「殺せ!」
「誰が殺すか。たとえ死そうとも、死なせず語らせよう。仮に死んだとしても、心臓に吐かせよう。我々には手段がある。すでに語った通りに。その身を以てそのほうが知ったように」
 アリステアは小さな腰掛に座ったまま。足さえ組んでゆったりと。口許にはかすかな笑み。暗殺者は、いかなる恐怖、いかなる苦痛にも耐え得るよう、ありとあらゆる訓練を積んできた。
 けれど、これは。スクレイド公爵に操られた己の肉体。痛みならば耐えられる。恐怖だけならば耐えられる。この、どうにもならない異質な忌まわしさは。
「素直に吐けば、一命は許す」
 アリステアの言に暗殺者は息をつく。甘いと思った。命乞いなど、自分たちは決してしない。それをこの公爵様はご存じないと内心で嘲笑う。
「勘違いをしているようだが――」
 静かに微笑むアリステアに、司教は端然としたまま。彼一人、いまなにが行われているか正確に理解していた。
「おなしく人として死なせてやる、と言っている」
 アリステアの浮かべた無垢とも言える笑みにこそ、暗殺者は落ちた。息を飲み、喘ぐ。いまこそ、自覚する。公爵に操られている己が肉体。死なせることすらせず、意に反して操り続けることが彼にはできると。語るべきことを吐けば、せめて死なせてもらえる、人の形をしたままで。
「そのとおりだ。一寸刻み五分試し。血達磨になろうとも、お前の息は清澄なままだ」
 それでも死なせない。痛みならば我慢ができる。だが想像は。ありとあらゆる痛み、屈辱、想像してしまった、暗殺者は。青ざめ、意識が遠のきかけ、けれどアリステアに引き戻され。眼前で微笑む公爵。魔物よりなお、恐ろしかった。
「は……はな、す。話せば……!」
「あぁ、死なせてやろう。きれいにな」
 あからさまな安堵。アリステアに縋らんばかりの暗殺者に、レクランが息を飲む。優しいだけの父でも明るいだけの父でもない、そう知ってはいた。だがここまで冷酷だとは。
「レクラン」
 前を見たままのアリステアが我が子を呼ぶ。いまにも口を開こうしていた暗殺者が、話させてくれと泣きわめく。
「――はい」
「アンドレアス様がお怪我をなさっていたら、お前はそうしていられるか」
「あ……」
 不幸中の幸い、国王父子は傷一つない。だが、結果として怪我をしなかっただけのこと。あの場にアリステアがいたのは偶然だ。レクランがアンドレアスを抱えられたのも偶然だ。
「許さんよ、どのような理由があろうとも、理由そのものを私は認めん。従兄上に楯突くものは我が剣を越えてから行くがいい」
 決して倒れない。リーンハルトを守る限り、倒れることのない楯であり剣であるアリステア。司教はまるで神の御言葉であるかのよう聞いた。思わず目を瞬く。そこにいるのは武闘神官である男が一人。だが、マルサド神の宣告のよう響いた。
 早く、早く。泣きわめく暗殺者に、アリステアは微笑んだ。その笑みに、暗殺者は立ち上がる。騎士団長が腰の剣に手をかけ、けれど驚く。
「話させてくれ。頼むから――!」
 暗殺者はアリステアの足元にうずくまり、その足を抱けば転々と血が滴り落ちる。いま靴を舐めろと言えば喜んでそうしたに違いない。
「では、語るがいい」
 そっと伸ばされたアリステアの手が暗殺者の頭の上に。まるで幼子を慈しむようなその手。暗殺者は身をすくめ、殴られるのではなく撫でられたのを知る。口許をわななかせ、涙をこぼし。
 そして暗殺者は語った。シャルマーク系貴族による国王暗殺を装ったものであったと。首謀者は騎士団長も知るラクルーサ門閥貴族の一人であった。ぞっと青ざめる団長など暗殺者の目には入っていない。真っ直ぐとアリステアただ一人を見上げていた。
「殺す、つもりはなかったんだ――!」
「そんな戯言が通じると思うのか」
「本当なんだ!? 殺すな、と言われていたんだ。あとででいい、いまは殺すなと。怪我でもさせて、シャルマーク系がやったんだって思わせろって!!」
 リーンハルト負傷によってシャルマーク系貴族を一掃できれば、というラクルーサ至上主義者のなしたことだった、暗殺者は言う。
 アリステアはどこまで本当か、と思いつつ聞いてはいた。一介の現場の暗殺者が知るべきことではない、とは思う。
「う、疑ってるな!? ほんとなんだ。本当なんだ。俺、聞いたんだよ!? 隠れて、導師様の話を聞いてたんだ!!」
 導師、というのが命令者なのだろう、彼らの。それならば、と得心が行く。「闇の手」と呼ばれる暗殺結社の人間に間違いはないだろう、この男は。いままで襲ってきた暗殺者と同じ臭いがする。
 闇の手は、固い結束を誇っている。いまだどこに本拠地があるかもわからない。一説に世界最古との噂もあるほど。
「ずいぶんと軽い口もあったものだな」
 その暗殺者にしては、ぺらぺらとよく喋る。そう仕向けたのはアリステアながら、それにしても、との思いがあった。
「だって……危ないだろ!? なんかあったら、一番に危ないのは俺ら現場の人間だ。だから、何かのために……なぁ、信じてくれよ、信じてくれってば!?」
 アリステアの足をかき抱き、暗殺者はぽろぽろと涙をこぼして嘆願する。醜悪だ、レクランは目をそらしたくなる。だからこそ、じっと見続けた。
 父が、実地で教えてくれる稀有な機会。おそらくは二度とはない。公爵として、いずれ自分は父と同じことをすることになる。万が一アンドレアスが狙われたならば。そう思うだけでレクランは同じことができる、そうも思う。
「わかった。信じよう」
 血に汚れ、固まった髪を指で揉みほぐし、頭を撫でてやるアリステアの微笑み。そうしているのだろうことは、レクランにもわかる。見えているのは父の背中と手指だけ。それでもいまの父の顔が見えた気がした。
「あ、ありが、たい……ありがたい……っ。だったら、なぁ。だったら」
「死なせてやろう」
「ほんとか!?」
「今ではないいつか、だがな」
 笑みを浮かべたままアリステアは立ち上がる。呆然とした暗殺者がぺたん、と床に尻もちをついた。口を開け閉めし、アリステアを見上げ、額に滲んでいた脂汗が流れて落ちた。
「嘘を……ついたな……!?」
「誰がだ?」
 長身を折るようにしてアリステアは男を覗き込んだ。その目の奥、アリステアに対する強い恐怖を見てとる。軽く頬を撫でるように叩けば上げようとしてかなわない悲鳴。
「すぐに死なせてやる、とは言っていない。私の従兄上を襲っておいて、すぐに死ねると思うな」
 暗殺者が最後に見たのはアリステアの笑顔だった。いままでのものとは違う、決定的なその表情。狼が目の前で笑ったとしてもこれほど恐ろしくなどない。神罰を下されようとも、ここまでではきっとない。あまりの恐怖に意識を投げ出した男をアリステアは気に留めない。
「知るべきことは知りましたか?」
 淡々と牢を出て、腰掛を片づける。まるでほんの一仕事を終えただけ、とでも言わんばかりだった。騎士団長が蒼白になりながらもうなずいた。暗殺者の証言と、公爵の態度。いずれもが恐ろしい。
「では、起こしますか」
 牢に鍵がかかった瞬間。暗殺者が悲鳴を上げた。当分は悪夢を見るだろう。団長は思う。そんな自分が恥ずかしい。すぐ隣にいる若き公爵の子は顔色こそ悪かったけれど、毅然と立っていた。




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