もう一つ、難題が残っている。アリステアはちらりとレクランを見た。どうしたものか、とわずかに考える。 「父上」 促しに、アリステアは苦笑した。レクランは確かに幼い。だが、スクレイド公爵家の後嗣であるのならば、見なければならないだろう。うなずき、レクランに同行を許す。 「グレン。何名か供をせよ」 は、とグレンが強張った声を上げる。彼には若い騎士にわからないことが理解できる。選び出した騎士たちはいずれも胆力に見どころがある、と彼が見ているものだろう。 アリステアは滅多に戻らない本邸の中、レクランと騎士を伴い歩んでいく。侍女たちが怯え、あるいは泣いていた。恐怖であるのかもしれないし、もしかしたらエレクトラを慕っていたのかもしれない。侍女たちにとって彼女はよい主であった可能性はないとは言えない。 内心にそっと溜息を押し殺す。レクランが真っ直ぐと顔を上げているのに己が見苦しい真似はできない。 そしてある扉の前、アリステアは立つ。すでに配下の騎士が守っている扉だった。中の人間を守っているのではなく、その逆だ。断じて逃亡を許すな、と言いおいてある。もっとも、逃げるはずはない、とアリステアは思っていたが。 開かれた扉の向こう、黒衣に身を包んだ痩身の女性。アリステアの母、王太后ウィリア。黒衣であるのは、亡き夫の喪にいまも服し続ける、そんな見栄だ。彼女が夫の死を悲しんでいるとはアリステアは思わない。 「ご機嫌よう、母上」 苦い声でアリステアは吐き出す。レクランはただ無言で隣にいた。誘拐されて以後、この祖母と顔を合わせる機会はあったのだろうか。同じ屋敷内とはいえ、ウィリアが何をしているのかまではアリステアにもよくわかったためしがない。孫を可愛がるような女でもない。アリステアが得ない王冠の代わりに、その土台としての頭を持つ孫、として愛でたかもしれないが。 「ご機嫌よう、お祖母様」 レクランの淡々とした声にアリステアは想像があっていることを知り、やはり苦い。家族を愛せ、などと言うつもりはない。アリステア自身、そのような庶民風の考えは持っていない。だがただの「土台」として見られているレクランの不快は当然だった。 「ご機嫌よう、アリステア殿、レクラン殿」 微笑む、と言うには冷たい笑み。思えばこの母が大らかに笑んだ姿を見た覚えがアリステアにはない。父が存命であったころから。 「よくぞなされましたな」 その薄い笑みが唇をより深く刻む。レクランが顔を顰めるのをこらえた気配。アリステアも内心で同感だ、と感じる。 アリステアは苦々しい顔を隠しきれなかった。ウィリアは言う。自分はここに軟禁されていたのであって、いま息子の手で救い出されたのだと。叛徒には何らかかわっていないと。 「なにを白々しい」 思わず吐き出した。それにウィリアは微笑むだけ。どこかで見覚えのある笑い方。ふと気づく。エレクトラはこの義母に笑みの作り方を倣っていたのかと。それを思えば憐れではある。 「ウィリア殿を丁重に――捕縛せよ」 背後に付き従う騎士たちが、あまりにも端的な主の命令に一瞬、すくんだ。だが一呼吸とおかず返答が返る。グレンのものだった。 「なにを……!」 王太后とすら、アリステアは呼ばなかった。息子とはいえ、名を呼ばれた屈辱にはじめて人間らしい感情が彼女の頬に浮かぶ。 「わたくしに触るでない!」 騎士たちは細身の老女とあって手荒にはしにくいらしい。気にせずともよい、アリステアは言いかけて、そちらの方が騎士の負担になるかと控えた。 「我が留守中に屋敷を叛徒の巣窟に変えてくださいましたからね。罪は償っていただきましょう」 アリステアの言葉にウィリアが唇を噛みしめる。訝しく思った、アリステアは。ふとレクランが見上げてくる眼差しに答えを知る。 「なるほど。あなたは私が逆らうはずはない、とお思いだったか」 息子は自分の言いなりだ、とウィリアは考えていた様子。レクランはそれを聞いていたのだろう。彼自身、首をかしげるような言葉であっただろうに。 「思えば、あなたがエレクトラ殿をこの屋敷にお連れした日にどこぞに軟禁しておくのでした」 「な……。アリステア殿。何を仰せか」 「エレクトラ殿はその意味で、犠牲者でしょう。あなたが息子の妻として連れてきたからこそ、彼女は結果としてこのような暴挙に至った。あの日にエレクトラ殿を丁重にお返しし、あなたを軟禁していれば今日の日はなかった」 それを聞く息子がどう感じるか。言ってしまってからアリステアは臍を噛む。視界の端、そのとおりだ、レクランがうなずいていた。自らの母であるからこそ、より強くそう感じるのかもしれない。 「エレクトラ殿を叛徒にしたのは、ある意味ではあなたですよ、ウィリア殿」 「叛徒、叛徒と!」 「国王に逆らうものを叛徒と言うのです。何か御不審がありますか」 鼻で笑うでもない父の姿を、レクランは横で感じている。いつか、と思う。この父のよう毅然と立ちたい。父に迷いがあることは、レクランとて知っている。国王と自分の醜聞に、こうして国を騒がせる結果になっている。それでも父はすく、と立っている。 ――アンドレアス様。 あの王子のために、父のようになりたい。レクランはだからこそ、父と祖母を見続けている。このような場合、どうすべきなのか。否、どのような手段があるのかを学ぶために。アリステアもアンドレアスのために、子息を同道している。それはおそらくウィリアにはわからない親子の形だっただろう。 アリステアの眼差しに、ウィリアがかすかな怯みを見せた。その隙に騎士たちがウィリアを拘束する。老女とあってアントラル大公を縛ったほどではない。が、彼女自身の手では決してほどけない程度には固く。 「従兄上に逆らう者は何人たりとも私が許しません」 アリステアの断言。レクランは父の基準はここなのだ、と改めて知る。国王リーンハルトを守護する、その一点が父の正邪の判断基準なのだと。ならば自分は、とレクランは思う。いまはまだ、はっきりとは言えない。できることならばアンドレアスに諫言できる身になりたい、それを受け入れる王子であってほしい。漠然と思うのみ。 「そこまで誑かされおったか!」 きっとウィリアが息子を睨んだ。彼女にとって、アリステアは逆らったことのない息子。アリステアの立場に立てば、相手をする要もなかった、というだけなのだが彼女はそう解釈してはいない。諾々と母の言うなりであったはずが。 「我が背の君がどのようなお気持ちで身罷られたか。どれほど――」 「父上はこの上ない安堵と共に亡くなられたでしょう。固い信頼で結ばれた弟君が確固とこの国を守ってくれると父上は信じて逝ったはずですから」 「簒奪者め!」 ウィリアは筆舌に尽くしがたい暴言を吐く。アリステアの頬がわずかに白くなる。騎士たちですら顔色を変えたほどの罵詈雑言。 「簒奪者め! リーンハルトに呪いあれ! 王弟も王弟。アリステア殿という立派な殿方がありながら、我が子可愛さに玉座を譲るとは。尊崇を捧げた兄上のお子に譲るべきでしょう、アリステア殿こそラクルーサの玉座に座られるべき方であるというのがなぜわからぬ」 「そのような理由などどこにもないからです。そう信じているのはあなた一人だ」 「愚かな! なんと愚かな。あぁ、王弟に呪いあれ。背の君が許してもわたくしは許さぬ。神が嘉したもうともわたくしは呪う。リーンハルトよ、呪われよ!」 まだ言葉を続けるつもりであっただろうウィリアがぴたりと黙った。喉元に剣。ちくりと切先が刺さる。わなわなと震える眼差しで息子を見た。 「せいぜい屋敷の奥で吼えてください。従兄上にご迷惑をかけないように」 「ア、アリステア、どの……」 「今後、似たようなことが起これば私はまずあなたを疑います。その疑いが仮に間違ったものであれ、そのときには死んでいただきます。よろしいですね」 「この母を……」 「殺しますよ。何らためらいはない。今すぐ死んでいただいても私はかまわんのです。一応、従兄上にご報告する都合上まだ生かしているだけです」 「リーンハルトめが――!」 「それと」 ちくん、冷たい痛みを感じてウィリアは声を上げる。喉に突き刺さった剣を感じた。もし刺さっていたのならば悲鳴など上げられるはずはない。だがウィリアには、戦場に立つはおろか、剣すら握ったことのない彼女にはわからない。 「従兄上をお呼びするときは国王陛下、が正しい呼称です。簡略に呼ぶにしてもリーンハルト王とお呼びすべきであると心得てください」 もう一度アリステアはかすかな傷をつける。失神しそうなウィリアだった。内心の溜息をレクランが聞いた、そんな気がしてちらりと見やれば、祖母の惨状にレクランは顔を強張らせていた。 「王太后殿下を静かな場所にお移しするよう。長閑なところでご静養いただくのがよいだろう」 は、と返答する騎士たちにアリステアはスクレイド公爵家が持つ別荘の一つを指示する。小さな別荘ではあるが、数世代前の公爵夫人が好んだ、という優雅なものでもある。無論、アリステアにとっては赤の他人だ。断絶していたスクレイド公爵位を持ってきたのもウィリアだった。厳重な警戒を騎士たちに申しつけ、アリステアはもう一度だけウィリアを見る。 「王太后の尊称まで賜っておきながらのこの暴挙。よくよく自らを省みられるがよろしいでしょう」 「亡き背の君の王妃であったわたくしが――」 「先代国王陛下にも、リーンハルト王にもあなたを敬う道理はない、ということに早く気づくべきでしたね」 「なにを仰せか。わたくしは背の君の。――アリステア殿にはなぜおわかりにならない。この母の愛がなぜわからぬ。あなたに栄誉を授けたいという母の愛が!」 「あなたのそれを愛などと呼ぶには私には抵抗が強すぎますね。あなたは自らが敬われるための道具として、私に王冠を得させたかったのでしょう。レクランでもかまわなかった」 そうだろう、とレクランを見やれば苦笑しつつうなずく少年。ウィリアには異形の化け物を見るようだった。 「そんなものはただの自己愛、と言います。では、再会の日までご壮健で。もっとも、もうお目にかかることはなかろうと存じますが」 会う日が来たのならばそれはお前を殺害する日だ、アリステアは眼差しに語らせる。ひっと息を飲んだウィリアが気を失い、戸惑う騎士たちによって連れられて行った。 |