小さな湧き水は、底まで見えるほど澄んでいる。水底でころころと小石が転がり、一種独特な歌うような音。それがセイレーンの泉、と呼ばれる謂れだった。 「あ……残念」 アンドレアスが楽しみにしていた鴨はいない。四人もの人馬が訪れたとあっては無理だったかもしれないが。 それでもとても美しかった。秋の木漏れ日が作る形をアンドレアスは追う。走り出す前、一度だけリーンハルトを振り返り、父がうなずくなり嬉しそうに。レクランはその少し後ろを。 「アンドレアスが転びでもしたら支えてくれるつもりかな?」 リーンハルトは苦笑しながら子供たちを見ていた。仲のいい、兄弟のような二人。自分たちもそうして育った、ふと横を見ればどことなく切なそうなアリステアの眼差し。 「アリステア?」 「別に、なんでもありませんよ」 「――という顔に見えていたならば問わんよ」 そうでしたね、アリステアはそっと微笑む。それでリーンハルトにも見当がつく。アンドレアスの楽しげな姿を見て、リーンハルトの他の子供たちを思ったのだろう、彼は。 「……姫たちには恨まれるかな、とは私も思ってはいるのだがな」 「従兄上?」 「やはり、男と女とでは感じ方が違おう。姫たちはどちらかと言えば母親に同情を寄せるのではないかと思う」 「……そうかもしれませんね」 「まだ幼くて事情がわかっていないからな。そのうちには、そういうことになるかもしれない」 それでも。リーンハルトはそっとアリステアの手を取る。何も言わずに握り返してきた手。諦める気にはならなかった、なれなかった。王妃の疑念を事実無根と突っぱねることはしなかった。 「従兄上」 「うん?」 「愛してますよ」 不意打ちのような言葉にリーンハルトの目が丸くなる。ついでほころぶ。昏い蒼の目が、秋の陽に優しく翳る。アリステアの大切なもの。彼はほんのりと笑っていた。 その向こう、子供たちは久しぶりに過ごす父たちとの時間を目一杯に楽しんでいる。アンドレアスは国王として多忙に過ぎる父の姿を見ることすら稀だ。こうして父がそこにいる、それだけで充分に嬉しい。 「なんだか、素敵だね?」 いまアリステアとリーンハルトは微笑んで話しをしていた。それをアンドレアスは楽しく見ているらしい。 珍しいな、とレクランは思う。公爵としての姿を断じて崩さない父。いまは国王の面前であるというのに、木に背中を預け、腕まで組んで笑っている。その前で王がくつろいで話しているその姿。いいものだな、と思う。同時に、レクランは見てとる。どれほどゆったりとした形を作っていても、父は研ぎ澄まされていると。その佇まいこそ、見習うべきで、レクランの憧れだった。 「いったい何をお話ししているのかなって。ちょっと気にならない?」 アンドレアスも気を抜いている。秀峰宮にいるときの彼はもっと堅苦しい話し方をする。いまは九つの子供らしい――と言ってもレクランとて高位の貴族の子弟であるから、子供らしい話し方など縁がないと言えばないのだが――アンドレアス。見ていると笑みが浮かんで仕方ない。 「悪趣味ですよ」 立ち聞きなどするものではありませんよ、たしなめればそんなんじゃない、と言い返してくる。二人きりでいるときはいつもこのような調子だった。女官が聞けば卒倒しかねない。もしもの時には自分が悪者になる覚悟のレクランだった。 「でも、楽しそうだから」 父たちの姿をアンドレアスはうっとりと眺めていた。泉の水を手で跳ねかし、遊んではいる。けれど眼差しは真っ直ぐと二人に。 「……ふうん?」 言った途端だった。アンドレアスがぱっと振り返ったのは。真っ赤になったその頬。レクランは素知らぬふりで笑いを噛み殺す。 「違うよ、レクラン! 違うから! レクランと一緒じゃつまんないとか、僕、言ってないから!」 慌てて怒るアンドレアスの頭、こらえきれなくなったレクランが笑って撫でていた。それにまた、子供扱いすると言ってアンドレアスが怒る。二人の笑い声が届いたのだろう、父たちが彼らを見やっては微笑む。 泉に風が模様を描いていた。色づいた木の葉がひとひら、散りかかる。つい、と滑っていった。秋の日の一瞬。このまま留めておきたいような。レクランに向けてぷりぷりと言葉を重ねていたアンドレアスさえ息を止めて見つめた。 「レクラン!」 はっとして父の声に振り返る。そのときにはすでにアリステアは抜き身を片手に。片腕でリーンハルトを自分の背後に庇い、子供たちに向かって駆けていた。 子供たちはようやく気づく。影。宙から襲い掛かるのは秋の景色に溶け込むような濃い茶色の装束を身につけた何者か。真っ当なものであるはずがない。その両手にきらりと光るものをレクランは見た気がする。 「アンドレアス様!」 父の示唆通り、レクランはアンドレアスをその身で庇う。両手で抱きかかえ、髪の毛一筋の傷さえ負わせないとばかりに。 かすかな舌打ちめいたもの。分が悪いと察したのだろうか、不逞の輩は瞬時に退こうとする。樹上に跳ね上がろうとした瞬間、一足に間を詰めたアリステアの斬撃の気配をレクランは感じ。彼はアンドレアスの頭を抱え込む、決してその情景を見せないと。アリステアは見事に暗殺者の右腕を切り飛ばしていた。 ぼたん、と腕が地面に落ちる嫌な音。レクランですら顔を引き攣らせる。それでも彼は真っ直ぐと見ていた。自分まで目をそらせば、アンドレアスの危機に対処ができなくなる。 噴き出す血液、茶色の装束があっという間に濡れて行く。覆面で顔を隠した暗殺者の口許がかすかに動く。 「逃がすか」 アリステアの手がその喉元に。ふとリーンハルトは不思議を覚える。あっという間の早業で、庇われている意味が見つけられないほど。とはいえ、背後を気にかけてはいた。すでに彼自身剣を抜いている。 だからこそ、よけいに不思議だった。アリステアは剣を待たぬ手で、暗殺者の喉を掴んだのだから。 ――潰す気か? 口が動いた、ということは口中に毒薬でも含んでいたのだろう。アリステアの形相からそれをリーンハルトは察する。喉を潰して、だがどうする気か。 アリステアはしかし、詠唱をしていた。口の中で、レクランには決して聞き取ることができないように。彼はまだ、見習い神官の身。知るべきではない呪文、というものがある。 祈りが完成するなり、暗殺者はくたりと意識を失くした。それをアリステアは忌々しげに受け止め、覆面を剥ぎ取ってはその布で血止めをする。祈る気にはなれなかったらしい。 「従兄上、お怪我は」 振り返ったアリステアの表情。リーンハルトは何も言わない。ただ無言で彼の傍らに。そして頬へと手を伸ばし。返り血を拭ってやった。 「子供たちも無事だよ」 ようやくアリステアの気配が和らぐ。暗殺者は地面に崩れるままにしておいた。一度は受け止めたけれど、持っていたくはないらしい。 「レクラン」 「はい」 「よくやった」 父の言葉にレクランが息をつく。そしてもがくアンドレアスを放してやった。そして王子は目の当たりにする。血に汚れた暗殺者の姿を。顔色が変わっていた。はじめて、これほどのものを見たのかもしれない。 風鳴りを立て、アリステアが剣を振る。血がきれいに落とされ、はじめてアリステアは剣を収めた。それを見て、リーンハルトも剣を引く。 「父上――」 かすかに震えた声が悔しいのだろう。アンドレアスが唇を噛む。それにリーンハルトは微笑んで両手を広げた。震える足で飛んでくる息子を抱きとめる。 「レクラン。よく守ってくれた。感謝する」 「とんでもないことです、陛下」 「お前もお前だぞ、アリステア」 「なにがです?」 わかっているだろうに。レクランに身を守れ、とはアリステアは一度も言わなかった。我が身を挺してでもアンドレアスを守れと言った。そしてレクランは一瞬の迷いもなくそうした。父の言葉に従ったのではなく、自らの意志として。 「ところでな、アリステア」 鋭いリーンハルトの眼差し。縋りついていたアンドレアスが驚いて父を見上げる。そこにいるのは楽しく笑っていた父親ではなく、国王。 「アンドレアス様」 小声で呼んでくれたレクランを幸い、彼の下へと戻る。小さく照れ笑いをしてぎゅっとレクランの手を取った。 「ありがと、レクラン」 見上げてくる小さな王子にレクランは微笑むだけ。いまはまだ、自分の肉体で壁になるしかできなかった我が身の不甲斐なさ。いずれ父のようにアンドレアスを守ることができるようになりたい。その思いが次第に強くなっていった。 「いったいお前は何をした?」 足元に横たわる暗殺者は、血止めをしたとはいえ虫の息だ。放置すれば死ぬだろう。が、アリステアにその気はないらしい。 「どうしても、となれば我が神に癒しの奇跡を賜るつもりですよ」 「だからな、従弟殿。そこまでして何をするつもりだ、と問うている」 問い詰められ、アリステアは肩をすくめる。相当な非常手段を取ったアリステアだった。だからこそ「国王」は知るべきではないと態度で示した。 ゆっくりとリーンハルトは息を吸い込み、吐き出す。幼い息子が狙われたことは充分以上に衝撃だった。アリステアがそこまでしたのもそれゆえだろう。 「従兄上にはお話ししたでしょう? 戦場にも暗殺者が放たれましたがね。うっかりと切ってしまいましたし、暇がなくて尋問する前に死なせてしまいましたから」 「暇があればしたのか?」 「当然ですね。拷問まで考えましたが……考えたときには死んでいたので。こうして襲ってくれたのは幸いです。――ただでは死なさん」 ぞっとするほど低い声だった。闊達で、明るいアリステアではない。否、これもまた彼の一面か。アンドレアスが襲撃を受けた、むしろそれを通じてリーンハルトが攻撃されたと受け取ったアリステアの。リーンハルトも止める気はなかった。 |