体の上、ゆっくりとアリステアの重みがかかる。気を使っているのだろう、顔の両側で肘をついて支えているその姿。リーンハルトは手を伸ばし、その頬に触れる。
 どことなく、くすぐったそうな、照れくさいような微笑。すぐ目の前で見るからこそ、エレクトラを思ってしまう。
「従兄上?」
 囁きほどの声。不思議そうなアリステアのそれにリーンハルトは笑ったつもりだった。なんでもないと。アリステアの眉が顰められる。
「どうしました?」
 肌と肌が触れ合っている。ぴたりと、吸いつくようなアリステアの肌。鍛錬を重ねているせいだろう、滑らかな肌をしていた。リーンハルトは無言のまま頬を、肩先を。撫でている。ここに触れたのは自分だけではないと。不意に軽く唇に、触れるだけのくちづけ。灰色の理知的な目がかすかに笑っている。なんでも聞きますよ、と言いたげに。
「……はじめて、テレーザの気持ちがわかった」
 エレクトラは、彼の正妻で、神の前に誓った妻だった。なんのおかしなこともない。二人の間には一子レクランがある。夫婦として、あってしかるべきこと。
 それなのに、こんなにも許し難い。アリステアに触れ、触れられたエレクトラを唐突とも言える激しさでリーンハルトは憎む。
 これか、と思った。テレーザが狂乱したのは、こんな思いが原因だったかと、はじめて理解した。
 歪むリーンハルトの唇。アリステアには、言わなくともその思いが通じた。寝台の上、ぎゅっと彼を抱きしめる。縋りつくような腕が背中にまわり、アリステアを抱き返し。けれどそれだけ。リーンハルトは無言のまま。その耳元、アリステアは囁く。
「俺のすべてはあなたのものです。はじめから」
 合わせた肌から伝わってくるリーンハルトの鼓動。跳ねていた。戸惑う指が背中で蠢く。力を入れた拍子に、迂闊に爪を立てたのにも気づかないリーンハルトに感じる思い。
「……嫉妬に狂う私を」
 ぐい、とリーンハルトがアリステアを引き離した。真正面からアリステアを見る眼差しは強い。噛みしめた唇に血の色が浮かぶ。
 そしてリーンハルトは彼の手を取り、その指先を口に含んだ。そのまま歯を立て、アリステアを見ていた。痛いだろうに。表情一つ変えずこちらを見ている彼を見ていた。笑みを含んだままのアリステアの目。エレクトラに触れた指をリーンハルトは噛み続ける。
「同じことを、言いましょうか?」
 アリステアもまた、リーンハルトの手を取り、指を含んだ。噛むまではしない。唇で挟み、痛みを与えないように。けれど強く。足らない、リーンハルトの目が笑う。歯を立てれば、かすかな呻き。それなのにリーンハルトは微笑んでいた。
「……アリステア」
 彼を呼び、抱き締める。触れ合った肌がしっとりと熱を帯びていた。首筋に埋められるアリステアの顔。耳元で聞こえる彼の呼吸。跳ねた鼓動がもう戻らない。
 笑みをかわし、くちづけをする。軽いそれが、深いものへと。貪るよう求めるリーンハルトの指がアリステアの髪の中へと差し入れられ、より一層彼を引き寄せていた。
「ん……」
 アリステアの手もまた、リーンハルトに触れていた。はじめて触れるような気がしない、そう言ったら彼は怒るだろうか、それとも納得するだろうか。手に馴染んだ肌の感触。それでもこんな声は聞いたことがない。漏れた吐息が耳元に。
 首にくちづければ、くすぐったかったのだろうか、わずかな笑い声が漏れる。思わず見上げたアリステアに、やはりリーンハルトは笑っていた。悪戯に睨み、アリステアは口許を歪める。
「あ……!」
 胸のあたりに触れていた指。今度は唇で。驚いたのか、違うのか。上がった声をアリステアは聞こえなかったふり。そっと押し返すような指など、気にも留めない。舌先で弄い、唇で吸う。体の下で身をよじるリーンハルトの肉体。寝室の薄明かりの中、かすかに汗ばんでいた。
 眩暈のような恍惚感。はじめてだとアリステアは思う。ただこうしているだけで、これほどにも快い。肉体の快楽ならば、知っている。似ていて違うのだと、知った。たまらなくなって体をずらす。
 胸から脇腹に、臍に。アリステアの唇が触れるたびにリーンハルトは声を上げた。このような交わりははじめてだったけれど、不思議とまるで気にならない。むしろ、待ち望んでいたものがようやく得られた。
 アリステアがはじめてであったのならばリーンハルトにとっても。望んで得られないものはない王の身として、アリステア以上に知るべきことは知っていたはずのリーンハルト。それでも。こんな充足ははじめてだった。自分に触れる男の体を抱き返せば、時折自分を見上げてくる灰色の目。笑みを含んだその色合いの変化。リーンハルトは気づけばまじまじと見ていた。途端にその体が仰け反る。
「やめないか、アリステア……! そんなことは!」
 膝を割られ、間に入り込んだアリステアの唇が。そこに。膝頭を押さえつけられた力の意外なほどの強さ。意外でもなんでもないはず。ただ、アリステアが強引なことをするとは少しも思っていなった。
「だめですか?」
 悪戯っぽく笑う灰色の目。膝頭にくちづけをくれ、リーンハルト自身にも。すでに勃ちあがった場所に、そんなことをされたのはさすがにはじめてだった。動揺して瞬きを繰り返すリーンハルトにアリステアは微笑む。唇を開き、その中にと飲み込む。挟み込み、舌で嬲る。
「娼婦の、するようなことを……お前が……!」
 体をそらし、寝台の上で身をくねらせるリーンハルト。肩先に食い込む彼の手。顔をかしげ、それにもくちづければ、もうそれだけで反応するリーンハルトだった。
「楽しんでいただく術を他に知らないので」
 嘯くアリステアにリーンハルトは眼差しを戻す。どんな顔でそれを言っているのか見てやろう、そう思ったはずなのに、生真面目な顔をしていた。
「アリステア」
 呼びざまに、腕を引く。アリステアの目が丸くなった。確かに気を抜いてはいたけれど、あまりにもあっさりと引き上げられたことに。リーンハルトはやはり素晴らしい。そう思ってしまう。自分以上の剣士がここにいる。
「こうしているだけで、私は幸せだぞ?」
 抱き締めてくるリーンハルトの腕だった。けれどどうしてだろう。アリステアは縋りつかれているような、そんな気がした。
「本当だからな?」
 リーンハルト自身にとって、それは嘘ではなかった。アリステアを抱き締め、抱き合い。感じる満足、充足。愛する人と肌を重ねるとは、こういうことなのだと本心から思う。
 ――誰にも渡さない。
 言葉にすらならない心の奥深くで、リーンハルトがそう感じていたのだとしても。彼が意識しない思いをアリステアはけれど、聞き取る。
「最初からあなたのものだと、言ってるでしょうに」
 かすかな笑い声めいたそれにリーンハルトはむつりと唇を引き結んだ。その目がちらりと笑う。昏い蒼の目が不思議とこんなときには明るくなる。幼いころ、何度も見たはずなのに、奇妙に新鮮。
「従兄上!?」
 ひょい、と体を入れ替えられた。あまりに無造作に。確かにここにいるのは王国随一の剣士だと感嘆している場合ではなかった。
「お前が知らないのならば私が知っているはずはなかろう?」
 ちゅ、と音を立てるやり方など、教えたのは誰だ。アリステアが今度は身をよじる羽目になる。リーンハルトの笑う目。自身に触れる唇から、アリステアは目がそらせない。ひどく冒涜的で、だからよりいっそう深い快楽。そらされた喉に、リーンハルトの唇。互い自身に手を伸ばし、掌に熱を感じる。絡み合う肢体に弾む呼吸すら渾然と。目が笑えば、くちづけを。
 ――誰にも渡さない。
 アリステアが同じことを考えたとは、リーンハルトは知らない。それでも思いは同じだった。朝まで、何度も互いを貪りあい、与え合う。確かにこれはある種の婚姻だったのかもしれない、後々になって二人はそう思うことになる。

 翌朝。少々のことは見逃すつもりだった女官長も、さすがに放置はできなくなった。朝食の時間にリーンハルトが起きてこない、目覚めている気配もない、とは尋常ではない。
 もっとも、昨夜はスクレイド公爵の一種の披露目でもあり、そのせいだろうと女官長は普段よりは時間を置いたのだが。
「陛下、お目覚めなさいませ。……殿下!」
 老齢の女官長は、実のところ「アリステア王子」と王弟殿下の一子「リーンハルト卿」が遊んでいたころを知っている一人だ。時折アリステアに殿下、と厭味たらしく呼びかけるのもこの人だった。
 アリステアをたしなめられるのも、リーンハルトに小言を言えるのも、目下この女官長くらいしかいない。その女官長は慌てず騒がず戸口で後ろを向く。あられもないものが視界に入っていた。淑女として、断じて見てはならないものだろう。アリステアの腕の中、まだ肌もあらわなリーンハルトがすっぽりと包み込まれて眠っていた。
「……殿下はやめてくれ」
 アリステアは起きたのだろう。寝台の中から文句を言う声。女官長は肩を怒らせ、けれど振り返りはしない。寝台の中は動いた物音がまだしなかった。
「最も高い敬称でお呼びするのは当然のことでございます、殿、下!」
 なんたる格好をしているのだ、叱られたアリステアとしても今日くらいは見逃してほしいと思う。まだ眠るリーンハルトの瞼、そっとくちづけをした。
「わかった、わかったから。いま起きるから、外で待っていてくれ」
 あえて外で、と言えば女官長が当然でございます、と怒っていた。ぷりぷりと肩を揺らして出て行き、彼女にしては礼儀はずれに音を立てて扉を閉める。また薄暗闇に戻った寝室、アリステアは小さく微笑む。
 女官長の叱声も夢の中には届かなかったのか、リーンハルトは起きる気配もない。こんなにぐっすりと眠る彼を見るのははじめてかもしれない。
 幸せだ、唐突なほどに湧き上がってくる思い。寝乱れた金の髪をかき上げ、耳元に囁く。本当は起こしたくなどなかったけれど。
「従兄上。朝ですよ」
 昨夜、何度昔のように呼べ、と言われただろうか。結局いまに至るまで直らない。どうしても従兄上、と呼んでしまうアリステアを最後には諦めて笑ったリーンハルト。
「……夢では、なかったのか」
 開いた瞼の向こうから、蒼い目が不思議そうにアリステアを見た。確かめるよう触れてくるリーンハルトの手。アリステアは黙ってそれを取り、自らの胸へと当てさせれば、リーンハルトの掌に伝わる彼の鼓動。ここにいます、黙って微笑むアリステアにリーンハルトも笑みを返した。
「起きないと。女官長が呼びに来ましたよ」
「女官長……。女官長!?」
 とんでもなく驚いたのだろう、一呼吸で飛び起きたリーンハルトの裸体。アリステアは背後から抱きすくめ。更に遅くなった朝の時間に女官長をいっそう怒らせた。




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