その言葉を、スクレイド公は反逆する、と決めてかかっている者どもに聞かせてやりたいとリーンハルトは思う。公爵家の富は王家の物、そう言える彼だと、知る者はあまりにも少ない。 「従弟殿?」 寄り添い歩くような、よい気分。城の庭を散策してでもいるような、執務に向かうとは思えない心持ち。そのリーンハルトが眉を顰めた。 「いいえ、なんでも」 言いつつアリステアは気配を探る。確かにいる。何者かが、自分たちを見ている。リーンハルト一人ではない、自分一人でもない。二人を、見ている。何気なく振り返ったときにはすでに気配は消えていた。 「では、従兄上」 「夕刻には戻るのだろうな?」 「もちろん」 「ならばそのときに、また」 手を掲げ、リーンハルトは柔らかく笑みを含んだまま歩み去って行く。アリステアは見えなくなるまで見送り、自分もまた神殿へと。 「お館様、いかがなされましたか」 城門で合流したグレンから尋ねられるほど険しい顔をしていたらしい。なんでもない、とは言えなかった。しかし、何があったというわけでもない。 「見られていたようだ」 それだけを言う。グレンも今更、と感じたのだろう、訝しい顔をしていた。 「私自身、今更、という気がしなくはないのだが。――私への視線ならば今にはじまったことではない、確かに。だが」 「陛下に、でしょうか?」 「いや……我々を見ていた、そんな気がしてならない」 グレンは王妃の手の者か、思うけれど口にはしかねた。察したアリステアが苦笑し、けれど何も言えない。王妃の憎悪はまるで変わっていなかった。神が証し立ててくれた忠誠を前にしても彼女の心は和らがない。 ――私の何がお気に召さぬのか。 思っても、どうにもならない。人の心は神にだとて変えようもないもの、そういうことなのだろうとしか。 神殿でアリステアは鍛錬と公爵としての執務と、双方に励むことになる。国王リーンハルトを除けば王都で最も多忙な男、とは彼のことかもしれない。 「……いかんな」 それなのに、アリステアはまったく集中ができなかった。書類を前に読んでいても、内容の半分も頭に入られない。繰り返し同じところを読んでいる自分に気づいては苦笑する。このぶんでは書類が逆さまに置いてあっても気づかず手に取っているかもしれない。 たかが視線。なのに、どうしてこれほどまでに気にかかるのか。胸の中がざわついて仕方なかった。直接の危害の方がずっとよい、そう思ってしまうほどに。 「戻るぞ」 おかげで務めがいやに長くかかった。鍛錬にも身が入っていないのだから同じ神官戦士たちからも苦言を呈される始末。彼らは彼らでアリステアを心配してくれているのではあるが、その心が痛かった。 「は――」 グレンもまた、アリステアが執務の間、色々と調査をした様子だった。顔色が優れないのは結果が出ていないせいだろう。 「何があった?」 原因がわかったなど、思ってはいない。気にせずともよい、とアリステアは微笑む。それには恐縮するグレンだった。 「――特には。以前からと同じよう、公爵夫人が白鳥亭に滞在したままですとか。貴きお方の傍らに侍ったままでありますとか」 人目のあるところで王妃、とは言いかねたグレンにアリステアはうなずく。グレンはその中で王妃の手の者が見ていたのではないか、と言う。 「それも――」 「今更の事実ではあります」 「だな」 「ですが、お館様の琴線に何かが触れたのでしたら、それは危険が間近に迫っている、という証しではないでしょうか」 「ほう?」 「お館様は我らが神が武闘神官と名付けられたお方です。気のせいで済ませてよいのでしょうか」 「これは、教えられたな。感謝する、グレン」 とんでもない、と飛び退きそうになるグレンにアリステアは微笑んだ。正に教えられた、と感じている。この胸の騒めきは、マルサド神からの啓示であるのかもしれない。 城に戻るアリステアの足は速かった。リーンハルトに何かがあったのではないか。それを見過ごして出てきてしまったのではないか。不安は尽きない。 「従兄上――」 まだ執務中であったリーンハルトの顔を見てはほっと息をつく。そんな彼にリーンハルトは訝しそうに、けれど和んだ笑みを浮かべた。 「どうした、従弟殿」 「胸騒ぎ、でしょうか?」 「繊細なことを言う。従弟殿にもそんなところがあったのだな」 からりと笑うリーンハルトにそれ以上のものだったとは言えない。ただアリステア自身も無事を確認し、それだけであったのかもしれない、とはかすかに思う。 ――いや、終わってなどいない。 王妃の憎悪がある限り、この気配は消えないのではないだろうか。視線の問題ではない。予感の類にも近い感覚。何かが起こる、それはすでにアリステアには確信にも似たものになりつつあった。 平素と同じく、夕食を共にした。リーンハルトはアリステアと共にあるとき、簡素ではあるけれど旺盛な食欲を見せる。それを女官たちは殊に喜んでいる。多忙な国王が疲労のあまり食事も口にできないなどあってはならない。スクレイド公が同席するだけで陛下は楽しんでお食事をなさる、と。 それを聞き知っているからこそ、アリステアは王妃の憎悪を感じつつも食事を共にしている。以前ならば彼女がここにいたはず。ただ、女官の話によれば、王妃同席の場でもリーンハルトはここまでではなかった、と言う。 「今日は忙しくてな。まったく、書類は子供でも産んでいるのではないか?」 「従兄上?」 「そう思わないか、従弟殿。少し目を離しただけで増えている気すらするぞ、私は」 珍しいリーンハルトの冗談口にアリステアは笑う。少し気分がほぐれた気がした。リーンハルトもこれからまだ残っている執務を片づける前にアリステアと一時を過ごしたかったのだろう。 「残念だが――」 「明日は神殿に戻らずご一緒しましょうか?」 「そうしてくれるか? それは嬉しいことを聞いた。では、持ち越さぬよう励むとしよう」 「ご無理をなさいませんように」 この従兄はやると言えば本当にやってしまう。アリステアとしてはそちらの方が不安なほど。どれほど有能な男であろうとも、生身に違いはない。 これ以上留まっていては執務の邪魔になる、アリステアは挨拶をして城に用意のスクレイド公爵のための部屋に下がった。何をしているわけでもないのに、日々自分好みになっていく部屋。女官たちが手を入れてくれるおかげではあるのだけれど、その本をただせばリーンハルトだった。面映ゆいような、嬉しいような。部屋に下がったアリステアの顔が強張った。 「ご機嫌よう、これはお珍しい」 スクレイド公爵家の部屋なのだからなにも不思議ではない。だが、エレクトラがいるとなると不快でしかない。リーンハルトの心尽くしを踏み荒されたかの。 「ご機嫌よろしゅう。あなた様もずいぶんとお顔の色がよろしくて。ご酒でも召されましたか」 知っているだろう、あえて言うまでもなかった。リーンハルトと夕食を共にしていたことも、軽く葡萄酒を飲んでいることも。知らないはずがない。 アリステアはエレクトラを前にして言うべき言葉がなかった。いずれ彼女の暗躍は知れている。ならばこの期に及んで何を言うもない。 無言のまま続きの寝室に下がるアリステアにエレクトラはついてくる。何事だ、と顔を顰めて振り返った。 「妻が夫の傍らにあることになんの不思議がありましょうや?」 笑っているのに、それは間違いのない冷笑だった。染めた唇だけが歪む。美しいそれであるだけに、いっそう醜かった。 「妻?」 アリステアは鼻で笑う。リーンハルトが見れば驚いただろう、従弟はこのような顔をするのだと知り。否、従弟にここまでの顔をさせるエレクトラに眉を顰めたかもしれない。 「わたくし以外の何者があなた様の妻であると? レクラン殿を差し上げたのはわたくしにございましょう」 「だからなんだと言う」 「あなた様が我が肌に触れ、我が身を以てレクラン殿を養い、産んで差し上げたのはわたくし。あなた様の妻にございましょう?」 くすりと笑うエレクトラに気味の悪さを感じた。アリステアはかまうことなく衣服を脱ぎ捨て、夜着にと。あまりの薄気味悪さに平素と同じ行動をした、と気づいては内心で舌打ちをした。 「では奥方。どうぞご退去を。白鳥亭にはそなたの寝室が用意のことと思う」 「なんと冷たい仰せ振りか」 ふっと笑ったエレクトラが寝台に上がったアリステアの傍ら、膝をつく。身を乗り出し、アリステアにまるでくちづけようとでも。アリステアははっきりと顔を顰めて彼女を退けた。 「まぁ」 くすくす笑うエレクトラだった。愛らしい素振りがここまで似合わない女もいるのだ、とアリステアは思う。彼女への反感がよけいにそれを感じさせた。そして伸びてくるエレクトラの指先。アリステアの頬をたどろうとした瞬間、彼は逆手で払い落す。 「なんという侮辱。夫に拒まれないがしろにされた妻の気持ちなど、あなた様はおわかりではない。少しも」 唇が歪んだ。詰っているようで、違う。自分のことなどエレクトラは考えてもいない。そもそも夫と言い妻と言う、ただそれだけの仲である。エレクトラが再度笑った。 「なにを今更――」 はたと気づいた。エレクトラの示唆。自分たちのことなどでは断じてない。国王夫妻。一動作で飛び起き、枕元の剣を掴んだアリステアの眼前、エレクトラが握りしめた手の中に隠れるほどの短刀。さっと振るわれたときにはただ熱さだけを感じた。片目の視界が奪われたのすら気に留めず剣の柄でエレクトラの腹を打つ。抵抗ひとつせず彼女は床に崩れ落ちた。 「従兄上――!」 いまここにエレクトラがいる。ならばリーンハルトの下には誰がいる。エレクトラが持っていた短刀。ちらりと目を走らせれば王家の紋章がついていた。 |