気恥ずかしくなったアリステアがリーンハルトの胸を押し戻すまで、しばし。リーンハルトは喉の奥で小さく笑う。妙なところで妙な羞恥を覚える男だった、昔から。こほん、とわざとらしい咳払いに懐かしさを覚える。 「従兄上、例の話ですが」 仕事の話か、と言わんばかりに眉を上げたリーンハルトだったが、理解はしている。いまは、そちらを優先すべきと。口許だけが和やかな笑みをたたえていた。 「なんの話だ。それではわからんよ」 「ご冗談を。ミルテシアの話ですよ」 「あぁ……」 アントラル大公にミルテシアの密使が接触した。あり得ない話ではない。アリステア自身も疑っている。彼自身、ハイドリンの戦場で接触を受けたのだから。 「従弟殿が察した通り、だな」 にやりとリーンハルトの唇が笑った。アリステアは肩をすくめる。やはり、と。 リーンハルトは、言葉とは逆のことを言っていた。ミルテシアの密使の情報などリーンハルトは得ていない。警戒していたアリステアからしてそのような情報を手にしていないのだ。いかに王とはいえ彼の耳に届いていようはずもない。 「接触していない、とは思わんがね」 リーンハルトはそうも言う。アリステアにも納得のいく話だった。どれほど警戒を厳にしようとも、人の出入りを見張るには限界がある。よもやアントラル大公がそこまでするとは思いがたかったが、娼館で内密の会談を持つ、などという手法がミルテシアでは横行しているとも聞く。それをされてはさすがに見張り切れない。品位には欠けるが、手段としては上等ではある。 「では、ついでに証拠を上げてまいりましょう」 アリステアの言葉にリーンハルトがからりと笑った。ついでで済ますな、と言っているようでもあり、気にするなと言っているようでもある。 いずれにせよアントラル大公は完全勝利をもぎ取らねば、彼はこのまま反逆者だ。いかなる釈明もリーンハルトは許さない、否、許せない。事ここに至ったならば。王子の出自を疑うのはやり過ぎだった。それさえなければ、リーンハルトの醜聞、としてあちらに傾いた可能性もあっただろうに。 ふとアリステアは眉を顰める。油断はしたくなかった。ならば忠告をするだけ。気づいたリーンハルトの昏い蒼の目が彼を見上げる。 「いえ……。少々言葉を飾った方がよろしい?」 「率直に行け。時間は無限ではないぞ」 「では遠慮なくまいりましょうか。――従兄上、お気をつけてください」 「どこがどう率直だ?」 何を今更、と言いたげなリーンハルトの薄い瞼に唇を落とす。妙なところで照れるくせに、こういうことは恥ずかしげもなくするのだ、知ったリーンハルトこそ羞恥を覚えた。 「妃殿下のご実家に、恨まれていますよ、我々は」 アンドレアスにリーンハルト自身が事のあらましを告げた、と言うのならば、侍女たちが知らないはずはない。無論、彼女たちは王妃の振る舞い、リーンハルトの挙措、すべて見てきている。アリステアのそれも。つき合わせれば答えは一つ、であったはずが、確たる話としてリーンハルトが王子に語った。ならばテレーザの実家であるフロウライト伯爵家がそれに無知であるとは思えない。 「恨まれようとも――」 「違いますよ、従兄上。従兄上はご存じないのか。それとも知らないふりをなさっておいでか」 む、とリーンハルトが口をつぐむ。アリステアの言いたいことがわかった気がした。そのとおり、と彼はうなずく。二人の間にしばしの無言。同時に小さな溜息。 「この世には、暗殺を請け負う人間、というものが存在するのですよ。ご存じでしょうに」 「知ってはいるが――」 「妃殿下に対する様々な思いはございましょう。長年、夫婦として過ごしたのですから、愛憎半ばして当然というものです」 アリステアの淡々とした言葉。いまになって、その時間を彼は思うのか。テレーザとあったリーンハルト。彼は何を語り、何を見せたのか。アリステアの目にそんなことを思う自分をリーンハルトは恥じる。エレクトラとははじめからうまく行かなかったアリステアに、安堵する己と共に。 「ですが、ご実家は違いましょう? そちらは従兄上に対する恨みしかないはずです。ならば?」 「……理解したよ、気をつけることにしよう」 「ご不快でしょうが。私は戦塵に塗れたまま従兄上の復讐戦を挑むなど御免ですからね」 言い様にぷ、とリーンハルトは笑ってしまった。いかなる手段を取ろうとも断じて許さない、そう言い切ったに等しい彼。それに愛おしさを覚えるのだからどうしようもない、そう笑う。 「アリステア、お前もだぞ? 恨まれている度合いならばどちらかと言えばお前の方が強いだろう」 「私は元々戦場に身を置いているようなものですからね。いつどこで恨みを買っているかわからない、そういう人生ですよ」 「神官の言とは思えんな」 「まったくです、我ながら」 からりと笑うアリステア。それだけの覚悟を持って剣を取り、命を取ってきた、無言で語る彼のその強さに惹かれたのかもしれない。リーンハルトはふと思う。 「我が神の剣はいずれに?」 不安だった、アリステアは。リーンハルトが強いと感じているなど夢にも思わない。彼の傍らを離れ、戦いに行くことがたまらなく不安だった。 「居室にあるよ。丁寧に保管している。心配するな」 そうではない、アリステアは首を振る。それによく似た仕種をリーンハルトも返した。あるいは古い女官が見れば、お二方はこうしてあって当然だったのだ、と言うかもしれない。 「できれば、肌身離さず、と申し上げたいところですがね。最低でも、寝室には置いておいてください」 「お前の代わりに?」 「少々冷たいでしょうが、剣でも抱いて寝ていてください。私の代わりに」 「アリステア!」 率直な言にリーンハルトが声を高める。アリステアはさも楽しげに笑っていた。このような冗談を言う男なのだ、とは知らなかった気がする。よく知っているはずの従弟。何もかもを知っているような気がして、けれど知らないことがこれほどにもまだあるのか。それは新鮮な思いでもあった。 「嫌な話をすれば、妃殿下ですよ。妃殿下が寝室に短刀を持ち込んだのをお忘れか?」 「忘れてはおらぬよ。なるほど――」 「一度あることは二度目もあるものです。侍女なり女官なりが買収される可能性というものは捨てられるものではありませんよ」 王の寝所に立ち入ることができるものは多くはない。が、緊急の用件だ、と言われればリーンハルトは許すだろう。その際に何が起こるか、アリステアは想像するだにぞっとする。 「我が神の剣が従兄上をお守りくださいますように」 そっと額にくちづけた。恋人のそれというよりは、神官の祈りにも似て。リーンハルトも厳粛な気持ちでそれを受ける。そしてつい、と顔を上げた。 「従弟殿」 「なんです?」 「お気持ちは嬉しく思う。だがな、神官殿に祈ってほしいわけではないぞ、私は」 リーンハルトの冗談に、アリステアが強張った。目を見張り、動けもせずに。それほど妙なことを口走っただろうか。リーンハルトが首をかしげる間も彼はそのまま。 「……知りませんでしたよ」 「なにをだ?」 「従兄上も、そのような冗談を口になさるんですね」 先ほど思ったようなことをアリステアが今度は言う。いい気分だった。リーンハルトの昏い目が、アリステアの前でだけ和む。アリステアは、本当は知っていた。自分の前でだけ、この従兄がこのような顔をするのだと。テレーザの前ですらしない顔なのだと、本当は知っていた。 「私が冗談を口にするのがそれほど不思議かな?」 「あまりにも生真面目な方、と思っていましたからね」 「そうそう真面目でいられるものか」 ふん、と鼻を鳴らすようなリーンハルトならば知っている。自分の前でだけ。アリステアの心に何かがすとん、と落ち着く。昔からだったのだと、不意に感じる。 「従兄上」 呼びざまに、くちづけをした。甘い、苦い、くちづけ。どれほど慈しみ合おうとも、万人が祝福をしてくれようとも。生涯にわたってつきまとうだろう後悔。いままでも心ならばぴたりと添うていた。だがしかし、我と我が思いを自覚させられた以上、心だけではもう足らない。 リーンハルトを腕に抱き、アリステアは瞑目する。万人の祝福など要らない。ただ一人、リーンハルトが欲しい。 リーンハルトもまた、同様だった。国王として、守るべきこの国を荒らし、宮廷に醜聞をもたらし。それでもアリステアが欲しかった。内心に、言い訳をしないでもない。テレーザのあの振る舞いがなければ、断じて気づくことのなかった思いなのだと、何度でも言いたかった。 だからこそ、テレーザはアリステアを憎んだのだと、いまのリーンハルトには理解ができた。夫の心のすべてを占めていた公爵。二人して決して認めはしないその関係、彼女がそう思い込んだのも無理はない。事実ではなかったけれど、確かにリーンハルトの心はアリステアが持っている。まだ幼いころから、ずっと。いまに至るまで、ずっと。 「……そろそろ、休まないとな」 朝になれば出陣するアリステア。夜更かしは慎ませるべきだろう。自分がここにいては、アリステアは眠れない。それでも立ち去りがたかった。 「えぇ」 アリステアもまた、そんなリーンハルトを腕から離さない。ただこうしているだけでよかった。このままこうしていたかった。ふっとアリステアの唇が笑みを刻む。 「では、そろそろ休ませていただきますよ、従兄上。――帰ったら、ご褒美をいただきたいですね」 「な――」 ぽ、と赤くなるリーンハルトの頬。鮮やかな紅色が目に楽しい。アリステアは目に焼き付けるようそれを見つめる。気づいたのだろうリーンハルトが不快げな顔。何があっても帰ってこいと。 「ご褒美に値する何かを持ってきてもらわねば、許せないな」 「では励みましょう」 にやりとするアリステアにリーンハルトはくちづけを。もう一度ぎゅっと抱き合い、リーンハルトは戻っていく。 翌朝、眠りの足らなそうなリーンハルトだった。公式の見送りの前、ただ一言をアリステアの耳に囁く。 「無事に戻れ」 ただそれだけを。 |