王家の城、白蹄城は元はアントラル大公の居城だった。現在のラクルーサ王家に譲られたとき、その名をアントラル城から王家の紋章に由来する白蹄城に変更したもの。 往時のアントラルの栄えを見る思いがする城中だった。侍女や召使たちは、専属の職場がある。それは移動が困難なせいだ。あまりにも広大で、別の離宮に手伝いに、と軽く言うわけにもいかないほど。 それほど広大な城の敷地にいくつもあるもの、と言えば第一が離宮、宮殿。貴族の誰に言ってもそれらを挙げるだろう。が、リーンハルトにとっては違う。 至るところに湧水があった。この水源があるからこそ、ここに城はあると言っても過言ではない。万が一の際にはここは最後の砦ともなるのだから。 とはいえ、王城に攻め込まれるような大戦は長い間起こっていない。おかげで美しく整備された庭園がどこまでも続くかのよう。小高い丘すらあり、いま四人はその道を馬で散策していた。 「あぁ……綺麗だ」 馬上からレクランが上を見上げる。秋の木漏れ日が、きらきらと道に落ちては光と影を描く。頭上を見上げれば、赤く染まった木の葉が透けて橙色。 「本当にな」 ふっと微笑んだリーンハルトにレクランは赤くなる。つい国王が隣にいる、と忘れて呟いてしまったらしい。このあたりの強い感受性は確かに神官向きかもしれない、アリステアも微笑んで彼らを見ていた。 和やかな中、ただ一人アンドレアスだけが不満げ。レクランですら普通の馬に乗っているのに、アンドレアスだけは小馬だった。幼い王子は、まだ大きな馬に乗せてもらえない。それが不満で不満で仕方ないらしい。去年あたりからリーンハルトに嘆願している、とアリステアは聞いている。 「アンドレアス」 人気がなくなったのを見澄ましたアリステアだった。名を呼べば、ぱっと王子の顔が明るくなる。平素は殿下、と敬って呼ばれているけれど、アンドレアスはこの男が好きだった。庶民の間で言う「親戚のおじ様」とはこのようなものなのだろうと思う。実際、父の従弟ではあるのだけれど。 「おいで。レクラン、手綱を頼む」 はい、レクランが返答をすると同時だった。馬を寄せたアリステアの腕がアンドレアスを攫う。王子が驚きに目を丸くする暇すらない。そして瞬いたときにはもうアリステアの馬の上。 「……すごい!」 「うん?」 「すごい、すごい! 見ましたか、父上!? いまの、すごい!」 人目があるときには、アンドレアスも気にしているのだろう。いまはたった九歳の男の子としてあるべき姿、とでもいうはしゃぎぶり。それを見るレクランの優しげな眼差し。弟を見る気分なのかもしれない。 「あぁ、見たよ。素晴らしいだろう、彼は?」 「はい! 風のようでした! あっと思ったときには、おじ上の馬上にあったんです」 きらきらとした眼差しがアリステアを振り仰ぐ。それには照れくさくなってくるアリステアだった。小さな子供一人、それほど驚かれるようなことをしたつもりは彼にはなかった。 「レクランも、こんな風にしてもらったこと、ある? いいな……」 「ありますよ。でも、そう何度もはないですね」 「あ、ごめん」 隣に寄ってきたレクランに、アンドレアスは体を伸ばして問いかける。落ちそうで、苦笑しながら片腕でアリステアは彼の胴を巻いたまま。熱いほどの子供の体。その熱を腕に感じた。レクランの言葉が、耳に痛い。アンドレアスのよう、かまってやった記憶があまりない。 言い訳ならばいくらでもある。貴族の通常の生活として、親子が揃って寝起きしていたわけではない。アリステアは神殿に、レクランは本邸に。たびたび顔を合わせていたわけではない父子ではある。 だがそれを言うならばアンドレアスとて。常日頃から側にいるわけでは決してない。 「アリステア」 レクランとは反対の隣から忍び込んできたリーンハルトの声。どうしましたか、アンドレアスが見上げてくるのにアリステアは仄かに微笑んで首を振るのみ。 素晴らしいな、と思っていた。ほんの少しの間、物思いに沈む、とは言えないような思考の巡り。それをリーンハルトには感づかれた。それが嬉しいような、面映ゆいような。 ぽくぽくとした馬の蹄。時折飛んで行く小鳥のさえずり。隣にはリーンハルトがいて、晩秋の陽射しは優しい。 「よいものだな、こういうものも」 アリステアが思ったことを、リーンハルトが言う。アンドレアスが嬉しそうに同意する。アリステアは心から充足していた。 「セイレーンの泉には、なにかあるのか?」 アンドレアスが見に行きたい、と言っている泉はほんの小さなものだった。泉、というよりは本当に湧水が溜まっている、と言ったほどの。 「鴨が来るんです、父上!」 もうそんな時期なのか、ふとアリステアは空を見上げた。秋の陽は、日々刻々と短くなっていくのだろう。多忙に紛れて、季節の巡りすら忘れそうだった。 「鴨か。懐かしいな、アリステア」 ふっとリーンハルトが笑った。子供たちの前で名を呼ぶのはできればやめてほしいアリステアだ。どうにも腰の据わりが悪いと言おうか、率直に言って気恥ずかしい。 「なにがです?」 だからこそのぶっきらぼうな返答。それをレクランが笑って見ていた。人目があるときには、従兄弟同士ですらいない二人だった。それが侍従女官の類でなくとも、庭師であろうとも、彼らは国王と公爵で居続けている。ずいぶんと気疲れすることだろうと、アンドレアスよりは年長の彼は思う。 そしていま、アリステアは身分の衣を脱いだ姿で話していた。あるいはリーンハルトと二人きりのときには更にぶっきらぼうなのかもしれない、そんな父の姿を思うレクランの唇は笑みが深くなるばかり。 「まだ幼いころ、鴨が可愛いと言ってよく見に行ったではないか、『アリステア王子』?」 「やめてくださいよ、恥ずかしい」 レクランの知らない昔の話だった。まだ二人のそれぞれの父が健在だったころのこと。当時のアリステアはこの城に暮らしていたのだとレクランは聞いている。王子として、いまのアンドレアスと同じよう、秀峰宮に暮らしていた父。それを思えば不思議な気がした、いまという時間が。 「おじ上も鴨が好きですか?」 「好きだよ。色が綺麗だと思わないか?」 「はい! 僕も綺麗だと思います。――絵に、描きたいな」 「アンドレアスは絵が好きか?」 問えばもじもじとする王子の可愛らしい姿。リーンハルトが目を細めて見ていた。そんな自分に気づいたのだろう。珍しく空咳をしていた。 「アンドレアス様は絵がとってもお上手ですよ」 「やめてよ、レクラン! 恥ずかしいだろ!?」 「でも、上手じゃないですか。この前は僕の似顔を描いてくださった」 くすくすと笑うレクランと、顔を赤くしているアンドレアス。自分ひとり小馬だ、と拗ねていたアンドレアスはもういない。 「いいものだな」 リーンハルトがそっとアリステアの耳元に囁いた。アリステアもまた、ほんのりと微笑んでうなずく。アンドレアスの身分が身分だった。親しく接してくる幼い子供はいくらでもいる。貴族たちは次代の権勢を考え、何人もアンドレアスの周囲に子供を送り込んでいる。 だからこそ、アンドレアスは気が抜けない。アリステアにも覚えがあることだった。そしてアリステアにリーンハルトがいたよう、アンドレアスにはいま、レクランがいる。 「仲がよすぎると問題が起きますがね」 「それを我々が言うと実に嘘くさいな」 「我々だから言うんですよ」 「ほう?」 「アンドレアスはまだ九歳ですからね。私が従兄上の手を取ったときにはすでに跡継ぎがいましたから。万事問題はなかった」 にやりとしたアリステアに、言われたリーンハルトではなくレクランが赤くなる。本当は、身が引き締まる思いでいた、レクランは。父の期待に、ではない。スクレイド公爵家を背負って立つ身に、でもない。 アンドレアスを守ることができる場所と立場。それをくれた偶然と神々に。たとえようもない感謝をしていた。 「レクランとは仲良しですけど、そういうのではありませんから!」 「ほほう?」 「……従兄上、九つの子供をからかわないように」 「息子をからかう父親、というものをたまにはやってみたい」 「もう少し大きくなってからにしてください」 言えばくすりとアンドレアスが笑う。胸元から立ち上ってくる子供の笑い声。見下ろせば、嬉しそうに微笑う子供。 「どうした?」 「おじ上は優しいな、と思って。おじ上が一緒だと、父上もとっても楽しそう」 ついにこらえきれなくなったレクランが大きく笑う。国王の前であるならば不作法にすぎる。だがここにいるリーンハルトは父の恋人。それを飲み込んだ上での笑い声。アリステアはよい息子を持った、リーンハルトの笑みは深い。そろそろセイレーンの泉が見えてくるだろう。 「そうだ、アンドレアス様。なぜセイレーンの泉と言うかご存じですか」 「む……。またレクランのお説教だ」 「お説教じゃないですよ」 「だったら勉強」 「……それは否定しません。それで?」 話をそらそうとしてもだめだぞ、とレクランがアリステアの胸に抱かれたアンドレアスを覗き込む。煩わしそうにアリステアの胸に顔を埋め、いやがる王子の袖を引いてはにこりと笑うレクラン。 ――なかなかよい根性をしている。 リーンハルトはさすがアリステアの息子、と感じていた。相手が王子であれば、ぐずった段階で引いてしまう者のほうがずっと多い。レクランは笑ってアンドレアスを引き戻した。 「教えて、レクラン」 知らないことをアンドレアスは誤魔化そうとはしなかった。面倒がりはしても。それをよしとするよう、リーンハルトが微笑む。 そしてレクランが語る泉の由来を聞くうち、アンドレアスの目が変わる。きらきらと興味深げに。 ――なるほど、アンドレアスは勉学が嫌いなのではなく、単調な教師に問題がある、というところかな。 決してレクランは話がうまい方ではない。が、アンドレアスの反応を見ながら話しているせいだろう。嬉しそうであったり、楽しそうであったり。飽きてきたな、と思ったときには話し方を変えまでしていた。このあたりの心遣いはアリステアの血だ、とリーンハルトは思う。思った途端に身贔屓だな、と笑ってしまった。 |