破格な主君だった。いかに戦場とはいえ、主君が騎士たちと共に車座になって傷の手当てをするなど、おそらくスクレイド公爵家以外では考えられない。騎士たちは殊の外にそんな主の姿を喜ぶ。この方のためならば命すら惜しくはないとばかりに。 だからこそ、アリステアは笑顔で彼らの相手をしつつ、考えている。数は力だ、それを実感してもいた。 今日の戦闘にはほぼ完勝。相手の方が損耗率は高いとはいえ、こちらはそもそも小勢。否、できることならば一人の騎士、一人の兵とて失いたくはない。自分のために、と戦ってくれる彼らだからこそ。 負けない戦いは容易だが、勝つ、それもこちらの被害を抑えて勝つのは難しい。騎士たちにそれを言えば、お気になさることはない、言うとわかっているだけになお難しい局面だった。 「な――!」 視線を外していたアリステアの耳に騎士たちの驚愕の声。何事だ、とグレンが腰の剣に手をやり、そのまま硬直する。アリステアも、驚いた。が、騎士たちのそれとは趣が異なる。 「陛下!」 あり得ない、確かにあってよいはずはない。リーンハルトがなぜここに。しかもたった一人、いったい何があったというのか。一斉に膝をつき、礼を取る騎士たちの中、アリステアもまた片膝をつき、リーンハルトの姿を迎える。 悠然と歩み寄ってくるリーンハルトだった。その手にはアリステアが預けたマルサド神の剣。軽々と片手に下げ、リーンハルトは笑みを含む。 「これを」 つい、と伸びてきた手が、アリステアへと剣を差し出す。受け取り、アリステアは彼を仰ぎ見ていた。平素の彼と変わらないその姿を。いまは彼の寝室にあるはずの剣。リーンハルトが持ってきたことにアリステアは内心に苦笑する。 「そなたはリーンハルトを守る、と誓ったのであろう。ならば、いかなる戦いと雖もそれすなわちリーンハルトの守護に相違ない。躊躇は要らぬ。剣を取るがいい」 剣が、輝いた気がした。目の惑いではなく。騎士たちが息を飲む。リーンハルトが、否、リーンハルトか、これは。 「見事に戦ってみせよ、手段は問わぬ。守るべき者のためにこそ剣はある。我が神官に祝福を」 軽く掲げた手が、アリステアに祝福を授け。ふわりと風がよぎったかのよう、それでいて熱狂するかのような。 「お待ちくださいませ、我が神よ。従兄上は、いかに」 「懸念も要らぬ。あれもまた我が加護のうちにあるゆえに」 「ありがたき幸せ」 額に剣を差し上げ、深々とアリステアは一礼した。マルサド神の高らかな笑い声が響き渡った。次の瞬間、リーンハルトの姿を取ったマルサド神は消え失せている。あとに残るは沸き立つような昂揚感。騎士たちがアリステアの手に戻った神の剣を見つめていた。 騎士たちにとって、勝利は確定したも同然だった。軍神マルサド降臨し、その神官に神剣と祝福を授けて行った。 「我が神の御前、無様はさらすまいぞ!」 アリステアが騎士たちの引き締めを図る。熱に狂乱したまま勝てる戦いではない。騎士たちの顔が精悍に。ぐっと噛みしめられた唇、眼差しの強さ。 ――勝った。 アリステア自身ですら、そう感じてしまうほど、騎士たちの顔は目覚しかった。 そしてその声が、スクレイド本邸にも届いていた。内容まではわからない。だが軍勢の上げる喜びの音だけは聞こえる。 「酒を」 アントラル大公は、不快そうに酒を飲んでいた。元々兵で片を付ける、など得手ではない。それは下層の者がすることであり、大公、それも古王国の血を引く大公たる自分がするようなことでは断じてない。 「エレクトラ殿は本気であの者に王冠を与えるおつもりか」 大公の前にはエレクトラが優雅に座していた。このようなときであっても一筋たりとも乱さず結いあげた髪。美しく染め、微笑んだ唇。 アリステアと並べば、どれほど見事だろうか。屈強にして雄偉なアリステア、繊細かつ毅然としたエレクトラ。二人が真実の夫婦としてあったならば、いったいどれほど。 「神の御前に誓った夫婦ですもの。それにアリステア殿は仮にも王子の称号を持つお方。大義名分が要りましょう?」 リーンハルトから王冠を奪い、そのままアントラル大公が得たのでは内乱が拡大するだけだ。エレクトラに言われずともわかってはいる。 ただ、大公にも意地がある。長きにわたり、保護されてきた。保護してやっていると、下に見られてきた。アリステアだけではない、スクレイド公爵家は彼の代になって復活したもの。アントラル大公家は、常に誰かの保護を受けてきた。そうせざるを得ない我が身を省みることなく、大公は誇りだけで生きてきた。だからこそ、いま手の届くところにいるアリステアが不快だ。 「この期に及んで夫婦とな。私と婚姻してはいかがか。ラクルーサ王家などよりよほど古い血筋ぞ」 手を伸ばし、エレクトラの手首を掴む。大公にエレクトラは笑みを含んだまま。誇りだけでは生きてはいけない。それを嫌と言うほど身に染みているはずの大公。否、それしか縋るものはもうない。エレクトラの目もそう言っているかのよう。 大公の態度も褒められたものではない。エレクトラをスクレイド公爵夫人、と扱うことはないのだから。アントラル大公家から嫁したエレクトラ、よって、彼女は自らの持ち物。そのような目で見られて喜ぶ女はいない、いかなる階級の女であろうとも。まして誇り高きエレクトラ。大公などよりよほど誇りの使い方を知っている女。ころころと笑い、侍女を呼ぶ。 「まぁ、大公殿下。お戯れを。そこの者、殿下をご寝所へお連れしなさい。ご酒がすぎたご様子」 ぽんぽん、と叩かれる手。大公は侍女など何するものぞ、そう振り返り、愕然とする。その場にいるのはすべてエレクトラの手勢。自らが連れてきた侍女など一人もいなかった。 大公を寝所に追いやり、エレクトラは一人眉を顰める。愚物の相手は疲れる、と言いたげな溜息。立ち上がれば、心得た侍女の一人が扉を開く。湯でも使い、疲れを癒したのちに眠ることにしよう。侍女は主の行き先がわかっているよう、戸惑わなかった。 こうこう、とかすかな鼾が聞こえている。寝息を窺い、影がそっと手を上げる。夜目の利くものばかり。音も立てずに入り込み。 「な――!」 誰何の声さえ最後まで言わせず、アリステアと騎士たちはアントラル大公を捕えた。燭台に火を入れられ、はじめて大公はそこに立つアリステアを見る。愕然と見ていた。背後にまわされた自らの腕の痛みなど飛んで行く。 「き、貴様――! どこから入った!? さては、裏切者が!!」 「お見苦しく騒ぐものではない。――我が家の構造に私が無知であると何ゆえにお思いになった?」 鬱陶しそうにアリステアがかき上げた髪には蜘蛛の巣がまとわりついている。騎士たちも同様だった。アリステアは公爵ただ一人が知る秘密の地下道の存在を利用した。万が一の場合の抜け道、として用意されているもので、大公はおろか、エレクトラですら知らない道だった。 本来のアリステアならば、このような手段は取らない。だが神の言葉があった。守るべきもののためにこそ戦えと、マルサド神は仰せになった。リーンハルトのためにこそ。ゆえに、あのお姿であったのだ、とアリステアは理解している。 その上で神は言ったではないか。守るべきもの、と。アリステアにとっては騎士たちもまた守るべきもの、その命。戦争が続けば否応なく死者が出る。本をただせば叛徒の騎士とてスクレイド公爵家の騎士。何より兵が、民が死ぬ。ならば、手段を選んでいる場合ではない。神の叱責を受け、アリステアは地下道を選んだ。 「ええい、放せ。放さんか!」 ばたばたと足掻く大公に、騎士たちは無表情。持参の縄で捕縛する。それには呆気にとられた大公だった。よもや自分の身分でこのような目に合うとは、と想像したこともなかったらしい。 「来たようだな」 騎士たちの足音が部屋の外から聞こえた。大公が使っているのは「公爵の寝室」だった。アリステアが本邸にあるときには使用している部屋だったが、元々あまり戻らない。おかげで自分の部屋を踏み荒されている、という気にはほとんどならなかった。逆に地下道から直接ここに上がることができたのだから楽なものだとすら感じる。 寝室の扉が開かれ、アリステアはかすかな満足を。騎士たちの一隊が連行してきたのは、すでに囚われたエレクトラ。笑みを浮かべたまま、取り乱しもしていない。 騎士の中、ニコルと言う騎士がいた。殺されたダニールを弟とも可愛がっていた男で、是非に、と懇願されて潜入隊に加えた男。青白い頬をしたまま淡々とエレクトラを捕まえていた。 ニコルの後ろ、グレンがアリステアに向けてうなずく。こちらをアリステア自身が指揮していたのは、エレクトラ捕縛をグレンに任せるため。騒ぎは起こさせなかった、無言のうちの報告にアリステアもうなずく。 「ご機嫌よう、叛徒エレクトラ」 皮肉なアリステアの声にエレクトラは微笑むのみ。久しぶりにまみえた夫に、何を言うこともない。ただ嘆かわしげにアントラル大公を見やった。 わっと歓声が聞こえた。公爵軍本隊が、別働隊が開けた門からなだれ込んできたのだろう。ほどなく本邸は制圧される。アリステアは自らの騎士たちを疑っていない。 「貴様、私を誰だと――!」 いまだ縄を振りほどこうとしている大公から、つい、とエレクトラが目をそらした。覚悟を決めよ、と言いでもするかのよう。アリステアは気にせずともよい、と騎士たちに指示をする。いずれも無言で。 「叛徒ですな、ただの」 「な……」 あっさりとしたアリステアの言いぶりにこそ、愕然としたのだろう大公。今更ながらまじまじとアリステアを見る。蜘蛛の巣に汚れ、埃に塗れ、それでも輝かんばかりに立っているスクレイド公爵にして王子アリステアを。その眼差しにアリステアは見てとる。 やはり、大公は踊らされただけだと。エレクトラこそが脅威だった。アントラル大公を動かし、テレーザを惑乱させ。アリステアはニコルに合図をする。いままでエレクトラに剣を突きつけていた彼だった。渋々と下ろし、目は主君を。 「お前だけは断じて許さん」 アリステアもまた、剣を引き抜く。金属の触れ合う背筋の冷える音。ニコルが満足げにうなずいた。 「従順な妻でしたでしょう? あなた様ほどの殿方ならば王冠こそが相応しい。そうでしょう、アリステア殿」 |