日常の執務を終えれば午後のお茶の時間。女官も侍従もアリステアが寵臣の地位を築いて以来、非常に歓迎している。なにしろリーンハルト王は休息、というものをほとんど取らない王だった。それがアリステアがいまの地位について以後、毎日きちんと休息を取るようになった。
「普通ならば怠け者の国王、と謗られるところなのだがな」
 今日の茶は北部の農園で取れた一風変わった香りのもの。合わせる菓子も北部風。中々悪くはないが、やはり変わった風味だった。
「従兄上は働き過ぎなのですよ」
 断絶していたスクレイド公爵家は元来シャルマーク系であったらしいがアリステア自身は生まれも育ちも王都であるし、そもそも王家の出身だ。北部の風味に馴染みがない。そういえば戦場で似たような味に出会ったことがあったか、と思う。
「そうは言うがな。遊んでいては仕事が片づかん」
「それで従兄上が体を壊せば国が壊れますよ」
「む……」
 一面の事実であった。仮にアリステアがどれほど有能で、リーンハルトを上回るほどの事務能力を発揮したとて、彼は公爵であり、国王の代理は務められないし、務めてはならない。逆にいまの立場ならよけいにしてはならないことだった。
「ウィリア殿のことだがな」
 いまだどうにもならない。アリステアは監視の目を緩めていないが、そろそろ決着をつけないとまたぞろよろしくないものが蠢きはじめるだろう。実際すでに侵入者が数度あった、と報告を受けている。無論のことそのすべてを殺害していたが。
「まったくどうしたものか……」
 王太后であるだけに、おいそれと殺すわけにはいかないウィリアだった。リーンハルト個人ならば、そうしてもかまわない。あるいは、リーンハルトがウィリアにその称号を贈ったというのならば話はもっと簡単だ。
 だがウィリアに王太后の称号を贈ったのはリーンハルトの父だ。亡き兄王の妃に敬意を表して贈られた称号であるだけに、その息子が剥奪すればよけいな論議を生む。
「闇に葬ってもいいのですがね」
 いっそそれならばどうだ、とアリステアが言うのにリーンハルトは顔を顰めた。綺麗事を言うつもりはないが、アリステアが提案するとそのような顔もしたくなる。
「彼女には感謝していなくはないのだぞ」
 母である人にまったく感傷を見せないアリステアだからこそ、リーンハルトの方が伯母であるウィリアに情を見せるのかもしれない。
「はい?」
 いったい何を言っているのだと言わんばかりの呆れた顔。それが見たくて言うリーンハルトだった。
「ウィリア殿が産んでくれなけばお前に出会えなかったわけだ。その点に関しては感謝しているぞ」
「従兄上」
「目が据わっているぞ、従弟殿」
 国王に対する目つきか、言ってリーンハルトはからかう。だがアリステアの険しい眼差しは変化しない。それどころか灰色の色味が強まり、アリステアの怒りが深くなっていた。
「あえて申し上げるまでもないかと存じますが、陛下。そのような私情を政治の場にお持ち込みになりませぬよう。ご賢察ください」
「従弟殿」
「はい、陛下」
「性格が悪い、と言われたことはないかね」
「陛下は私に何をご期待でしょうか」
 まだ怒っているアリステアに手を伸ばせば、固い指先。そのようなものでは懐柔されん、アリステアの眼差しが語る。リーンハルトは気にせず柔らかに握る。
「ここだけの話だ。そう、怒るな」
 むっとしたままのアリステア。本当か、とでも言いたげな目がリーンハルトのそれを覗き込む。
「信じてくれないのかね、従弟殿?」
「多少疑わしいとは思っていますよ」
「ほう?」
「最近の従兄上は明朗になられたのはよろしいのですが――」
「政治の勘までは失っていないぞ。こういうのをなんと言ったか……庶民の間では色ぼけ、と言うのか?」
「自覚があるのではないですか!」
「あるから慎んでいる、と言っている。だいたいお前に悪評が立つような真似はせんよ」
 にやりと笑うリーンハルトだった。アリステアはその言葉こそを信じる。まったくもって遺憾なことに、この身に悪評が立つ、となればリーンハルトが立ち止まって考えるだろうことは確実だ、とアリステアは思う。
「そう――闇に葬る、と言えば。戦場にも暗殺者が出ましたな」
 今更思い出したアリステアだった。なにしろあの程度の相手ならば対応ができる。さほど腕がよい、とは言い難い相手であっただけに、威嚇の意味合いが強い、とアリステアは感じていたおかげですっかりと失念していた。
「なに?」
 だがリーンハルトの反応は顕著だった。それが愛するアリステアに暗殺者が差し向けられたから、というのであればアリステアは笑って放置しただろう。けれどいまの目は違う。冷徹ですらある為政者の目だった。
「ご報告が遅れまして申し訳ない」
 スクレイド領内乱時にあった出来事を、アリステアは細大漏らさず語った。少しずつリーンハルトの目が険しくなっていく。
「それは、本物だったな?」
「本物の暗殺者であったか、という意味ならば諾、とお答えいたします。腕の方は少々心許なく感じましたが」
「それは従弟殿であるからだ。もしその場にいたのがグレンであったならばいかがだ」
「……危険であったやもしれませぬな」
「であろう?」
 なるほど。リーンハルトが顎先に指を当て、考え込んでいた。その間に、とアリステアは立ち上がり、茶を入れ替える。様子を窺いに来た女官に片目をつぶれば、まだ休憩中、と知った女官が微笑ましげに笑って立ち去る。それにもリーンハルトは気づいていなかった。
「従弟殿」
 新しい茶に口をつけ、はじめてリーンハルトは温かい、と気づいたのだろう。昏い青の目が和む。そしてまた厳しい色を宿した。
「私の下にも暗殺者が送り込まれた話はしたな?」
 伺いました、と返答するアリステアは不快そうに顔を歪めていた。マルサド神がお守りくださったからよいようなものの、ご加護がなければ帰還したアリステアを迎えるのはリーンハルトの棺、という可能性すらあった。それが不快でならないアリステアだった。
「暗殺を試みた愚か者の詳しい話をしていなかった」
「例の者どもでは、なかったのですか?」
「あれか。闇の手、と申す者どもか」
 暗殺結社というものがある。アリステアの下に送り込まれたのは確かめようもないがおそらく結社の者。だがリーンハルトの場合は違ったというのか。驚くアリステアにリーンハルトは肩をすくめる。
「テレーザの実家から出仕していた小姓がいたのだがな」
「……ほう」
「従弟殿」
「従兄上が仰せにならなかった理由を察しました。なるほど、言えば私がテレーザ殿を手にかける、とお思いでしたか。さすが従兄上。私をよくご存じだ」
「怒るな、アリステア」
「政治的に利用価値がある、というのは理解しますがね。不愉快です、非常に」
 そこまでテレーザは堕ちたか。愛する夫の心を手に入れたい、嫉妬に駆られた。いずれも理由としては理解できるが、だからと言って暗殺者を送り込むなど外道の振る舞いに他ならない。
「いや、私も忘れていただけだぞ? 本当だ」
 テレーザがどうの、とはもう済んだ話で、心には一片の曇りもない、リーンハルトは嘘でありながら言い切る。アリステアは受け入れるだろう。彼の心にもエレクトラと言うしこりがあるのだから。
「今更思い出したのはな、一応ここは王宮で、王妃の生家から出仕する、と言っても身辺調査はするものだ。そうだな?」
「当然でしょう」
「その際の調査だ。小姓本人は確かにテレーザの生家――フロウライト伯爵家の家臣の息子であったのだがな。母親がシャルマーク系であった」
 アントラルか。すっとアリステアの顔色が変わる。同時に、よくぞそのような些細なことをリーンハルトは覚えていたものだと感嘆していた。
「アントラル大公家は否応なしに気にかけざるを得ない家だからな。従弟殿が抑えてくれているとしても、私が目を離す理由にはならない」
 同じように、シャルマーク系亡命貴族からもリーンハルトは意識をそらしてはいなかった、と言う。ラクルーサに古来からある高貴の家は、シャルマーク系貴族に既得権益を奪われまい、としている。シャルマーク系貴族はそこに食い込もうとしている。そこに大小の諍いが生まれるのだから、国王としては当然の処置だった。
「私を殺そうとしたのはその小姓であったが――」
「ちょっと待ってください、従兄上」
「うん?」
「小姓に、従兄上を殺せと、誰が命じました?」
「どう考えてもテレーザだろう、それは」
「ですが、どのようにして? ご本人は北の塔に収監中だ」
「なぁ、アリステア。お前はそれほど純情であったのか。それは私にとっては美点ではあるが」
 かすかにリーンハルトが笑う。それには赤面せざるを得ないアリステアだった。収監中とはいえ、まったく使者の行き来がないわけではない。貴人の収監だからこそ、好物や心を慰めるあれこれの差し入れなども当然にしてある。無論その頻度の一番高いのは生家フロウライト伯爵家。アリステアの得心にリーンハルトもうなずいて話を戻した。
「いくらアントラルが愚か者でも私の腕のほどを知らぬでもない。テレーザは女の身として剣に馴染みはなかったからな」
 ならば短刀一本で殺害も可能だ、と考えたとしても不思議ではない。実際問題として可能ではあるが、リーンハルトほどの男を殺すのはかの暗殺結社でも屈指の腕自慢を送り込まねば難しいだろう。
「寝所ならば不用心だ、と考えたのだろう」
「夜着ならば防備も少ないと? なんと愚かな」
 夜着だからこそ、警戒は怠らないのが剣を手にするものの心得だった。だからこそ、以前から寝台を共にして朝まで語り合うスクレイド公爵の存在に、貴族が一目を置いていたのだから。いかに従弟とはいえ、そこまで王の信頼は篤いのだと。
「従弟殿、座れ。腰を浮かせているとあまり見られたものではないぞ」
 いまにもテレーザを殺しに行かんとするアリステアだった。するべきではないし、現実の問題として、北の塔の衛士は門を開けはしない。それでも気持ちとして、アリステアはそうしたかった。
「ここで、少し提案がある。気分のいい話ではないが聞くかね?」
「……それが従兄上のお心ならば」
「綺麗さっぱり解決、とはいかんが、問題は多少は緩和する、可能性がある、というところだな」
 肩をすくめるリーンハルトに不快の色を聞く。自分などよりよほど不愉快極まりない思いをしているはずのリーンハルトと、ようやくアリステアは気づく。端然と座り直した彼にリーンハルトが仄かに笑った。




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