政治の要諦は均衡を図ることに違いない。現在のラクルーサ王国はシャルマークからの亡命貴族と、旧来の門閥貴族とが相争う状況だ。昔からこの国に暮らす貴族たちは亡命貴族をよくは思っていない。そして生活にも窮するようなシャルマーク系としては、なんとしても利権に食い込みたい、というところ。
 それはそれで、国の新陳代謝としてあるべき姿だとは思うが、異形が大挙して押し寄せようかという時期に国内を荒らされるのは国王として困る。
 だからこそ、リーンハルトはウィリアを守らざるを得ない。シャルマーク系の旗頭に掲げられでもしたならば再び内乱の危機、と言われればリーンハルトとてそのとおり、と言う。ならばその危険をはじめから排除するため殺していいか、と言われれば否と言う。ウィリアを殺せば、シャルマーク系が暴発しかねない。ゆえに、否応なしにリーンハルトはウィリアの安全に心を砕かざるを得ない状況になっている。
 ただの国王としてならば、それも政治、とリーンハルトは割り切っただろう。だがアリステアの母であり、アリステアを陥れた張本人。リーンハルトこそが殺してしまいたいと、本心では思っている。
 それを万が一にも先鋭的な貴族に知られれば、国王の黙認があった、と解釈されかねない。リーンハルトの鬱憤は溜まるばかりだった。
 現時点でハイドリンの防衛線を異形が突破してはいない。だが明日はわからない。大軍が湧いて出ないとも限らない。相手は人間ではない。戦の常道が通じない。内政に、異形との戦い、リーンハルトは多忙だった。
 アリステアも、また。リーンハルトの目の届かない場所を元々公爵として見ている。侍従や女官はアリステアを頼りにしている部分も大きい。更に言えば彼は神官で、城で執務をしているばかりではない。
 今日も午後遅くになってから、城に戻った。神殿での務めに執務、神官として、信者と言葉を交わすこともまた彼の仕事の一つだ。それを厭うことは決してない。
「お館様」
「うん?」
「少々……お忙しすぎはしないかと。神殿で一般信者とお話しになる時間を減らしてもよいかと存じますが」
 グレンが言うのも無理はなかった。スクレイド内乱から戻ってすぐ、アリステアは領内政治に加えて神殿の執務にも戻ったのだから。信者の中にはマルサド神に神剣を賜った英雄の姿を一目見たい、というだけのものも多い。
「それもまた、信仰の一つだろう。かまわんよ、私は」
「ですが」
「ほとんどの信者は我らが神の御姿を目にする機会など一生のうちに一度もないものだ」
 それはそのとおりだった。いかに多神教のアルハイド大陸であり、神々の降臨が話として語られている世界であったとしても、だからこそ、滅多にない奇跡でもある。
「だからこそ、恐れ多いことながら、私に我らが神のお姿を重ねて見る。それで信仰が強まるのならば言うことはないだろう」
 人は弱い。誰かに縋り、神を頼る。そのための神殿だ。多忙を理由に信者を排除していい理由はどこにもない。
「あまりにもお忙しく過ごされていますので、お体が心配にもなります」
「先ほどお前には勝ったがな」
 にやりとアリステアは笑った。神殿にいれば当然にして鍛錬をする。グレンもまたマルサドの信者であったから時折、立ち合いもする。そしてグレンはいままで勝てたことがほとんどない。主だから、ではない。手など一片たりとも抜いていない。アリステアはマルサド神に名付けられた武闘神官だった。
「問題はそこでは――」
 グレンがまだ苦情を言おうとしたとき、向こうから駆けてくる小さな影。はっとグレンがかしこまる。そのときにはすでにアリステアは両腕を広げていた。
「公爵!」
 ぱっと周囲が明るくなるような声だった。リーンハルトのような威はない。だが誰もが喜んで付き従う型の王になるだろう、アンドレアスの声にはそれを想起させるものがある。
「あっ」
 アリステアの姿を見つけ、駆け寄ってきたアンドレアスだったが、道の途中でつまづく。もう少しで顔から倒れ込む、という時。
「……ありがとう」
 照れて笑うアンドレアスだった。無造作に伸びてきた片腕に抱きとめられていた、いとも容易く。その腕の強さ、頼もしさ。見上げたアリステアはほんのりと微笑んでいた。
 それを、少し遅れたレクランもまた、見ていた。思わず立ち止まる。父のあまりにも優雅な姿に息を飲む。軽く伸ばしただけの腕に、いかに幼いとはいえアンドレアスを抱く。羽でも抱いたかのようなその軽さ。知らず見惚れた。その襟首がつい、と引かれた。
「え――」
 そこにはにこりと微笑む国王リーンハルトの姿が。慌てて礼をしようとしたけれど、いまだ襟首は掴まれたまま。
「ソーンヒル子爵。彼はそなたの父親だと思うのだがな」
「陛下!? 何を、仰せでしょうか!?」
「見惚れていただろう、いま?」
 にやりと笑うリーンハルトにレクランは言葉を返せない。瞬きを繰り返し、呼吸を求めて息を吸う。吸った気はしなかった。
 リーンハルトは偶然にも執務の途中、休息を入れようとして彼らを見つけた。アリステアの力強い腕が息子を抱きとめる姿を彼もまた見ていた。レクランをからかいはしたが、リーンハルトこそ、見惚れた。
 壮年の男の艶がアリステアから滲み出ている。体貌の雅やかさ、眼差しの色香。アリステア自身はおそらく何の意識もしていない。だからこそより一層に。
「……父上ははじめてお幸せなのだろうと、そう感じていました」
 ようやく言葉を絞り出したレクランだった。それにリーンハルトの目が和む。そのとおりだろうと思う。そしてレクランがその言葉で父の恋人として自分を認めたのだとも感じた。
「ありがたい言葉を聞くものよ」
 ぽん、と彼の頭に手を乗せれば、自分の言葉の意味を理解したのだろうレクランがまたも慌てる羽目になる。認めるも何も、そのように大それたことをするつもりは毛頭なかったレクランだった。
「従兄上。何をやってらっしゃるんですか?」
 ようやくリーンハルトとレクランに気づいたアリステアだった。片腕にはアンドレアスが懐いてぶら下がっている。
「え、あ……」
 リーンハルトはどう答えるのだろう。レクランが珍しく言葉に困っていた。それをアリステアは小さく笑う、アンドレアスも笑う。平素は年下の友人として、何くれとなくレクランに世話を焼かれているアンドレアスだった。
「なに、少々話をしていただけのこと。そうだろう?」
「えぇ、はい――」
「レクラン。阿るだけの臣下になるな。言いたいことがあれば言うがいい。従兄上はこの程度のことで怒るような器量の小さな方ではない」
 とはいえ、父親の姿に見惚れたのを陛下にからかわれました、とはレクランは言えない。くすくすとアンドレアスが笑う。
「レクランはお前が幸福そうにしている、と話してくれたよ、従弟殿」
「……なるほど」
 ちらりと息子を見やれば赤くなっている。どうもリーンハルトと微妙な話題について話していたらしい。
「父上のような男になりたい、と思います。僕の目標ですから」
「それはよい。アリステアは目標にするに足る男だと私も思う」
「従兄上……」
 それは身贔屓が過ぎるだろう、アリステアの呆れた声。ここには互いとその息子しかいない。いわば「身内」だけの会話だった。
「父上、お時間はありますか?」
 アリステアの腕に縋ったままのアンドレアスがリーンハルトを見上げる。殊の外アンドレアスはアリステアに懐いていた。それが国王としてはやはり、嬉しい。次代の王冠を担う子が、現公爵と間隙がある、となれば頭痛が増えるだけだ。そしてそれ以上に、この二人の息子たちは、父親のせいで母を失った子たちでもある。それを割り切ったのか、さっぱりとアリステアを、あるいはリーンハルトを受け入れた彼ら。リーンハルトもアリステアも、そればかりは申し訳なくもありがたい。
「そう時間は取れないが……いかがした?」
「レクランと散策に行くつもりだったのです。もしお時間があるようでしたら、父上もご一緒に!」
「アンドレアス様と、セイレーンの泉まで乗馬のお供仕るつもりでした」
 レクランが補足する。乗馬、と言っても城内のことだ。広大なラクルーサの王城には乗馬を楽しむためだけに整備された小道、などというものもある。セイレーンの泉はそんな小道の途中にある小さな湧き水だった。
「よいよ、参ろうか」
 微笑むリーンハルトに、アンドレアスが喜びの声を上げた。ちらりとレクランが父を見れば、当然のよう彼も同行するのだろう。それにはレクランも嬉しい。
「グレン、馬を頼んでいいか」
 少し離れた場所で待機していた騎士に言えば、リーンハルトがほんのりと微笑んでみせる。陛下の笑みにグレンは感激し、王室の厩へと走って行った。
 ほどなく馬番が四人分の馬を連れて戻る。アリステアは神殿への行き来に乗っている馬であったから、すぐ連れ出された馬は少々迷惑そうな顔。鼻面にぽん、と手を乗せればそれでも馬は軽く嘶く。やはりアリステアの手は嬉しいものらしい。
「いかがいたしましょうか?」
 馬番役としては幼い王子のことがある。手綱を引くものが必要だろうか、とそれとなく王に伺うのに、リーンハルトはかまわない、と首を振った。
「たまにはのんびりと散策、というのもよいだろう」
 そうと察していたのだろうグレンはだからもうここには戻らなかった。アリステアはよい騎士を使っている、リーンハルトは思う。
「殿下のことは私が重々気をつける。任せてくれないか」
 スクレイド公爵の言葉に馬番役は目を潤ませていた。彼は王子の馬の世話を専属でしている。だからこそ、王子の腕のほども知っているし、午後の小道では足元が不安でもあったのだろう。まして公爵がたかだか馬番役に丁重に頭を下げた。
「行くぞ、アリステア」
 陛下の寵愛が二重の意味で篤いのも当然だ、馬番役は深々と礼をして四人を見送る。馬上からアンドレアスが馬番役に楽しげに手を振っていた。




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