夜着姿のまま、宮殿を走った。足にまとわりつく布が邪魔だった。アリステアはそれでも決して緩めず走る。リーンハルトの寝室へ。なぜ今日に限って共にいなかったのか。エレクトラが不快なばかりに、普段と同じ行動を取ってしまった自分。悔いても悔い足りない。左目から流れ落ちてくるぬるつく液体に、アリステアは気づいてもいなかった。
「なんと!」
 あられもない姿で走るスクレイド公爵に侍従が声を上げる。女官は言葉もなく口許を押さえる。アリステアの目には入ってもいなかった。
「従兄上、ご無事か!?」
 叩き割らんばかりの勢いで扉を開く。リーンハルトの姿が一瞬。目に映ったときだけ、安堵した。だがしかし。白鳥亭から戻らない王妃の姿が、そこに。和解したなど、今更誰が信じられるか。
「無礼な――!」
 王妃の青ざめた顔。寝室に乱入されたそれではなかった。さっと王妃が腕を振る。アリステアにとっては止まったも同然の動き。隠し持った短刀でアリステアを切ろうと。
「アリステア――!」
 悲鳴のようなリーンハルトの声。珍しいな、とアリステアは微笑む。幼いころよりこちら、名を呼ばれたことは一度もない。知らず口許に笑みが浮かぶ。
 そのときにはリーンハルトが王妃の手から短刀を叩き落としていた。からからと転がっていく短刀。膝をつき、王妃はうつむく。怒りの強さか。リーンハルトはそれでは済ませなかった。アリステアすら驚きに声を上げかねない勢いで自らの剣を取る。
 一瞬、ほんの一瞬。アリステアは王妃を切る気かと思った。そのときには止めに入るつもりだった。身を挺してでも、リーンハルトにそのようなことをさせてはならない。
 だが彼は剣を抜き放つなり、王妃の裾を縫い止めただけ。それに彼女は傷ついた顔をした。いっそ切られれば、そのようにも願っていたのかもしれない。もうリーンハルトは見てもいなかった。
「なんと言う……」
 呆然と、アリステアの頬を片手が包む。すぐそこで王妃が泣いていた。そんなものより、遥かに。左目の上を走った傷。いまなお血を流し続けている。
「こんな」
 神官戦士、それもマルサド神御自らより武闘神官と名付けられた彼が、片目を失っては。震える指が傷をたどる。アリステアの唇が緩んだ。何を言うより先、地の底より這い上がってきたかの声音。王妃。
「……そうやって、いつもいつも。いつもいつもいつも! 従弟殿従弟殿と。陛下はわたくしなどより!」
「黙れ!」
「わたくしより公爵をお取りになるのならばいっそ。陛下など!」
 ぬかった、といまにしてアリステアは臍を噛む。開いたままの扉、血相を変えて走ってきた自分。侍従や女官が恐る恐ると覗いていた。その彼らが、聞いてしまった、いまの王妃の言葉を。息を飲む様々な音。王妃テレーザ、乱心。
 リーンハルトは王妃を見やりすらしなかった。まだ手はアリステアの頬を包んでいる。熱い、まだ負ったばかりの傷。たらたらと流れる血。アリステアはそっと退けようとするも、首を振って嫌がるリーンハルトにどうしてよいものか戸惑う。
「従兄上……」
「黙れ。頼むから、黙ってくれ……」
 ぐっと片手を握りしめたその手が痛そうだ、アリステアは思う。この程度の傷、気づいてもいなかった自分だというのに。いまにして少々視界が不自由だ、程度にしか。
「こんな、私のせいか……? こんな、酷い。お前が」
 意味をなさない言葉のよう零される声。それまで震えていた。幼いころのような言葉使いに深い彼の動揺を知る。
「大丈夫ですよ、従兄上」
 落ち着かせたかった、こんなリーンハルトは見ていられない。自分などたいしたことはない。だがそれは退けられる。かっと顔を上げたリーンハルトの目、淡く濡れていた。そのことにこそ、アリステアは動揺するというのに。
「どこがだ! 戦うものが、それほどの傷――」
 再起不能と言ってもいい傷だ、リーンハルトは唇を噛む。アリステアほどの腕を持っていて、後れを取ったとは思えない。ならば相手は誰か。いまになってちらりと床の上の王妃を見やる。呪いの言葉を吐いていた。
「エレクトラか。エレクトラだな?」
 それはリーンハルトとしては罵声に等しい。いかに従弟の妻とはいえ、公爵夫人を呼び捨てるなど、王としての彼は一度たりともしたことはない。握られた拳をアリステアは軽く包む。
「お忘れですか、従兄上。私は神官ですよ」
 にこりと笑って見せた、その拍子。ひりりと傷が痛んで思わず顔を顰める。リーンハルトが顔色を変えてアリステアは後悔をした。
 何度も請け合うより、傷を癒したほうが早い。アリステアがマルサド神に祈りを捧げようとした正にその時。ドレスの引き裂ける音。裾を乱し、短刀を拾い上げ。
「従兄上!」
 強引に右腕でリーンハルトを引き寄せる。自らの体を楯にアリステアは彼を庇った。左腕に感じる衝撃。短刀が突き刺さっていた。骨まで達したか、自らの手を傷めたのだろう王妃が手を放す。
「ご無礼を」
 アリステアは刺さった短刀もそのままに王妃を打った。剣を持ち替える間もなかったのは、かえってよかったかもしれない。素手とはいえ、アリステアほどの男に打たれた王妃は呪詛を吐きながら崩れ落ちた。
「また――」
 自分のせいだ、リーンハルトの唇から漏れる前、アリステアは彼を引き寄せる。そこには侍従も女官もいる。何度も王がそんなことを言ってはならない。険しい顔つきのアリステアにリーンハルトの正気が戻る。唇を噛み、リーンハルトは真っ直ぐと顔を上げた。幸い、そこには侍従がいる。青ざめた彼らが。
「テレーザを連れて行け」
 その場の者は全員、息を飲んだ。アリステアですら例外ではなく。常に王妃、と敬ってきていたリーンハルト。いま、呼び捨てる。それは、そのようなことなのか。侍従がちらちらとアリステアを見ていた。
「恐れ多いことながら――」
 どちらにお連れすればよろしいのでしょう。言葉にならない侍従たち。敬意を捨てた、ということは、つまり、そのようなことなのだろうか。
「北の塔だ」
 淡々とリーンハルトは口にする。すでに彼女を見てもいない。確かに侍従たちはテレーザの反逆の言を耳にした。陛下を弑し奉ろうとする言葉を聞いた。北の塔は妥当ではあるけれどしかし。
「……いまは、お言葉どおりに」
 そっとアリステアが侍従に囁く。公爵の助言にほっとうなずき、けれど侍従たちは意識のないテレーザをどうしたものか、と戸惑う。
「そなたらがせぬ、と言うのならば私がするが」
「それくらいならば私がいたしますよ、従兄上」
「怪我人が何を言う!?」
 王が激昂したのを幸い、後のことには目をつぶり、侍従たちは女官の手を借りテレーザを運び出す。後には二人きりが残った。
「……あぁ、治療道具を持ってこさせるのだった」
 平坦なリーンハルトの声音にアリステアは眉を顰める。自ら取りに行こうとでもいうのだろう、平静を装う彼が痛々しくてならない。
「従兄上。大丈夫ですよ」
「どこ――」
「しばしお時間を」
 微笑めば、また血が流れ落ちる。紙より白くなったリーンハルトの手を取り、アリステアは微笑み続けた。まだ彼の指先は冷たく、手は震え続けている。真っ直ぐにこちらを見ている目も揺れている。
 アリステアは祈った。自らの怪我を癒してほしいというより、リーンハルトの傷心をなだめたくて。不純な祈りだ、とは思う。だが彼をこそ守るための手、命。ならばマルサド神は嘉したまう。
「あ……」
 ゆっくりと、リーンハルトが息を吸っていた。血が乾き、塞がっていく傷。アリステアが腕に刺さった短刀を抜き取り、忌々しげに床に投げ捨てる。それにもやはり、王家の紋章。
「アリステア」
 完全に塞がった傷に指を滑らせ、リーンハルトはただ彼の名を呼んだ。乾いた血が剥がれ落ちる。指でこすれば、綺麗に取れた。
「従兄上?」
 もう大丈夫ですよ、言うつもりだった言葉は消える。肩口を掴んできた彼の手。そのまま背中まで。抱きしめられた。肩先、リーンハルトの金の髪。
「……あの者の、言う通りだ」
 声だけは、まだ震えていた。アリステアは気づけば抱き返している。ただ、思う。幼いころにこうして抱き締めてもらったことならば何度もある。けれどこれは。
「そのとおりだ。私は誰より、あの者などよりずっと」
 言葉を切り、リーンハルトが顔を肩に押しつけてきた。いつの間にか上がった自分の手が彼の頭を撫でている、その不思議。このように触れた覚えなどついぞない。それなのに、手指に馴染んだ。
「アリステア」
「はい?」
「笑え」
「従兄上、急に――」
「それもだ。あぁ、そうだ。思い出したよ、アリステア。お前がそんな風に私を呼ぶから、悔しくて。名など呼んでやるかと思った」
 だから長きにわたって従弟殿、と。習い性になってしまって、改められなかった。幼いころの意地悪だったというのに。
「私にとっては、従兄上ですよ」
「それだけか」
「……えぇ」
 言いながら、自分の腕がリーンハルトを抱き返している。訝しいより、ただ自然だと思った。こうして、このようにある、それが。ふっと笑ったリーンハルトの気配。
「この武骨者め」
 顔を上げた彼に、間近で見つめられて動揺する。けれど嫌ではなかった。目を瞬けば、リーンハルトの掌が頬を包む。
「目は閉じるものだと思うぞ、従弟殿」
 苦笑の気配。何事だ、言われたままにすれば唇に触れるもの。あっと息を飲み、リーンハルトを抱きしめる。
「……我ながら、鈍いですな。なるほど。妃殿下に恨まれた理由がやっとわかりました」
「もっともだ。が、恨まれてやるほど私は人が好くはない」
 ちらりとリーンハルトが笑う。強張ったそれ。事ここに至っては、もうどうにもならない。侍従が、女官がテレーザの言葉を聞いてしまったのだから。たとえそれを誘発したのが国王リーンハルトであったとしても。




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