優柔不断を謗られようとも、即決できるような問題でもない。結局その日の散策中に解決策など浮かばず、リーンハルトは執務へと戻っていった。アリステアもまた同様に執務に戻る。 「頭痛がするぞ……」 こぼしたくなるのも無理はない。スクレイド公爵領は荒れに荒れ、今現在で言うならば王国中最も雑務が多い領となっている。 「お館様」 王城に滞在中も、グレンが傍らについていた。本来は騎士であり、スクレイド騎士団の長ともなったグレンをこのような仕事に使いたくはなかったが、他に人材がいない。 「わかっている。そこに置いてくれ」 グレンが抱えてきた書類に顔を顰めるアリステアに彼は少しばかり申し訳なさそうな顔をした。グレンの責任ではない、とアリステアは苦笑して執務に戻る。 グレンほど信頼でき、信用が置ける家臣がいない、というのも問題だった。元々家中のことを放置しがちだったアリステアに責任がある。スクレイド領を治めることにだけは熱心だったが、自分でできる範囲で片づけていたせいもあり、人が育っていなかった。 ――なんとかせんとな。 いずれ遠からず、レクランに譲り渡すことになるだろうスクレイド領だった。とはいえ、まだ先の話でもあるし、だが自分の色のついた家臣はレクランも使いにくかろう、と思うせいもある。熱意をこめられない理由はそのあたりだった。 自分では、理解しているつもりだ、彼は。スクレイドには、ウィリアがいた。母と呼ぶ気にはなれない。かつて父が健在であったころには、母と呼んでいた。母も、母らしい顔を見せていたような気がする。 父王が果敢なくなり、母は変わった。変化なのか、戻ったのか、それはアリステアにはわからない。シャルマーク系貴族の筆頭とも言えるアントラル大公家出身となれば、戻った、と言う方が相応しい気もしている。 父さえ元気でいてくれれば、すべては安泰だった。そう思ってしまう。つくづく王とは死んではならない者だ、そう思う。 父王がいまもまだ立っていれば。あるいは、何事もなく王冠を譲り渡していれば、今日のこの日はなかった。 ――もっとも、その際には史上最も不熱心な国王が誕生することになるわけか。 アリステアは民を治めることに興味が持てない、否、王国の民を治めることには。スクレイド領ほどの大きさがアリステアの限界だった。だからこそ、リーンハルトへの思いがなくとも、彼こそが王に相応しいと言い続けてきた。もっとも、幼いころからはじまってつい先ごろに至るまで、彼自身思いの質など理解していなかったのだから当然ではある。 しばらくの間、グレンが書類を運ぶ音と、アリステアが筆記をする音だけが執務室に響いた。スクレイド公爵家の部屋は、アリステアが継続的に城に滞在するにあたって、すっかり公爵執務室と化している。 「部屋を用意しようか、従弟殿」 リーンハルトの寵愛を受けるにあたり、彼からそう申し出を受けた。言ってみれば「寵姫の私室」なるものを用意する、と王は言う。それをアリステアは断った。 すでにスクレイド公爵家の人間が登城する際に使用するための部屋がここにある。新たに部屋を設えるとなれば内装から家具に至るまで、大騒ぎになるに決まっていた。奢侈は慎むべき、アリステアの進言にリーンハルトは笑って肯う。あるいははじめからアリステアが断る、とわかっていてした申し出だったのかもしれない。 そのあたりが自分とは違う、アリステアは思う。リーンハルトは王の申し出が、臣下に伝わると意識していた。そしてスクレイド公が断った、と噂されることも理解していた。少しでも、アリステアをよく思われたい、そんなリーンハルトの思いを感じる。 「父上、よろしいですか?」 ふと扉が叩かれ、入室してきたのはレクランだった。グレンが扉の外、レクラン付きの騎士ニコルと小声で話している声が聞こえた。深刻な気配は感じず、アリステアは笑顔でレクランを呼び寄せた。 「もちろんだ。いかがした?」 いまは王子の下にあり、勉学に勤しんでいる時間ではないのか。アリステアは首をかしげる。それにレクランが苦笑した。つい、と窓の外へと視線が流れる。 「おや……」 まだ午後も早い時間、と思っていたらすっかり夕暮れだった。赤味の強い黄金の陽射しが、庭園を美しく染めていた。 「父上は少し、働き過ぎだと思います」 「そのようなことはないだろう?」 「あまり打ち込まれますと、お体に障るのではないかと――」 「うん?」 「ニコルが、気にしておりました」 直接公爵に言えるような身ではない、とニコルは差し控えたらしい。それでいて、レクランには懸念を口にした。それがアリステアには嬉しい。ダニールを失ったのは痛恨だった。レクランは我が身を守護した騎士を、ニコルは弟のような男を共に失った。同じ思いを抱えた二人が、親しく言葉を交わすようになったのは、レクランのためによいことだった。 「なるほど。気にかけておこう」 とはいえ、忙しいことに違いはない。リーンハルトほど熱心にはなれなくとも、スクレイドの民のことは気にかけている。領主として、と言うべきだろうが、アリステアとしては自分が守るべき弱者、との意識が強い。マルサドの神官戦士として。 「アンドレアス様に、最近はお茶の腕を褒められるようになりました。父上も試してみてくださいませんか」 うまいな、とアリステアは笑って執務机の前を立つ。仕事を中断させるには素晴らしい言い訳だった。レクランの少しばかり照れたような頬の赤味。目に優しい景色だと思う。 「殿下はお元気か? なにぶん、お目にかかる機会が少ない」 「アンドレアス様も父上に会いたい、と仰せですよ。ただ――」 「うん?」 「その、以前のよう……陛下とお休みのところに飛び込むことは……お諫めしています」 「あぁ……それは助かる」 思わず真顔で言ってしまった。そんな父をレクランが大らかに笑った。さすがにアンドレアスに父親の裸体を拝ませるわけにはいかないだろう。察しているレクランからアリステアは目をそらす。 「ですから、お時間ができましたら、アンドレアス様とご一緒してくださいませ。できれば陛下もお誘いして」 「相わかった。従兄上にもお伝えしておく」 はい、と微笑んだレクランが茶を差し出した。この部屋にも茶を淹れるだけの用意はあるのだけれど、たいていは淹れても冷めるに任せてしまうアリステアであり、書類仕事の傍らに置くのを嫌う彼でもあり、あまり活用しているとは言い難い。 「いい香りだ」 鼻先に漂う仄かに清々しい香り。気分がくつろぐような香りをしていた。茶自体は持参した様子はなかったことから、元々部屋にあったものだろう。ならばこれはレクランの心、ということなのかもしれない。 「いかがでしょう?」 「上出来だ。お前は繊細なことが得手だな」 「もう少し、剣も上達させたいものです」 「お前の年で鍛えすぎるのはよくない。骨が歪むぞ」 「ですが父上は――」 「私とてお前の年には弱く脆かった」 何度もそう聞いているにもかかわらず、レクランには信じられないことなのだろう。いまもまた不審げな顔。それでも努力をする、そんな真っ直ぐな息子の眼差し。 いまはもう、すっかりと立ち直っている、あるいはそのふりができているレクランだった。母のことは割り切れないだろう。何をどう言おうとも。アリステア自身、いい年をして、ウィリアのことは断ち切りにくい。そうできればどれだけ楽になれるか、思っても。 年若いレクランにはなお過酷なことに、母を殺したのは敬愛する父である事実。やりきれない、アリステアが溜息をつきたくなるのはこんなときだった。 「修練の方はどうだ?」 スクレイド領でレクランはマルサド神の声を聞いた、そう言った。以来、王都に戻ってからは司教の手ほどきを受けている。その司教が我が目を疑う、とアリステアに言ってきたから本物だろう。 「はい。まだまだ至りません。司教様は色々と褒めてはくださいますが――」 「神官としては一生至らぬ、と思いながら過ごすものだ。その気持ちを忘れないようにな」 「父上もですか?」 「私のどこが至っている? 我々人間は神の前に脆く果敢ない」 どことなく茶化すようなアリステアの言いぶりにレクランは目を丸くした。父であり、公爵である。そして神官としては遥か高みにいる人。レクランの目標であり続けてくれている男。ふとレクランの口許がほころんだ。 「あぁ、よいものをやろう」 ふと立ちあがり、アリステアは執務机の元に戻る。引き出しを探り、顔を顰めた。この手の片づけものが実は苦手で、引き出しの中は混乱しがちな彼だった。その背を、レクランが見ていた。 「これをやろう」 戻ったアリステアの手にあるのは小さな短刀だった。掌に納まるほどで、手紙の封を切るためのもののよう、小さい。それをくるりと指先でまわし、アリステアは柄の方をレクランへと向けてとらせた。 「ありがとう存じます」 いまだ訝しげなレクランにアリステアは微笑む。その笑みもレクランが見ていた。思わず息さえ飲まんばかりの賛嘆の表情を浮かべた息子に、どうしたのだろう、と思いつつアリステアは短刀に意識を戻す。 「それは、父上に頂いたものだ。私がまだ幼いころのことだな」 「え……」 「柄を見てごらん。父上が彫ってくださった私の名が刻んである」 あ、とレクランが声を上げた。引き出しの中に放り込んであったとはいえ、アリステアとしては大事に保管していたものでもある。なにしろアリステアは常に城にいるわけではない。移動に際し、短刀はいつもアリステアが携えてきたものの一つ。 「従兄上と共に勉学に励むよう、とくださったものだが。いまはお前が持っている方が励みになるだろう」 「……はい!」 ぱっと明るくなったレクランの顔。アンドレアスと共にあり、二人で進んでいくことができれば。そんな父の願いをレクランは聞いた気がした。 嬉しそうに微笑む息子の姿に、アリステアもまた笑みをこぼす。取り落としたものは多い。あえて捨てたものも多い。次に続く時間は守れた、それだけでもよかった、そう思う。 |