遥か昔、ラクルーサ王家に都を献じた功により、長らく重んじられてきたアントラル大公家。いまもなお、王都にその名を残す。 だがアリステアは思う。いったいいつの話だ、と。アリステア自身は断じて殿下と呼ばれるのを拒んではいるが、いまもなお王家の一員でもある。その身にかけて、アントラル大公家が忌々しい。 いまとなっては事実かどうかも疑わしいこと、とまでは言い過ぎとしても、少なくとも現アントラル大公の功績は何一つとしてない。領地の経営も代々得手とは聞いていない。おかげで経済的には困窮も極まり、領民の保護から大公の日々の費えに至るまでアリステアが面倒を見ている。 それなのにこの始末か。窓から王都を眺めつつ、アリステアは硝子に映る自らの眼差しを見ていた。リーンハルトは知らない目か、とも思う。それで少し、呼吸が静まる。まるで時期を計っていたかのようだった。扉が叩かれ、応答を待たずに入ってくる。それでリーンハルトと知れた。 「いかがなさいました、従兄上」 言えばむっとした彼。ここには他人はいないだろうと言いたげな目にアリステアは微笑む。習い性になってしまっている。他人がいてもいなくても、一定の線は崩しにくい。苦笑するアリステアにリーンハルトは悪戯げに目だけで笑った。 「ご用ならばお呼びくださればいいものを」 「邪魔だったか?」 「従兄上がお見えになっては目立ちますよ」 ここはスクレイド公爵家の部屋であって、本来ならば国王が立ち入るような場所ではない。国王の方が来い、と言うべき。それが礼でもある。リーンハルトは面倒だ、と肩をすくめた。 「少々、話があるのだが。よいか?」 「もちろんですとも」 リーンハルトに開かれていない扉はない、言ったアリステアに彼は少しばかり困り顔。そしてそのまま扉の外に。自ら人払いでも命じに行ったらしい。そんな姿にも苦笑が漏れる。が、強張った、すぐさまに。戻ったリーンハルトは王子アンドレアスを連れていたのだから。 リーンハルトとならば、どんな会話をしようともかまわない。出陣前の高揚と苛立ちと。それらを彼はいなしてくれるだろう。だがしかし。アンドレアスとは。アリステアはまったく心の準備ができていなかった。 「従弟殿」 つい、と近寄って来たリーンハルトがその腕を取る。よほどひどい顔をしていたらしいと彼の顔に読み取ったけれど、アリステアは物も言えない。無言のままアンドレアスの前、片膝をついては首を垂れた。 「殿下――」 ただそれしか、口にできない。己のせいで王子は母を失った。北の塔に収監された、ということはリーンハルトが王冠を失わない限り、彼の母は二度と外界に出てくることはないという意味でもある。いずれにせよ、自分がアンドレアスの父か母かを失わせる。 「おじ上。どうか――」 頭を上げてほしい。静かなアンドレアスの声。この数日で、一息に大人になってしまったような気がして、アリステアは眼差しを伏せるのみ。まだ幼いアンドレアスが。並べばレクランよりずっと小さな彼が。 「おじ上、どうかレクランを救ってください」 小さな手が、アリステアの肩にかかり、滑り落ちては彼の手を取る。幼いアンドレアスの手はアリステアのそれに包み込まれてしまいそうなほどに小さいというのに。愕然と王子を見上げた。 「レクランは、僕の側にいる、と言いました。僕はそれを信じます。だからおじ上、レクランを救ってください」 アリステアの手を強く握る王子の汗ばんだ手。緊張と、恐怖と。親しんだ友人と言っていいレクランがいまどうしているか。王子はそれにこそ恐怖していた。 「……聡明な殿下には此度の要旨をすでにご理解のことと存じます。咎は、私に。お父上様、お母上様をお責めになりませぬよう、伏してお願い申し上げます」 アンドレアスの目を見られなかった、アリステアは。背後でリーンハルトの息を飲んだ音が聞こえる。それほどまでに悔いていたのか、と。 「いいえ、おじ上。父上のお心がおじ上にある、それを母上が悲しまれたのは人として理解します」 アンドレアスの目が真っ直ぐとリーンハルトを見た。リーンハルトはその目を受け止める。アリステアの咎ではない。自分たちのだ。アリステアはたとえどれほど悔いようとも、この手を離すことはないだろう。同じだ、とリーンハルトも感じる。アリステアを諦めることは決してない。ために息子が嘆こうとも。 「殿下」 絶句し、ついではっとアリステアが振り返る。幼い王子に話したのか、と目が問う。リーンハルトは黙ってうなずいた。いずれ母のこと。アンドレアスの耳に入らないはずはない。ならば事実を父の口から聞かされる方がまだよい。それにはうなずかざるを得ないアリステアだった。 「……ですが、母上は、王妃です。まして聡明な母上のこと、エレクトラの言に乗れば国がどうなるか、わからなかったはずはないのです。その一点で僕は母を非難します。――レクランがいま、どんな思いでいることか」 自分の傍らから引き離され、母がアンドレアスの出自を疑うと明言した。いたたまれなかった、アンドレアスは。レクランに疑われているなど、一瞬たりとも考えたことはない。レクランはこの自分の傍らにいるべくしてある者。断じてエレクトラの手中には置いておけない。けれどしかし幼い身。だからこそ、アリステアに頼る。 訥々と語るアンドレアスに、不覚にもアリステアは涙が零れそうだった。我が子にかけられた王子の厚情。何より、レクランはよい友を得た、そう思えば。 「アンドレアス」 リーンハルトの父としての耳は違うことを聞く。あまりにも行儀のよすぎる言葉。父を責め、母を責め、アリステアを責めれば彼は楽になれるだろうに。それをせず、ただレクランの救出だけを望む息子をリーンハルトは固く抱きしめた。 「父上」 少しばかり驚いたような、それでいてくすぐったそうな笑い声。いつかアンドレアスに深く恨まれる日が来たとしても。リーンハルトはかまわない、そう思う。いまはただこの子の健やかな成長を願う。 「――お任せくださいませ、殿下」 「おじ上、こんなときにそれはよしてください。アンドレアスと呼んでください、ね。おじ上」 堅苦しい言葉はこの数日、考え抜いてきたものなのだろう。不意に平素の口調に戻り、アンドレアスは照れて微笑む。そうしていると幼いころのリーンハルトを思わせ、アリステアの心を更に痛ませた。 「任せておけ、アンドレアス。レクランは必ずそなたの手に戻して見せる」 「お願いします。おじ上も、ご無事でお帰りください。父上が寂しがりますから」 「アンドレアス!」 驚いて声を高めるリーンハルトなど久しぶりに見た気がした。アリステアはからりと笑う。悔いはいくらでもある。けれど、もう一度同じ選択肢を委ねられ、違う選択ができるとは思えない。ならば、進むだけ。 「明日はお見送りができないと思います。僕はまだ出てはいけないと言われますから。いってらっしゃいませ、お気をつけて」 武運を祈る、とはアンドレアスは言わなかった。祈らずともアリステアは勝って帰ると信じているようでもあり、深刻な口調になるのを嫌ったとも見え。 「ありがとう。行ってくるよ」 リーンハルトと同じよう抱きしめれば、嬉しそうに彼は笑った。そして就寝の挨拶をし、彼は朗らかに去って行く。本気でそのような気分であるとは二人とも思わなかった。 「アリステア――」 リーンハルトの声に、何を答えていいかわからない。いずれにせよ、彼を諦める気はない。それだけは彼も知っているだろう。今はそれで充分だと思う。 「いや、すまなかったな」 「なにを、従兄上!」 「アンドレアスのことだ。お前はもう覚悟ができているもの、と思っていた。出陣前に騒がせたな、すまぬ」 「……いいえ、出陣前だからこそ、承っておくべきことでしょう」 「行儀がよすぎるのはお前もか?」 アンドレアスと同じだぞ、リーンハルトが顔を顰めた。アリステアとしては言葉がない。幼い、と言われた気もした。 「お前もアンドレアスも良い子になり過ぎだ。もっと怒ればいいものを」 「そのつもりでお連れしたのでしょう?」 「と、思っていたのだがな。アンドレアスがお前に会いたい、と言うから連れてきたのだが」 長い溜息をリーンハルトはつく。こうと知っていたのならば日を改めさせたものを。もっとも、本人としてはレクラン救出を一番に頼みたかったのだろうが。 「アリステア」 つい、と前髪を引っ張られた。幼いころに見ていた仕種、アリステアは苦笑する。そのまま伸びあがってきたリーンハルトがくちづけをくれる。それだけがかつてとは違う。 「……なんです、急に。驚きますよ」 「色気のない男もいたものだ」 「……従兄上」 「私にだけは言われたくない、と言った顔をしていたな? まぁ、もっともだ。なぜか? 理由は言わずともわかるだろう」 無粋な男であった理由。リーンハルトは言わなかった、言葉では。けれど目が語る。テレーザには敬意を持っていた。王妃としてあった女性。伴侶として、王妃として、敬っていた。では男として心が動いていたかと問われればリーンハルトは答えない。ゆえに。 「結局な、私が悪いのだろうさ」 「従兄上は悪くなどありません!」 「さてどうかな。もっとも、二人して自分が悪いと言い合っていても仕方ない。ここは済んだことにして次に行こうではないか。どうだ?」 呆れた、とアリステアの顔に書いてあった。それで済ませる問題ではない。国を騒がせ、王子の心を傷つけ。レクランも同様だろうに。 「ではアリステア? アンドレアスに恨まれたからと言って、私を諦めるのか? レクランに刺されて諦めるか?」 「それは――」 「ならば済んだ、と開き直るしかあるまいよ」 アリステアは息を飲み、ついで微笑む。だからこそこの人は王なのだ、改めて思う。強く美しい国王に、仕えるだけで満足だった。第一の臣、と呼ばれることに無上の喜びを覚えた。 「従兄上」 「いい加減にそれをよせ、と言っているだろうに」 足らなくなった。きつく腕に抱く。抱き返してくる強い腕。リーンハルトの金の髪に顔を埋め、しばしの間アリステアは動かなかった。 |