王宮は蜂の巣をつついたような騒ぎだった。国王と第一王子が襲われた、それをからくもスクレイド公爵が退けたとあっては。
 レクランが宮殿に伝令として駆けてきたとき、一瞬とはいえ近衛騎士団長は何を言っているか理解ができなかったほど。この王城で、国王が襲撃されるなど、近衛騎士団に対する挑戦としか思えない。真っ赤に憤怒した騎士団長が一隊を伴ってセイレーンの泉に急行したときもまだ、暗殺者は生きていた。
「殺すな」
 一刀の下に切り捨てようとした団長に、スクレイド公爵の静かな声。反論しようとした団長は息を飲む。このような公爵は見たためしがない。
 暗殺者を捕縛し、宮殿に戻れば、侍従や女官が慌てふためいている。王子に怪我はないのか、陛下はご無事かと口々に言う。それをなだめるのはリーンハルト。
「大事ない。アンドレアスも私も傷一つない」
 それに彼らはスクレイド公爵が共にいてくださったおかげと、涙を流さんばかりだった。平素のアリステアならば、笑って従兄上の強運だ、と彼らに言うだろう。いまの彼は無表情。
「父上――」
 すでにアンドレアスは秀峰宮に戻っている。そちらの女官がどうしても、と聞かなかった。レクランも同道したはずが、なぜここに。アリステアの無言の眼差し。
「差し出口かと、存じますが――」
 それでアリステアはようやく微笑みを浮かべた。レクランに忠告されるまで、自分がどのような顔を作っているか気づきもしなかった己を思う。
「感謝するぞ、レクラン」
 ぽん、と頭の上に手を置けば、硬い笑み。それでも父が多少は冷静さを取り戻した、と見たのだろうレクランが秀峰宮に赴こうとする。
「いや、レクラン。待て」
 なんでしょう、レクランは問わない。若年ながらそれができるレクランをリーンハルトは頼もしく見つめていた。彼がアンドレアスの傍らにいてくれる感謝。レクランは王の目に気づかず父を見上げている。
 そこにマルサドの司教が訪れた。硬い、というよりは険しい顔。すでに司教はアリステアが暗殺者に施した呪文を知っている、と語る。
「全面的に是認いたしますぞ、アリステア殿」
「それはありがたい。少々……口にはしにくい呪文でしたから」
「なんの。マルサド神が諾われたからこそ、奇跡は行われた。ならばあなたに咎はない」
 きっぱりとした司教の断言にアリステアは肩の力を抜く。それにリーンハルトは驚いていた。そこまでの呪文だったとは、思わなかった。
「アリステア」
「どのような呪文であったかは、教えません。従兄上にでも言っていいことではない。むしろ、陛下はご存じなくてよいのです」
「従弟殿」
「だめです。お教えしない」
 にっとアリステアが笑った。それだけ危険な呪文、ということだろう。宮廷魔導師に尋ねてみたい気もしたが、彼らは神聖呪文には疎いと聞く。無駄かもしれない。それほど危ない橋を渡ったアリステアに、けれど文句の一つも言いたかった。
「私は従兄上を守護する誓いを立てている。その一環、と思っていただきたい」
 たとえ国王であろうとも、退くことはない。アリステアの言葉にリーンハルトはうなずかざるを得なかった。マルサド神が恨めしくなる。
「……私も戦う術がない姫ではないぞ」
「存じておりますよ、我が王。ですが臣下というものは陛下にそれをさせないためにおるのです」
 スクレイド公爵の断言に近衛騎士がうなずく。そのとおりだと。そして公爵の身でありながら、それを言える彼に深い尊敬の念を抱く。王妃から国王を奪った男、そうちらりとも思わなかったと言ったら嘘だった。いまこの瞬間、スクレイド公爵に対する隔意が綺麗に消えた。他はどうあれ、公爵は国王の身を全身全霊をかけて守るだろう。騎士団長にとって大切なのはそれだけだった。
「いったいどのような呪文の影響下にあるのかは、わかりませんが。公爵閣下のなされたことを積極的に支持いたします」
 騎士団長の言にリーンハルトが少し驚いた顔をした。どうやらこの事件によいことがあるとしたならば、団長がアリステアへの評価を改めたことか、そう思う。
「感謝する」
 短い言葉に団長は軽く頭を下げるのみ。いまこの瞬間、近衛騎士団長とスクレイド公爵ではなく、国王リーンハルトを守護する同志、となった。
「レクラン。尋問に立ち会うことを許す。同道せよ」
 留めていたレクランに言えば、団長が目を丸くする。司教ははっきりと顔を顰めた。それでリーンハルトには察しがつく。
「よろしいのですか」
 団長にアリステアはうなずいた。厳しい目がレクランを見つめる。たじろぐことなく彼の息子は父の眼差しを受け止めていた。
「かまわん。未熟な身とあっては呪文の詳細を教えるわけにはいかんが、我ら王室の藩屏たる公爵家の後嗣として、レクランは知るべきだ」
 父が何をするのか。そして時至れば自分がどうすべきなのかを。わかりました。返答するレクランの声は震えもしていない。理解していないのではない。何が起こるか、はっきりと理解した上で、レクランは毅然と立つ。
「レクラン」
「はい、陛下」
「アンドレアスの友であってくれることを私はマルサド神に感謝しよう」
 ぽ、とレクランの頬が赤くなる。緊張してはいても、冷静さを欠いてはいないその姿。それにアリステアの激情がわずかに抑えられる。逆に司教の方が喜びをあらわにしていた。
「では、参りましょうか」
 司教に促され、一同は場所を移す。暗殺者を拘束した牢まで、彼らが出向くことになる。ふとアリステアが振り返る。
「従兄上。何をしてらっしゃるのですか」
「同道――」
「させません。従兄上はご存じなくてよいこと。そう申し上げましたよ。陛下は汚れ仕事など目になさるものではないのですよ」
 むっとしたリーンハルトに、アリステアは目で笑う。汚れ仕事など、わざわざ言うまでもない。すでに何度も経験している。だがアリステアは拒んだ。
「それほど酷いことになる。そういうことかね?」
「そういうことですね。正直に言って、私の姿をお見せしたくない」
「わかった。それならば退こう」
 ふっと微笑ったリーンハルトにアリステアの体貌から険しさが薄れた。そしてはたと気づいたよう、額に唇を寄せる。
「あ――」
 迂闊にも声を上げてしまったのはレクラン。騎士団長は丁重に目をそらそうとして、違うのだと司教の眼差しに気づくありさま。
 アリステアの唇が小さく詠唱していた。この場をしばしなりとも離れざるを得ない自分。ならば、万が一のためにリーンハルトを守護する必要がある。その義務があり、権利がある。
「これは?」
 そっと離れて行った唇が惜しい、と言ったらアリステアは怒るだろうか。リーンハルトの目に読み取ったアリステアはかすかに微笑む。
「楯の守り――護身呪ですよ。少々のことでは破られない」
「ほう?」
「なので従兄上。ここで、おとなしくしていてください」
「わかったわかった。早く行け。死んでしまうぞ?」
「吐くまで死なせませんよ。誰が楽になどさせるものか」
 国王の面前で鼻を鳴らす、という無礼極まりない態度も、いまのアリステアの心情を物語る。騎士団長には咎める気がなかった。公爵に全面的に同感だったせい。
 行こう、再び促して一行はリーンハルトの下を辞する。一歩下がったレクランをアリステアは傍らに呼び寄せた。
「気分のよいものではないことだけは、覚悟するがいい」
「はい」
「レクラン殿。お父上様のなさることは我らが神がお許しになったこと。おわかりですね?」
「はい、司教様。理解しております」
 結構です、微笑む司教にレクランは笑みを浮かべる。少し、不思議だった。司教は自分を買ってくれている。それなのになぜ、と思う。わざわざ念を押されなくとも、それくらいは理解しているとレクランは思っている。そもそも、父のすることに異議など微塵もない。
「それはな、レクラン。お前がまだ幼少の身だからだ」
 小さく笑ったアリステアに、司教が首をかしげた。が、彼の息子は理解する。なるほど、と得心していた。この身が若く幼いから、司教は不安だったのだと。
「早く大人になりたいものです」
「学ぶことは山のようにあるぞ」
「それでも。大人になれば、アンドレアス様をお守りする手段が増えます」
 騎士団長が静かに息を吐きだしていた。公爵家の後嗣がここまで言うとは、想像もしていなかったらしい。アリステアはレクランには常々言い聞かせてきた。ことあるごとに王家に仕えよ、と言い続けてきた。
 ――そのようなこと、わざわざ言い聞かせなくともレクランはアンドレアスに仕えただろうな。喜んで。
 父の言葉があったせい、では決してないだろう。アンドレアスとレクランの相性の良さを思う。できることならばこのまま末永く切れることのないものであってほしい。
 ほんのりとした思いを抱きつつ、牢へと急ぐ。リーンハルトは暗殺者が息絶えてしまうだろう、と言ったけれど、事実上、暗殺者は死ねない。現時点でその生命活動すら、アリステアの支配下にあった。
「アリステア殿。お疲れではありませんかな?」
 司教が小声で尋ねるのはそのせい。暗殺者の生命を支えているのは、アリステアに他ならない。たとえ己の命を少々浪費しようとも、アリステアは事の次第を明らかにする覚悟だった。
「鍛えておりますよ、司教様」
「とはいえ、なにもお一人でなさることもない。この身も陛下の御為に捧げましょうとも」
 ありがたい、とは言えなかった。それ以上の深い感謝を抱く。黙って頭を下げるアリステアに司教は笑むのみ。
 司教もまた、この王城で、しかもマルサド神御自らが加護を下された国王を狙う暗殺者が放たれたことに激しい衝撃を受けた者の一人だった。
「このようなこと、二度と再び繰り返させてはならん。私もその覚悟でおりますよ、アリステア殿」
 司教の思いにアリステアは言葉もなく再び頭を下げていた。




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