傷も残っていないのに、リーンハルトの手は何度もアリステアの左目をたどっていた。エレクトラが傷つけた彼の目。万が一のことがあったならば、とぞっとする。いくら神の加護を得ているとはいえ、神の手による癒しがあるとはいえ、眼球が潰れて回復した例などない。
「従兄上」
 苦笑気味のアリステアに少しばかりむっとする。ずいぶんと冷静だった、彼は。見上げて、けれどリーンハルトは微笑む。
「どうかなさいましたか」
「納得をしていた」
「と、仰せられますと?」
「お前はそういえば動揺すると冷静だったな、と思い出していた」
 嫌なことを思い出す、とアリステアは顔を顰める。そのぶん、やはり動揺が透けて見えた。ただ、拒まれているわけではない、それどころか、こうしてあるのがアリステアもまた自然だと感じている。そればかりはこんなときであっても嬉しく思う。
 正直に言って苦境に立たされた、リーンハルトは思う。テレーザの乱心の原因は、完全に自分だ。エレクトラが何らかの示唆をしたのであったとしても、結局は事実となってここにある。
「まいったな」
 呟けば同感だ、と内心を読んだようなうなずきが返ってきた。だからこそ、思う。アリステアがいればいずれ解決する、と。そうしてここまでこのラクルーサを治めてきた。ふっとリーンハルトの唇が笑みを浮かべたとき、開いたままだった扉から駆け込んでくるもの。
「お館様!」
 グレンだった。真っ青になって、今にも倒れそうな有様。アリステアは彼の腕を咄嗟に掴む。いままでリーンハルトを腕に、どことなく動揺が隠しきれなかった彼ではすでにない。
「何があった」
 深呼吸をしろ、グレンに命じ、アリステアは戦士の顔つき。リーンハルトもまた王の顔を取り戻す。グレンの手はわなないていた。
「レクラン様が――」
 息が止まる、己で口にした言葉にグレンの呼吸が怪しくなる。思い切りその背を叩き、アリステアの眼差しは厳しい。喘ぐグレンは続ける。
「レクラン様が、誘拐されました」
 わかった、とアリステアはうなずいていた。平静に過ぎる顔にグレンは己を取り戻す。この主が怒り狂うさまなど、そう何度も見たいものではない。
「お館様!」
「なんだ」
「……公爵夫人のお姿が、見えませぬ。白鳥亭にお戻りの様子もなく」
 ぬかった、とアリステアは臍を噛む。失神させたはずだが、時間が経ちすぎたか。リーンハルトの下に駆けつけるのを急いたばかりに、エレクトラ捕縛を命じてこなかった迂闊さ。
「待て、従弟殿!」
 大きく踏み出したアリステアの足。リーンハルトは無造作にその腕を掴む。グレンは感嘆していた。この主の怒りを真正面から浴びるのだけは、御免こうむる。グレンですらそう感じるというのに。リーンハルトは静かなままアリステアを見ていた。
「なんですか、従兄上」
「闇雲に飛び出して如何とする。レクランの行方がお前にわかっているのか。エレクトラの行方は。答えてみるがいい」
 グレンはかすかに息を飲む。王と主の関係性の変化を一番に飲み込んだのはこの騎士だった。戸惑いはなかった。なぜいままで、と逆に思ったほど。いまはそれどころではなかったが。
「……わかりました。グレン、屋敷の封鎖を。それから、手の者を遣わせて周辺の探索をするよう」
「は――」
「ただし。深追いはするな」
 まるで自分に仕事は残しておけ、とでも言うような主の恐ろしい言葉。グレンは声もなく深く一礼し、退出する。
「さて、アリステア。少々不可解なことがある。聞くか」
「聞かぬと言ったならば放っておいていただけますか?」
「まさか。首根っこを掴んででも聞かせるとも」
 幼いころの言いぶりでリーンハルトが笑う。学問を嫌う自分を本当にそうして机につかせたことが何度あったものか。アリステアの唇がかすかに緩み、リーンハルトはそれにこそうなずく。
「テレーザがおかしいとは、思わぬか」
「私の口からは言いにくいですよ」
「気にするな。――なぜだ? なぜ、あそこまで信じ込んだ? 我々は、我々が知るよう、先ほどまでは仲の良い従兄弟同士だぞ?」
「あの女が何を吹き込んだか、ですが」
「それをテレーザが信じた根拠は」
 リーンハルトの鋭い声音。妻として、王妃として、リーンハルトの最も近くにあった女性だからこそ、嫌でも信じたのではないだろうか。今にしてアリステアは思わなくはない。口ごもる彼にリーンハルトはきっぱりと言う。
「北の塔に向かうぞ」
 テレーザを問い質す、彼は言う。エレクトラから何かを聞いていないとも限らない、と。アリステアは疑わしい。エレクトラは己の計画を易々と口にするような女ではない。ただ、ここに黙って立っているのも芸がない。いまはリーンハルトに従うことにした。
「まずは着替えてくるといい。少々、目のやりどころに困るぞ。従弟殿」
 片目をつぶるリーンハルトにアリステアは唖然とする。慰められているな、それを強く感じた。ありがたい言葉と思い。ゆっくりと息をし、リーンハルトの前にかがむ。
「アリステア?」
 すぐ、驚きの声に変わった。軽く触れただけのようなくちづけ。アリステアが寝室を後にしたとき、振り返れば指先で唇を押さえ、目を丸くしたままのリーンハルトがいた。
 北の塔は静謐で、けれど立ち騒いでいた。この塔は元々反逆者を収監するためのもの。それも貴人の反逆者を。王妃が収監された、などという話はほとんど聞いたことはないが。
 着替えを済ませ、多少は冷静さを取り戻したアリステアはリーンハルトと連れ立って塔を訪れる。番人の顔色が悪い。王妃収監によほど動揺しているのか。王の訪れに、番人は無言で扉を開く。内部でも同じことを三度はした。それだけ厳重に封じられている塔だった。
 テレーザはそれでも王妃として、見苦しくないよう、不自由のないよう、大きな部屋を与えられていた。扉には太い閂、窓には鉄格子。それさえなければ優雅な別荘とでもいうような設え。テレーザは長椅子に細い体を放り出し、うつぶせては涙にくれる。共に収監された侍女が彼女を慰めていた。重たい音がして、侍女は飛び上がる。扉が開き、そこには王と公爵の姿。唇を引き締めたのは、原因が彼だと思うせいか。自らの主である王妃の嘆きを作った男ども、と。
「テレーザ殿に話がある。下がるがいい」
 リーンハルトの冷たい言葉。王妃とすら敬わず。侍女は抵抗を試みる。が、ほかならぬテレーザに下がっているよう言われてしまった。侍女が塔の別室に下がれば、その場には三人だけ。
「……わたくしを嬲りにまいられましたか」
 顔だけあげたテレーザの頬には涙の跡。化粧も剥げ、血の気もない。それでも美しい人だった。アリステアは目だけはそむけまい、と思う。たとえそれが傲慢と見えようとも。
「スクレイド公爵夫人エレクトラが嗣子レクランを誘拐した様子だ。知っていることを話すがよい」
「誘拐と仰せですか。母が子を伴うことのどこが誘拐と」
「アリステアの下から連れ出すのならばそれは誘拐と言う。言葉の定義を語る時ではない。――そなたは、なぜエレクトラの言を信じた」
 テレーザの唇が歪む。こんな笑いかたを見たことはない、リーンハルトはそれでも真っ直ぐと見ていた。目をそらしてはならない。アリステアと図らずも同じことを考えていた。
「可哀想なエレクトラ。夫を盗まれた女同士、わたくしたちが何を語り合おうと関係などございませぬでしょう」
 笑うテレーザに痛みを見る。だがアリステアには同意できない言葉だった。
「なにを馬鹿な……」
「妃殿下は考え違いをしておられる。あの女が欲するは王冠ただ一つ。従兄上を弑し奉り私を王に据え、私すら殺して自らが女王になる、それがあれの望みですぞ」
「馬鹿な、あの方は」
「おわかりですか、妃殿下。あの女にとってはあなたも従兄上も邪魔者以外の何者でもないのです」
「ですが……」
 ぐっと唇を噛みしめ、テレーザがアリステアを睨み据える。不快そうなリーンハルトがアリステアを庇おうとするのにテレーザの唇が笑う。ここに至ってもか、そう語るように。アリステアは無言でリーンハルトを止めた。それがまた彼女の痛みを深くすると気づいていても。
「陛下が……公爵ばかりをご寝所に召されるは事実。わたくしはどうなります。形ばかりの王妃でいろと仰せか。お二人が睦まじゅうお過ごしなのを黙って眺めていろと仰せか」
「……愚かな」
 ぽつん、としたリーンハルトの言葉。それがテレーザを激発させる。
「所詮は愚かな女とお笑いになればよろしいでしょう!」
「開き直るでないわ! 寝所に召すだと? 可愛い従弟と夜通し話をしていただけのこと。疑われるは心外の一言に尽きるわ。――もっとも」
 皮肉に笑うリーンハルトをアリステアは止めるべきかどうか迷う。ただ、口を挟むべきではない、と弁えた。これは自分が原因ではある。それでも二人の問題。ここでテレーザの惑乱から目をそらさずいることだけが己の義務と心得て。
「そなたの軽挙妄動により、気づかされたこともある。アリステア」
「なんです」
「愛しているよ」
「今更ですな」
 淡々としたやり取りだった。愛の言葉になど断じて聞こえない。リーンハルトにはわかっている。先ほどと同じだ。動揺のあまり言葉の平坦になったアリステアと。テレーザはそうは解釈しなかった。意味がわからない、はじめて訝しそうな表情が浮かぶ。リーンハルトを、妻として知っていたはずの自分。はじめて夫がわからない、そう感じた。ここに至って。
「そのとおり。実に今更ではあるが。そなたが愚かにもエレクトラに唆されたりなどしなければ、生涯気づくことのなかった思いでもある」
「同じにございましょう。陛下のお心はわたくしにはない」
「そしてエレクトラの望みはそなたとは違う。夫を取り戻すことではない。テレーザ、慈悲をくれてやる。知ることすべてを話すがいい」
「慈悲ならば、速やかなる死を。存じません!」
 再び長椅子にうつぶせたテレーザは、以後どんな言葉にも耳を貸さなかった。




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