斥候の情報が手に入った。アリステアは簡易の天幕の中で一人、考えている。互いに一戦する形、と思ってはいるが、やはり疑念は尽きない。あれこれと情報を分析しても、わからない。
「苛立つものだな」
 相手の出方がまったくわからない。相手が上手で読ませない、という経験ならばアリステアにもある。それならば不安が募るだけだ。これは、違う。何をしでかすかわからない苛立ちだった。
 斥候は近辺に不審なものは何もない、と言ってきている。グレンが選び出した兵だ、そこに不安はない。しかも、複数の斥候が似たような報告をしてきている。ならば、それは確度の高い情報と言ってかまわない。
「わからん」
 む、と唸り、アリステアは伸びをする。天幕の外では騎士たちが夜番をしている物音。甲冑の軋む音がここにまで届いている。アリステアにとっては耳慣れた物音だった。かえって安堵するほどの。
 少し休んでおくべきだろう。わかってはいたが、苛立ちがどうしようもない。これは、何かがあるか。そんな気にもなるほどの。夜襲があるのならばそれなりの気配、というものがある。おそらくは気のせいだろうと苦笑し、アリステアは身を横たえる。
 騎士たちが交代する気配、戦場の常として、アリステアは半覚醒の中にいた。ぐっすりと眠り込んでしまうことは決してない。ことあらばすぐさまにも剣を取ることができる、それだけの鍛錬を積んでいる。
 あるいは、その鍛錬が物を言った。剣は枕元に。神に剣を授けられるより先に使っていた、己の愛剣。友人の手のように馴染んだ柄がいまは遠い。咄嗟に懐に飲んでいた短刀を抜き放ち、アリステアは闇雲に振る。とはいえ、アリステアほどの戦士が振る短刀だった。とても闇雲、とは言い切れない。
「……ぐ」
 上がる声。アリステアは今度こそは狙いをつけて短刀を投ずる。狙い過たず、肉に突き刺さった音。そのときには枕元の剣を掴んでいた。
「誰ぞ!」
 アリステアの叫びに騎士たちが足音高く天幕へと。かっと掲げられた角灯。騎士たちは見た、血を流し倒れる村人の姿を。呆気にとられ、対応が遅れる。村人は手の中に隠し持った物を振る。高い音がして、アリステアの剣に弾かれていた。騎士たちがそれとばかり、村人に圧し掛かる。これは、村人などではない、断じて。
「動くな!」
 動けないだろう、すでに。それほどの大勢に圧し掛かられ、村人は淡々とアリステアを見上げる。その目にある光、否、ない、光。アリステアは無言で見つめ返した。そらされることもない。騎士の一人が柄で頭を殴りつけ、村人ではない男がくたりと意識を失う。
「お館様……!」
 一人が更に隠し持っていた短刀を拾い上げる。刃はぞっとするような色に染まっていた。毒刃、と見たのだろう騎士の顔色が悪い。
「堕ちたな……」
 アリステアはそれを受け取りつつ、うなずく。騎士たちが揃って暗殺者と思しき男を連れて去ろうとする。それをアリステアは止めた。
「まだ、意識があるはずだ。気をつけろ」
 騎士がぽかん、とする。頭を殴られ、意識があるとは。現にいま、男は力なく運ばれようとして。ひっと息を飲んだ騎士が手を離す。跳ね上がった男が足首につけていた短刀よりなお短い針のような刃でアリステアを狙った。
 酷い悲鳴がした。男からではなく、騎士から。アリステアの一閃。男の手首の腱はただそれだけで断たれていた。血を流し、手首をぶら下げ、男はかっとアリステアを睨む。
 暗殺者とはかくなるものか。アリステアも手段としては知っている。この世にはこのようなものがいる、と知ってはいる。
 だがしかし、こうして発覚の危険がある。手段としては認めるが、この自分に向けてくるにはあまりの悪手、と言わざるを得ない。見くびられたものだと。
 騎士たちが蒼白になり、かすかに震えている。正面から向かってくる敵には強くとも、このような闇からの手には弱いものだった。
「お館様……。なんと……。よくぞご無事で」
 グレンがわなわなと震えていた。アリステアとしては出陣前にリーンハルトに忠告したこともあり、さほど驚いてはいない。
「天幕前での夜番を強化いたします」
 白くなったグレンの顔。騎士たちがざわざわしながらうなずいている。再び拘束された男は無心にアリステアを睨んでいた。
「無駄だ。詳細は省くが、これは本物の暗殺者だ。人目につかないことこそが本分なのだからな。お前たちの手には負えんよ」
「ですが」
「下手に立ち向かえばお前たちの命がない。放っておけ。私ならば対処はできる」
 傲岸不遜な言ではあった。けれどそれは事実でもあった。暗殺者はアリステアから目をそらさない。唇だけがにやりと笑う。ぬっと舌を突き出し、音がする凄まじさで我と我が舌を噛み切って見せた。
「貴様!」
 激昂する騎士にアリステアは内心で苦笑する。暗殺者ながら、彼らなりの誇りはあるらしい。見抜かれ、拘束され、暗殺にはそもそも失敗し。男は自らアリステアの前で自害する。それはまるで次がある、何度でもあると言うかのよう。闇から伸びる数多の手が。
 天幕の中、噛み切られた舌から飛んだ血飛沫が転々と落ちていた。グレンが忌々しげにそれを拭っている。
「気にするな」
「ですが、えぇい、忌々しい!」
「あれはあのような生き物だ。気にするだけこちらの不利になるぞ」
「お館様はご存じで?」
「知らないでは済まぬ立場ではあるからな。――おそらくあれは闇の手、と呼ばれる暗殺結社の者だろうよ。この世にあってはならない穢れを消すのだ、と聞いている」
「それはエレクトラ殿、アントラル大公の方にございましょう!」
「そう言って暗殺者を上は、送り込むのだろうさ。信念だか信仰だか知らぬがな。そういう芯のある者は強い」
 アリステアにも信仰があるから理解はできる。納得はしないが。間違ったものに染められ、どこからともなく送り込まれてくる暗殺者。ゆえに彼らを闇の手、と呼称するのだと聞く。
「通常の警戒でよい。お前も気をつけよ」
 軽く手を振りグレンを下がらせた。率直に言って、周囲が騒がしくしていればそれだけ、気配は探りにくくなる。騎士たちが落ち着いてくれた方が我が身のため、だった。グレンもそれと察したのだろう、配下に冷静を取り戻すよう、呼びかけている声。簡易の天幕に、かすかな血の臭い。アリステアは再び体を休める。
 暗殺者が知れば、歯噛みすることだろう。何ほどにも感じていないのだと知り。アリステアは目を閉じ、まるでぐっすりと眠っているかのようだった。
 一夜が明け、アリステアは我が目を疑う。幸い、暗殺者はあれきりだった。グレンの報告によれば、騎士たちにも被害は出ていない、とのこと。あるいは叛徒たちは金でも渋ったのかもしれない、ふとそんなことを思う。
 そして戦場になるであろう、本邸前を見て呆気にとられる。悠然と、叛徒どもが出てきていた。隊列を組み、まるで王の戦いをするのだと言わんばかりに。
「それならば昨日すればよかろうに」
 叛徒は知ったのだろう、暗殺の失敗を。最低限、それをあちらに伝える者はいた、ということだとアリステアは気を引き締めてかかる。騎士たち、兵たちを疑ってはいない。だが、どこにでもそのようなことはある。事実アリステア自身、エレクトラの下にグレンの縁者を送り込んでいたのだから。
「いかがなさいますか」
 顔色が悪いのは、緊張のせいでも昨夜のせいでもない。グレンもまた、侮られたと感じているのだろう。それほどの悠然とした軍だった。
「手間が省けるな」
 アリステアは肩をすくめる。こちらは叛徒に比べれば半分程度の数。隊列を組み直すのもさほど時間はかからない。なにより彼らは精鋭ぞろい。グレンが指示するより先、通常の隊列は組んで対峙していた。
「なるほど」
 グレンの口許が緩む。実際問題として、アリステアの言う通りだった。ここはスクレイド公爵本邸。しかも相手は倍の人数。籠られてしまっては面倒が増えるばかりだ、とグレンも考えていた。どのようにして引き摺り出すかを考えていたというのに。
「攻城戦はやりたくないからな」
「ですな。では?」
「一手指南して差し上げろ」
 にっと笑ったグレンが指揮に戻る。アリステアもまた位置につく。騎士隊はグレンの指示を仰ぎ、アリステア直属に選んだ少数が遊軍となる。
 叛徒は、まさかアリステアが最前線に出る、とは思っていなかったのだろう。それだけで動揺が激しい。なにしろ彼らの後ろには本邸の高い壁があり、その奥深くにアントラル大公はいる。騎士たちが姿を窺えないほど奥に。言うまでもなくエレクトラの姿もない。
 指揮官がその場にいるかどうか、たったそれだけのことが戦場では勢いを左右する。ましてアリステアは自ら剣を振るい、騎士を助け、敵を屠る。
「軍神の降臨だ――!」
 叛徒の中から上がった声。聞こえたアリステアはにやりとする。スクレイド公爵アリステアが軍神マルサドより神剣を賜った、と知らないものはラクルーサにはいない。いま正に、アリステア自身が軍神の化身とも見え。
 そこから総崩れがはじまる。本をただせば戦場を共に踏んだ経験こそ少なかろうともアリステアを主と仰いできた騎士たち兵たち。アリステアの強さは身に染みている。土を蹴立てて踵を返し、けれど本邸の門は開かない。悲鳴じみた声が上がる中、アリステアの騎士たちが剣を突きつけ降伏を迫る。わずかに開いた門の隙間から滑り込んでいく騎士たち。剣を大地に突き刺し、両手を上げる騎士。様々だった。降伏した騎士たちは呆然と本邸を見上げる。見捨てられた、唇が音もなく形作った。
 多くの捕虜を抱えて、アリステアは内心では困っている。一度は離反した騎士たちだ。戦場で再度離反されては目も当てられない。だが、見張りに人手をさけるほどの人数はいなかった。
「さて……」
 どうするべきか。アリステアの耳に届く騎士たちの喜びの声。マルサド神の歌を歌い、アリステアを讃え。
「お館様、傷の手当てを」
 グレンもまた傷だらけだった。完勝と雖も手傷の一つもないとはいかない。わかった、とうなずきアリステアは騎士たちが揃う中へと歩いて行った。わっと上がる高らかな声また声。
 ――聞こえているか。
 誰に言ったのか、アリステアにもわからない。アントラル大公か。否、おそらくはエレクトラに。アリステアは内心でそっと首を振っていた。




モドル   ススム   トップへ