喉元に剣を突きつけられ、それでもなお嫣然と微笑むエレクトラだった。恐怖など微塵も見せない。大公のよう、見苦しく騒ぎもしない。そのことにアリステアはわずかに満足を覚える。だが許す道理はなかった。視界の端、歯の根も合わず大公が震えている。
「もう少しでしたのよ」
 ふっとエレクトラが笑みを浮かべたまま呟いた。真っ直ぐとアリステアを見ながら。アリステアはいかなる眼差しで見られようとも決して揺らがない。そのような場所はすでに通り過ぎてここにいる。
「テレーザが王を傷つけていたら。アンドレアスの出自が証明できなければ。大公殿下がもう少し性根の据わった方でいらしたら」
 小さな溜息。それさえかなえば、アリステアに王冠を授けることができたのに、と残念に、本気で残念に思っているかのような。
「エレクトラ殿、そなた――わしを謀ったか!?」
 アントラル大公の叫び。王冠奪取の後は自分こそが、そう思っていたのだろう。だがエレクトラにその気がなかったのだといまにして彼は知った。
 だがアリステアは違う。エレクトラの言など何一つとして信じない。その要がない。喉元の剣は動きもしなかった。
「どれか一つでもわたくしの手にあれば。あぁ……王冠はあなた様の物でしたのに」
 大公の叫びなど聞こえてもいない、エレクトラはそう言わんばかりにアリステアに向かって微笑んだ。ここが公爵夫妻の寝室であったなら。夫妻があるべき姿として睦まじくあったなら。それは美しい微笑み、と呼んでもよかった。
「従兄上に逆らった罪は万死に値する」
 アリステアが言ったのはただ一言、それのみ。エレクトラは変わらず。大公がひっと息を飲む。エレクトラの逃亡を防ごうと背後にいるニコル。その必要はない、すでに彼も悟ってはいるが、淡々とその場に居続けた。
「それほどリーンハルト殿がお大切ならば、王冠を得られませ。愛人の一人にでも囲ってやればよろしいでしょう。わたくしはテレーザと違いますもの。それくらいのことで取り乱したりなどいたしませんわ」
 テレーザを嘲笑し、エレクトラの笑みは揺れることなくあり続ける。嘲っているのに、不思議と淡麗に美しい笑み。覚悟を決めた者の笑みだった。
「なるほど。貴様も正気ではないらしい」
 アリステアの唇が皮肉に歪む。横目で見やればそれだけで失神しそうな有様の大公。エレクトラは組む相手を間違えた、そのようなことを思う。もっともリーンハルトに反逆する時点でアリステアは間違いなく動くのだから、いずれ同じことではあるのだけれど。
「従兄上に対する暴言、許し難し」
 アリステアが不意に微笑んだ。眼前で狼が笑ったかのような恐怖。感じたのはエレクトラではなく、彼女の背後にいるニコル。ぞっとして一歩を下がりかけ、自らを恥じて立て直す。
「そう……」
 ふんわりと、少女のようエレクトラは笑った。アリステアただ一人を見つめ。その胸元に切先。ドレスに血が染みる。広がっていく真紅の花のよう。大公が悲鳴を上げた。はじめてアリステアは彼女が夜着姿ではないことに気づく。こうなると、予測していたか、妻は。だが手は止めることなく剣を胸へと埋め続け。そのアリステアの頬にエレクトラが自らの手を添える。
「そうして、あの方ばかりを追いかけるあなた様を、お慕いしていましたのよ。アリステア殿」
 最悪の呪詛にも似た。エレクトラの本心だなどとは断じて思わない。彼女の唇から吐きだされるのは憎悪と嘘。アリステアがはじめて見る笑顔のまま、エレクトラは事切れた。すとん、と力を失った手が落ちる。剣だけに支えられたエレクトラ。アリステアは無言でその体を抱きとめる。妻に対する情ではなく、見事に戦った敵への敬意として。
 音がした。アリステアは悠然と振り返る。いまここに危険はない。大公が縋りつくよう、新たな人物を見やる。その顔が歓喜に染まった。
「レ、レクラン殿! 貴殿の父御が母君を手にかけたのだぞ!? 息子ならばいかになさるべきか!?」
 人質として、屋敷の奥に軟禁されていたレクランだった。父の手勢によって解放され、父のいる場所まで連れてこられ。そして目にしたのは母の胸に剣を突き立てた父。
「誘拐されて以来、ずっと祈っておりました」
 レクランは呟く。もう一度同じことをはっきりと顔を上げて父に言う。その眼差しの強さ。大公など目にも入っていない意志の強さ。アリステアはわずかにうなずく。
 その上で、アリステアはレクランに剣を向けた。いまだ母の血に染まった剣を。救出に動いた息子の喉に向けて。騎士たちが息を飲む。
「なにを」
 短な問い。レクランは剣が見えていない様子で微笑む。胆力は、父母どちらに似たのか。アリステアは意味のないことを思う。
「ただただ、アンドレアス様のご無事を」
 自らの命ではなく、救出を祈るのでもなく。レクランは、出自を疑われたアンドレアスの無事だけを念じていた、そう言う。きっぱりとした口調に、アリステアはかすかにうなずく。
「母上は……」
 アリステアの腕にある、母の亡骸。ドレスの染みは広がって、顔はもう白い。いつになく、穏やかな顔をしている。レクランは思う。
 父に言うことは一生ないだろう。レクランは思う。だが彼は誘拐され、母の挙措に触れ、思うところがあった。
 母は母なりに父を愛していたのではないかと。母は、父の下にはじめから妻、として連れてこられたのだと仄聞している。アントラル大公家出身の祖母、先々代国王の王妃である父の母の手によって、アリステアの妻、として連れてこられた少女。もし、父の感じ方が違ったら。もし、出会い方が違ったら。
 レクランはこの期間、それを思っていた。ただ、同時に思う。いついかなる時に出会おうとも、父の眼差しの先にはもう別人がいた。息子の目から見ても、父と国王の間には何人たりとも踏み込めないものがあった。それが世人の言う愛なのか、稀なる忠誠なのかはレクランにはわからない。
 母は、それに我慢できなかった。それだけは知っている。夫を真実、取り戻そうとしたのは王妃テレーザではなく、公爵夫人エレクトラ。それでも。
「母上は、王家の藩屏たる公爵家の者として、越えてはならない一線を越えられました」
 それだけは、許されるべきではない、レクランは思う。アリステアは考える息子の目を見ていた。迷うのではない、言葉が足らず、誤解を招くのを恐れるよう、ゆっくりと言葉を選ぶ息子だった。
「殿下のことは」
 レクランに比べて、アリステアの声音は鋭い。それは彼が若年であるせいでもあり、アリステアが戦場を知るせいでもある。息子は父を恐れることはしなかった。
「一片たりとも疑ってはおりませぬ。神かけて」
 それにようやくアリステアの口許が緩んだ。針を落としても聞こえただろう緊張が、ゆったりとほどける。騎士たちが背中で息をしたのがアリステアの視界に入った。
「そうか。存じておるか」
「なにを、にございましょうか」
「殿下の出自が取り沙汰され、いかなる処置が下されたかを」
「存じませぬ。ですが、父上――」
「殿下はご無事だよ、レクラン」
 口調を改めた父に気づきもせずレクランは華やいだ笑顔になった。どれほどアンドレアスを案じていたのか、アリステアにも伝わる。君臣の情の篤さに騎士たちが感極まってかすかな声を上げる。
 一瞬にして、喉元にあったなど信じられない、幻覚だと言われたならば信じずにはいられない、それほどの鮮やかさで剣が消えた。風を切る音を立て、いまだ剣身に残る血をアリステアは振り落とす。
「……ひっ!」
 エレクトラの血が飛んだのだろう、大公が悲鳴を上げた。アリステアは軽く顎をしゃくる。珍しい主の不快を示す仕種。騎士たちは一言も挟まず大公をきつく縄で縛りあげる。
「祈りの中、理解したことがございます」
 レクランはちらりと大公を見ただけだった。彼もまた、母は組む相手を間違えた、そのようにも感じているらしい。憐みの眼差しに、たかが十二歳の子供に憐れまれ、大公の悲鳴が止まる。我が身を恥じた、否、スクレイド公爵父子に対する恐怖。
「ずっと、聞こえていた声のこと、父上はご記憶でしょうか」
「あぁ、覚えている」
「あのお声は、マルサド神のお声であったのだと、理解しました」
「我が神はなんと仰せだ」
「アンドレアス様をお守りするために我が生はあると」
 即答した、レクランは。アンドレアスを疑わなかったのと同じ強さで、一片の曇りなくレクランは宣言する。この身はアンドレアス王子のために使われるもの、王子のために生きるのだと。
「よくぞ申した」
 アリステアが微笑んでいた。いまのレクランの言葉を子供の戯言、とは感じなかった。あえて神剣にかけて誓わせる必要も感じなかった。マルサド神はレクランに真実語りかけ、その誓いを嘉したもう。アリステアにも聞こえる強さで神は語っている。余人には聞こえない声で。
「近々、ゆっくりと語り合うこととしようか」
 はい、と微笑むレクランにアリステアはうなずく。そして騎士たちに命じて大公を連行させた。強張ったまま、大公は半ば引き摺られるようにして部屋を出る。最後に振り返った。
「……アリステア殿、わしは、どうなるのだ……?」
「古来、大逆を犯した者の末路は決まっている」
 端的なアリステアの言葉に大公はその場で気を失った。騎士たちがむつりと口を引き締めて担ぎ上げて行った。入れ替わりに入って来た侍女たち。グレンが促したのだろう。見やれば彼はアリステアを黙って見つめていた。それにうなずく。
「公爵夫人は急逝した。戦時ゆえ簡略ではあるが、葬儀を許す」
 侍女たちがあるいは安堵し、あるいは涙にくれる。アリステアが公爵夫人、と呼んだ意味を騎士たちは思う。侍女に引き渡した妻の亡骸は重く、冷たかった。
「お館様」
 エレクトラの血に塗れたアリステアの手だった。グレンは手を拭うよう、と布を手渡す。無表情が、いまはありがたい。ふとアリステアは気づく。ニコルが涙をこらえていた。
「誤解があるようだが、情ではないぞ」
 エレクトラの罪を許したわけではない。それをアリステアは言った。ただ、そうすることが政治的に有利であるだけだ、と。アントラル大公家を潰す、その一点で。
「どちらが糸を操っていたのか、いまとなってはわからぬがな。アントラル大公には黒幕になっていただこうか」
 皮肉にアリステアは言った。騎士たちも、理解している。エレクトラが糸を引いていたと。彼女は怒るだろう、ふとアリステアは思う。
 だが、どう感じようとアリステアには関係のない人だった。エレクトラはリーンハルトに逆らった。




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