苛立ったリーンハルトはいかなる手段も辞さない、と口にしそうになる。それを咄嗟にアリステアは止めた。 「一度は婚姻の誓約を結んだ者同士、夫婦としての情はなくとも、人としての情はありましょう」 伏せたままのテレーザの肩。震えていた。アリステアとて、彼女の前でこんなことは言いたくはない。だが、自分が止めなければ、リーンハルトが何をするかわからない。 「――従弟殿」 「国を乱してはならぬとの従兄上のお心は尊いものですが――」 「言ってはならぬことではあるが、自業自得ではあるがな」 ふん、と鼻を鳴らすリーンハルトの声をテレーザは聞いていた。知らない男がそこにいるかのよう。リーンハルトとは、欲しいと願った男の心とは、このようなものだったのか。それでも彼女は伏せたまま。 「参りましょう、従兄上」 話してもいいと思ったならば聞かせてほしい、アリステアはテレーザに言いかけた。しかし、口をつぐむ。彼女に自分が何を言えようか。無言のまま背を返し、二人は塔を後にした。 リーンハルトの怒りの強さの理由。アリステアにはわかっているつもりだ。そうして彼が怒りを見せれば見せるだけ、アリステアは冷静になれる。そうして落ち着きを取り戻せ、と言われているのだろう。 ――レクラン。父を恨むか。 内心で呟く。父のせいで彼はその母の手によって自由を奪われている。アリステアに詫びる言葉はない。ふとリーンハルトが顔を上げた。 「子供たちに恨まれるな、私は」 「……従兄上」 「なんだ」 「いえ、同じことを考えていたな、と」 苦笑し、リーンハルトの居間に腰を落ち着ける。静かな王の居間。女官も顔を見せないのは、廊下でのリーンハルトの振る舞いがすでに知れ渡っているせいだろう。足音高く歩くなど、女官たちは見たこともなかったのではないだろうか。 「息子たちに我々はひどく恨まれるだろう」 「ですな。それでも」 リーンハルトを諦めようだとか、なかったことにしようだとかは思えない。アリステアの眼差しにリーンハルトの目が一瞬だけ和んだ。そこに駆け込こんできたのはグレン。事態の重大さに、礼儀はどこかに置いてきたらしい。それでよい、とリーンハルトがうなずく。グレンは人影を抱きかかえていた。 「なんと……!」 驚いたリーンハルトが腰を浮かせそうになる。それをアリステアは留めた。グレンが抱きかかえているのがただの人影、としか認識できなかった理由は、その酷さ。女性だろう、おそらくは。衣服はぼろぼろになり、そこから覗く肌は色が変わっている。髪も引きちぎれ、顔に乱れ張り付いていた。 「レクラン様が……レクラン様が……!」 うわごとのよう罅割れた声が言う。アリステアはその手をしっかりと握った。正気づいた彼女が目を開ける。腫れあがって定かには見えていない様子。それでもそこに主の姿を認めた。 「お館様……。レクラン様が。レクラン様が、奥方様は、馬車を、ご用意なって。……ぐったりなさった、レクラン、様と。ご領地に」 「よく、知らせてくれた」 わずかに動いたのだろう口許。唇は見る影もないほど腫れた挙句に潰れている。リーンハルトは目をそらすことなく見ていた。グレンが彼女を支え続ける。命の危険を冒して小間使いとして潜入してくれていた、グレンの一族の娘だった。エレクトラにグレンの家の者、として知られているだろうとは思っていたが、ここまでとは。 「マルサド神に御願う――」 アリステアの低い詠唱。祈りの声に彼女の傷が癒されて行く。腫れがすっかりと引いたときには、彼女は意識を失っていた。 「眠らせてやってくれ。命に別状ないとは思うが……惨いことをする……」 アリステアの声こそ、彼女のよう。罅割れ掠れた声はエレクトラを思うのか。彼女が手を下したとは思わない。だが、命じたのは間違いなく自分の妻だ。その妻の下、息子が奪われた。アリステアは静かに拳を握る。 「それと、お館様」 青ざめ切ったグレンの顔。アリステアは嫌な予感を覚える。軽くうなずいて続きを促せば、握りしめたグレンの拳が目に入る。 「……レクラン様の護衛を命じた、騎士ダニールをお覚えでしょうか」 「無論」 「街路で切り殺されているのを発見いたしました。……嬲り殺し、と申し上げてよろしいでしょう」 「……そうか。痛ましいことをした」 それ以外、何を言えたか。若き騎士が殺されたのも。結局は自分のせいだ。指先で聖印を描き祈るさえ冒涜に感じた。 「従弟殿」 「私のせいですよ、従兄上。それが一族の長であると言うことでもある」 それには言葉のないリーンハルトだ。グレンもまた、うなずいている。そっと顔を見せた女官にいまは眠る小間使いを預ければ、痛々しい顔をして連れて行ってくれた。 「ダニールは、悔いていることでしょう。レクラン様をお守りできなかった慙愧に耐えかねていることでしょう。ですからこそ、お館様」 「言うまでもない。レクランを奪い返し、ダニールの魂を安らがせてやらねばならぬ」 一族の長として、神官として。顔を上げたアリステアにグレンは眩しげな眼差しを向けた。グレンもまた、自らの配下であった若き騎士の死を無念に思う。どれほどよい騎士になることか、楽しみにしていたものを。 以後、グレンは奔走することになった。アリステアの指示とリーンハルトの示唆を受け、情報を集め続ける。スクレイド公爵の戦力が整いつつある。何事か、と貴族たちが胡乱な目を向けはじめていたが、気に留める余裕がなかった。公爵領から、おおよそ半数ほどの戦力が離脱し、主アリステアに合流した。反逆の徒には断じて加担しない、と旗幟を鮮明にした者たちがそれだけいる。半数しかいない、とも言う。 エレクトラはすでにスクレイド領に戻った。アントラル大公もスクレイドの本邸に入った、と知らせが来た。さほど愛着がある家ではないが、自宅に押し入られたような不快さ。 ――いずれ母上の手引きであろうよ。 実家のアントラル大公家をもっと重く扱え、いずれ王冠を得るそなた、長きにわたって妄想を吐き続けてきた女。毒がついにまわった、アリステアはそちらを悔いる。恒久的手段に出ておくべきだったと。そこにもたらされたエレクトラの声明。王宮のみならず、ラクルーサ全土に広がったと言っても過言ではない衝撃。 「国王リーンハルトはスクレイド公爵アリステアを寵愛すること甚だしく、王妃テレーザは顧みられることもない。成婚以前よりの寵愛である故に――アンドレアスは誰の子ぞ?」 国王リーンハルトに子をなす能力はない。王妃が産んだ不義の子。何重にも響く告発に、宮廷は震撼と声もない。 「やられたな」 むっとするのはリーンハルトだった。アンドレアスをはじめ、子供たちが誰の子であるか、彼はよく知っている。それを疑ったことなど一度もない。 「妃殿下はなんと?」 知らせていない、とはアリステアは思わなかった。リーンハルトは必ずテレーザに告げたはず、と。彼は唇を歪めた。 「言葉にならなかったな。踊らされた挙句がこの有様だ。己の愚かさを噛みしめていただきたい」 言いつつ、己の咎とリーンハルトにもわかってはいる。だが、テレーザの狂乱がなければ、アリステアを愛しく思う自覚も生まれなかった。それだけは事実だと思う。その意味で、テレーザの自業自得でもある、とリーンハルトは思う。 「それと、妃殿下はやめろ。率直に言って不愉快だ」 「……まぁ」 「アリステア」 「とは言いましても、従兄上。私が敬う姿勢を見せないと風聞が広がって後が面倒なだけ、と言うこともあるのですよ」 苦笑して、頬などかいて見せた、アリステアは。本心ではない。テレーザの傷心は、自分たちの責任だ。それを忘れることはしたくない。リーンハルトの手を離す気は毛頭ないとしても。 「そういうことにしておいてやろう。――ところでな、エレクトラの言からすると、レクランはどうなる。あれは誰の子だと言っているのだ」 「自分の子だから関係ない、とでも思っているのでしょう」 「女はよいな、己の子に違いはない、と言い切れる」 「まったくです」 長い溜息。もっとも、ラクルーサで女性の相続は基本的に認可されない。レクランが母からアントラル大公家の血を受けていようとも、それは無視されるのが常だ。その意味で彼女は甘くもある。 「さて、従兄上。困ったことになりましたな」 アンドレアスを疑われるのは国としての問題だ。リーンハルトが男として詰られるだけならばまだよい。だが。 「なにか手がある、と顔に書いてあるぞ、従弟殿」 ちょん、と頬をつつかれた。こんなときに、否、こんなときだからこそ、余裕を持てとリーンハルトにたしなめられている。アリステアは大切な従兄にそして、最愛の人に微笑んだ。 「神官を召し出すことですね。神聖呪文で、王子殿下が誰の……その、種であるかを鑑定してもらえば済むことです」 「……率直な言葉もあったものだ」 「言いにくいのですよ、私も」 そっぽを向いたアリステアにリーンハルトは小さく笑う。幼いころから変わらない彼の姿に心和むものを覚えた。息がつける。アリステアの傍らでだけ、呼吸ができる。 テレーザが側にあったころも、同じだった。リーンハルトなりに愛しく思っていなかったわけではない。王妃として敬意を持ってもいた。それでは足りないと彼女が言い、それ以上は無理だと彼が言った。結局はそれだけのこと。彼女が王妃で、彼が国王であったから、このようなことになった。 「では、従弟殿。頼むぞ」 神官にそのようなことができるのならば、とリーンハルトは溜息をつく。証明する、すなわちそれは疑いを持たれているからこそ。それ自体が不快であった。 「そこですが、従兄上。私にも可能ではありますが、私は従兄上にあまりにも近い。私では証明になり得ない」 「神官の言を疑うか?」 「疑う余地を一切残さない、それが大切です」 アンドレアス王子のために、とアリステアは言う。いま、レクランはどうしているだろうか。エレクトラの切り札でもある息子だ、粗末な扱いはされてはいまい。それだけが慰めだった。 |