北の塔を出れば、涼しくなりはじめた風が吹く。地下牢ではないのだから淀んでいたはずもない空気。それでもすっきりと吹き散らされた気がした。
「少し歩くぞ」
 付き合え、リーンハルトは言う。アリステアは気遣われているのを感じる。テレーザの言葉が胸に刺さっていた。エレクトラは、妻は。考えないようにしていたわけではない。
 アリステアにとっては、妻と言い、伴侶と言いはしても他人だった。公の席でだけ、公爵夫人として扱うだけの他人。エレクトラもまた、同じように振る舞い続けてきた。王冠を得よ、言い続けてきた。
 それが自分への歪んだ愛だとしたならば、それと知っていたならば、自分はどうしていただろう。考えても答えはない。すでにエレクトラはこの手によって死んだ。
 リーンハルトが訝しげに振り返る。一瞬、よぎっただけのはずだった妻の面影。リーンハルトが不審を覚える程度には時間が空いたらしい。アリステアは軽く微笑み、侍従を振り返る。
「外套を」
 冬風、というにはまだ早すぎる。それでも風はいささか冷たくもある。恭しく差し出された外套を取り、アリステアはふわりと広げてはリーンハルトの肩へと羽織らせた。侍従たちが息を飲むほど、優雅で遅滞ない所作だった。アリステアは着せたことなどないだろう。むしろ彼自身が着せられている側だ。それなのに、これほどまでに。
「行こうか」
 ふ、とリーンハルトが微笑んだ。深々と礼をして見送る侍従たちを後に、リーンハルトは庭を歩きだす。ゆったりとした歩調を心がけているな、すぐにアリステアにはわかる。
「見抜かれたか?」
 唇だけでリーンハルトは笑った。テレーザの言葉が棘になっているのは何もアリステアだけではない。むしろ伴侶であったリーンハルトの方こそ。それに心が及ばなかった己をアリステアは悔いる。
「従兄上――」
「色々とな、ありはする。それなりに無茶をした自覚もある」
 ぽつりぽつりとリーンハルトは言う。無茶で済ませるようなことではなかった。テレーザ乱心があったからまだこれで収まっている。
 リーンハルトは思う。テレーザがそこまで惑乱したからこそ、アリステアはこの手にある。否、王妃テレーザが健在であったとしても、自分はあの状況になったならば己の心に気づいただろう。そして国を割ってでも、アリステアを求めただろう。
「我ながら、国王失格かと思うこともある」
 途端だった。人目を憚り、半歩を下がってついて来ていたアリステアが彼の腕を掴んだのは。まじまじと見やれば、怒りをこらえたかのような眼差し。灰色の目が色を強める。
「そのようなこと、断じてお口になさいませぬように」
「お前しか聞いていない」
「本当に、そうお思いですか、陛下」
 王宮の庭園。人払いをしたからと言って、他人の目がないなどどうして言える。召使たちはどこにでもいる。ふ、とリーンハルトが息を抜いた。理解を悟ったアリステアもまた、手を離す。
「アリステア」
「なんです」
「……庶民はいいな、と思った」
「なんです、急に」
「手を繋いで歩く、などしたことがない」
 少しばかり拗ねたような口調にアリステアは目を丸くする。気づけば大きく笑っていた。以前ならば、慎んだ。いまは立場が違う。多少は大目に見てもらえる場所にアリステアは立っている。
「意外と可愛らしいことを仰せですな、従兄上」
「意外とはなんだ意外とは」
「そのままですよ」
 くすくすと笑うアリステアにリーンハルトの口許もほころんで行った。夏も終わり、秋も深まりつつある庭園は、花の数こそ少ないけれど、そのぶん風情があった。こうして歩くには気分がいい。
「お前がこうしている、というのもいいものだ」
 以前は王の従弟として、スクレイド公爵として国王リーンハルトの一歩後ろに控えて散策を共にしていた二人。いまは半歩。並んで歩きたい、思うがさすがに人目がある。
「そう言えばお前のようなものをなんと呼ぶのだろうな?」
「はい?」
「寵姫、ではないだろう。では寵童か? いささか薹が立ちすぎだ」
 からかうようなリーンハルトにアリステアは肩をすくめる。そもそも言葉として定義がないだろう、自分のようなものは。
「少なくとも、従兄上より年は下ですよ、私は」
「童、と言った顔ではないだろうが」
 ぽん、とリーンハルトの拳がアリステアの肩を叩いた。気安い仕種に、アリステアは内心で驚かないでもない。以前は違ったように思う。幼いころを別にすれば。
 こうして、リーンハルトの安らぎの場所になった、自分は。テレーザは、やはり勘違いをしていた。彼女が疑念を覚えた当時は、真実何事もなかったものを。
「……愛しているよ、アリステア」
 突然の言葉に、アリステアは笑おうと思った。なんですか急に、そう言うはずだった。喉は張りついたよう。足は石のよう。リーンハルトの手が、何気なく伸びてきてはアリステアの手に重なる。そのまま繋ぐ。指が絡まる。人目も何も、いまは措くのだと言わんばかりに。
「それですべてが許される、とは思っていない。だが……私にはお前が必要だ。公私共にな」
 愛する人として、スクレイド公爵アリステアとして。ラクルーサの柱石であるアリステア。何より大切だった従弟。いまは更に大切になった。
「……従兄上」
「気にするな、と言っても無駄だろう。何より私自身が気になっている。テレーザの毒、エレクトラの暴挙。いずれもな」
 アリステアは内乱を治めてから、一度もエレクトラのことを語っていない。叛徒として裁いた、と表向きの報告をしたのみ。
 自らの手で処分した、とアリステアは言った。テレーザが言う通り、確かにアリステアは彼女を殺した。
 リーンハルトは一生聞くまい、と思う。その瞬間、エレクトラが何を語り、アリステアが何を聞いたのかは。
「私はお前が可愛いよ、従弟殿」
「……可愛いですか?」
 むっとしたアリステアに、回復を見る。いずれ、どうにもならない場所に立ってしまった。ここまで来たならば、後は進むしかない。開き直ったか、覚悟を決めたか。ふっと揺らいだ眼差しだけがアリステアの真情のような気がした。
「可愛いぞ? 大きな図体をして、妙なところで繊細な従弟殿がな」
「従兄上!」
「あれほど小さく可愛らしかったアリステアが、いったいどうしたらこれほど大きくなったものか。ふむ……。何を食べたんだ?」
「当たり前のものを当たり前に食べておりました!」
「とはいえ、伯父上もそこまで大柄な方ではなかったぞ?」
 早逝したアリステアの父は、長身ではあったけれど、雄大な体躯を誇る型の男ではなかった。アリステアは正に軍神の神官に相応しい体格。
「肖像で見る限り、お祖父様は優れて立派な体格をなさっていましたよ。私のせいではありません!」
 確かに、とリーンハルトは笑った。響いて行く笑い声に、草むらが動く。どうやら避け損ねた庭師の一人でもかがんでいるらしい。
「従兄上、道を変えましょう。たまには違う場所に行ってみたい」
 庭師を慮るアリステアに、リーンハルトが口許で笑う。彼もまた、そこに人の存在があると気づいていた。
 二人顔を見合わせて、道を変える。さてどこに行こうか、そんな他愛ないことを口にしつつ。隠れていた庭師が、無言で王に頭を下げていた。
 それとは知らず、けれどリーンハルトは先ほどのアリステアの言葉が蘇る。確かに人目などどこにあるかわからない。こうして二人で散策していたとしても、二人きりにはなれない。そういう身分に生まれてしまった。普段ならばそれを厭うことはないのだけれど、こんな気分の日にはいささかわずらわしくも思わないでもなかった。
「ありがたい生まれだと思っていたのだがな。衣食住に困ることはなく、手の汚れることもない」
「そのぶん、民に心を砕かれていましょう?」
「当然だろう? 王は民を生かすためにある。民のために死ね、とは古王国の教えだそうだが、そうありたいものだと私は思うよ」
 理想として語られるだけで、中々実践はしにくい。そもそも古王国時代の文献がほぼ残っていない状況では、教訓を語る昔話と大差ない。
「民に生かされている我々だ。民を守るために剣を取る。楯をかざす。そうありたいよ」
「従兄上はそうなさっておいでですよ」
「そうであればいいがな。――とはいえ、たまには庶民の暮らしをしてみたい日もあるさ」
「このように手を繋ぐなど?」
 きゅっと握られた手。リーンハルトは自分から取ったくせに、すっかり忘れていた。繋いだ手の中に熱源があるかのよう。かっと熱くなる。
「せっかくお望みですからな。離して差し上げません、従兄上」
「無礼だぞ!?」
「さて、何を仰せか。突然に耳が遠くなったようです」
「アリステア!」
 笑うアリステアの横顔。少しは気分がよくなっただろうか、リーンハルトは窺う。視線を向けてきた彼の眼差し。なりました、と微笑んでいた。
「さて、気分もよくなったところで……」
「従兄上、それはない」
「忙しいのだぞ? 誰より理解していると思っていたのだがな」
 わかっている、アリステアは長々しい溜息をついた。多少なりとも気分がよくなったのならば、いつまでもこうしているわけにもいかない。問題は山積し、テレーザの件ひとつとっても解決していない。
「結局問題は――」
「ウィリア殿に戻るわけですな」
 そのとおり、二人の溜息が重なる。ここからは恋人の時間ではない、と言うよう、手が離された。リーンハルトはそれを残念には思う。が、嬉しくも思う。アリステアという男を見る思いだった。再び半歩下がったアリステアと、ゆっくりと散策しつつリーンハルトの頭は執務へと。
「あれをなんとかしないことには、どうにもならん」
「アントラル大公はいかがなさいます」
「それも含めて、ウィリア殿、だ。まずは彼女の処遇を決めてからでないと……」
 アントラル大公ですら二の次にしなければならないほど、王太后ウィリアの身分というのは重たいものだった。




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