すべての問題が解決したような気がしていたが、何一つとして解決していない。問題は嫌と言うほど山になっていた。 「まずは……、テレーザか」 御前会議を開こうにも、処遇が決まっていない人間が多すぎる。何はともあれ、リーンハルトの意向が決まらなければ会議などしても無意味だった。 「アリステア」 むっとしたままのリーンハルトにアリステアは苦笑する。北の塔に赴くリーンハルトが同道せよ、と言っているのは理解している。だが、自分がテレーザの前に顔を出していいものかどうか。 「同道するように」 駄目押しのよう、言われてしまっては致し方ない。そっとついたはずの溜息にリーンハルトが反応した。じっと見やってくる眼差しに、アリステアは無言で微笑む。 「気に、しているのか?」 ふっと頬に触れてくるリーンハルトの指。触れた、と思う間もなく引かれて行くのは、いまはまだ執務時間中だからか。 「えぇ……」 アリステアは、誤魔化すこともできたはず。けれど彼はそうはしなかった。リーンハルトに嘘をつきたくない。何より、無駄でもあると悟っていた。 「自業自得、とまで言っては言い過ぎかと思うがな、従弟殿。彼女が右往左往しなければ、私はお前への思いに気づくことは生涯なかったぞ?」 だから気にすることはない、リーンハルトの言い分だった。リーンハルトはどうなのだろう。ふとアリステアは思う。 「あのな、従弟殿。いや、アリステア。私はエレクトラが嫌いだよ。もう少し率直になろうか? エレクトラを憎悪している。それは事実だ」 「従兄上!?」 「だからこそ、テレーザの気持ちもわからなくはない。エレクトラが死んでいるからこそ、平静でいるようなものだ」 ふん、とリーンハルトが鼻で笑った。珍しい仕種にアリステアは目を瞬く。このようなことを考えていたとは、さすがに知らなかった。 ――知られたくないと、お思いでしたか。 内心で呟く。言わせてしまった己の愚かさ。言ってくれたリーンハルトの思い。黙ってアリステアは彼の手を取り、額に掲げるよう、差し上げた。 「私は敬われたいわけではないぞ?」 悪戯めいた口調のリーンハルトにアリステアは小さく笑う。強張ってはいたけれど、そっと。そのまま額に唇を押しあてれば、リーンハルトの手が首筋に。 かわすくちづけの甘さ苦さ。国に混乱をもたらしても、リーンハルトが欲しかった。思うと同時に、リーンハルトの心が手に取るよう理解できる、同じだったのだと。 照れくさそうに笑ったリーンハルトの方がアリステアの胸を押しやる。執務中だぞ、と言わんばかりに。 「私のせいですか?」 唇で笑えば、お前のせいだと目が笑い返す。そして二人は北の塔へと。いまだ足は重いアリステアだったが、かといってリーンハルト一人で行かせるつもりははじめからなかった。 「そう言えば」 北の塔は城内に存在するのだけれど、宮殿や離宮が点在する区画とは別の場所にある。人気のない、はじめから囚人収監用の塔、として建築されていた。古王国時代からの習慣で、北側にはないのに、北の塔と呼ぶ。 「なんです?」 おかげで訪れるとなればかなりの距離がある。もっとも、訪れる機会自体がほぼないに等しい。頻繁にあっては困る場所ではある。 「また『私』に戻ったな、と思っただけだ」 「はい?」 「口にすべきではない場所では、俺と言っていたぞ?」 にやりと笑うリーンハルトに、アリステアが目を見開く。そのままリーンハルトが我が目を疑うほどに、彼は耳まで赤く染めていた。 「アリステア?」 視線を外し、アリステアは片手で口許を覆ったまま歩いていた。これほど動揺した彼を見るのはリーンハルトにしてはじめてだ。 「そこまで照れるようなことか?」 「……できればお忘れいただきたく」 「誰が忘れるものか。なるほど……」 「従兄上!?」 「つまり、人目がなければよい、というわけだな。納得した」 王と公爵が二人きりでふらりと北の塔に向かって歩いているわけでは当然にしてない。王宮を出るころから、彼らの背後には官吏や侍従が付き従っている。会話など聞こえないふりをしているが、耳には入っているだろう。 「……陛下」 地を這うようなアリステアの小声。リーンハルトは明るく笑う。幾分なりとも塔に向かうにあたって気分が明るくなったリーンハルトだった。 北の塔は厳重に管理されていた。一見、太く大きな塔が立っているのみ。だが実は二重の塔だった。外側の塔の最下部に出入りの扉がある。そこも二重の扉になっていて、まず人目につかず出入りすることは不可能だった。 外側の塔を入ると、その内壁に従い、上へと伸びる螺旋の階段がある。その階段に取り巻かれているのが、内側の塔だった。 内側の塔は最上部にのみ、出入り口がある。上がる階段も下りる階段も、すれ違うことができないほど狭い。内側の塔の内部に貴人が収監されていた。内側の塔の中だけならば、貴人たちはそれなりに移動ができる。けれど最上部の出入り口には近づくことはできないし、階段を下りるなどもってのほか。万が一、そのような場合には警告なしで殺害することが警備兵には認められていた。 「鍛錬になるな、これは中々」 高い塔を外側の塔が覆っているだけあって、上までのぼると足に来る。侍従は少し遅れがちになっていた。こぼすリーンハルトは、けれどしかしまったく揺らぎもせずに上がっている。 「こんなもので鍛錬などなさいませぬように」 呆れ顔のアリステアにリーンハルトの唇がにやりと笑いを形作った。やはり、いい気分では当然にしてない。軽口が普段より多いのはそのせいだろう。 最上部の扉にも警備兵がいて、ここから先は国王と公爵、そして兵が一人、随従することになる。 「しばし待て」 せっかくこんなところまで上がってきたというのに、侍従は苦労なことだった、とねぎらうリーンハルトに彼らは揃って頭を下げる。 内部は静かだった。いま収監されているのはテレーザ一人であるせいだろう。さすがにアントラル大公は直接大逆罪を犯した重罪人だ。いかに貴人とはいえ、城の地下牢行きとなっている。 「ご機嫌よう」 むつりとしたリーンハルトをテレーザが迎えた。多少は落ち着きを取り戻したのか、あるいは開き直って平静なのか。彼女の部屋は荒れることなく、淡々とした生活を窺わせた。 「ご機嫌麗しゅう、陛下」 まるでいまだ王妃の座にあるかのよう、テレーザは優雅に腰をかがめて礼をした。彼女の背後、侍女が冷ややかな目でアリステアを見ていた。 「少しは落ち着かれたご様子だ」 テレーザが冷静さを取り戻したのならば、目はある。リーンハルトは考えていた。問題は彼女自身、というよりはウィリア王太后。そのリーンハルトの期待を破るよう、テレーザは高らかと笑う。 「わたくしが? 落ち着いたかと? なんと……」 大きな笑い声が、次第にくすくすと。小さくはなったが、激しい衝動は変わらず。アリステアは無言でリーンハルトの傍らにあり続けた。不意にテレーザの笑い声が止まる。ひた、とアリステアを見やり、唇が歪んだ。 「テレーザ殿――」 リーンハルトが何を言おうとしたのか。テレーザはそれを遮る、眼差しで。その澄み切りすぎた目にリーンハルトは否応なしに止まった。 「エレクトラは亡くなったとか、スクレイド公?」 「急逝いたしました」 「言葉を飾られますな。わたくしの耳にも届いております。公爵ご自身が切り捨てたと」 「テレーザ殿、従弟殿を責めるのはやめていただこうか」 リーンハルトは息を飲む。テレーザが浮かべた笑み。無垢な子供のような。彼女という人を知らなかった、まざまざと思い知る。 「……エレクトラが羨ましい」 ふわりと彼女は笑う。進み出た侍女がそっと主人の手を取り、慰めるよう握っているのにも気づかずに。 「夫の手にかかり、彼女は幸福でしたでしょう」 隣の気配が固くなった、リーンハルトはそれと知る。だが視線を向けもしなかった。いまこの瞬間アリステアは顔など見られたいと思っていない。案じられることすら侮辱、そう感じているだろう。だからこそ、真っ直ぐとテレーザを見続けた。 「エレクトラは、本当にあなたを愛しておりましたのよ、ご存じだったかしら。公爵殿」 「さて」 「自分には見向きもしない夫が、最後の瞬間には自分だけを見てくれた。どれほど彼女は幸福だったことか」 エレクトラの最期の表情をアリステアは忘れてなどいない。彼女が何を思い、何を考え、行動したのか。理解はしている。ただ、理解しただけだ。アリステアにとっては赤の他人がどう行動しようが無関係。すでにそう切り捨てた事実。今更テレーザに言われるまでもない。 「私なら愛する者の手にかかるなど、とてもできんな。それで愛する人の心に重荷を負わせるのか」 リーンハルトの中でテレーザに寄せていた最後の情愛が断たれた瞬間だったのかもしれない。国王と王妃として長の年月を過ごし、多くの子を儲け。愛ではなくとも、敬意は捧げていたものを。リーンハルトの表情に何を見たか、テレーザはまた高く笑った。 「それでも愛する方の心に残りたい。そう思うのはおかしなことでしょうか」 「そんなものは自己満足に過ぎん。言語道断だ」 「それを陛下が仰せになりますか?」 ふ、とテレーザが唇を歪めた。はじめて侍女にとられた手に気づいたのだろう。彼女に向けた優しい眼差し。涙をこらえる侍女がきりりと国王と公爵を見据えていた。 「――恋の勝者である陛下が」 侍女から眼差しを戻したテレーザの一言。リーンハルトに返すべき言葉はなかった。ただ一つ、理解した。テレーザとウィリアを同じ場所に置くことはできないと。不意にアリステアが口を開く。重い声をしていた。 「――所詮、誰かが勝てば誰かが負けるものです。私はあなたに勝った。それを謝罪するつもりはありません」 「謝罪などしたならば呪い殺してくれます」 「どうぞ御存分に。我々は、我が神によってお守りいただいております」 にこりと笑うテレーザ、我々、とアリステアが言ったときだけ歪んだ。 |