謹厳な女官に、彼らもそのままではいられなかった。けれどアンドレアスは物足りないらしい。
「おじ……公爵殿、剣の稽古をつけていただけませんか」
 女官がいる。人目がある、と思い出したアンドレアスに口を滑らせたことは見逃してやろう、とアリステアは微笑む。
「もちろんですとも。では、のちほど」
「稽古か。よいな。私も共に。かまわないか?」
「従兄上が? なんとよい日か。もちろんですとも!」
 嬉しそうなアリステアにリーンハルトの方こそが歓喜を覚える。互いに身支度を整えて室内練習場に、と約束をした。アンドレアスが来るならばレクランも一緒だ。息子に無様はさらしたくない。アリステアは身を引き締めて練習場へと向かう。
 すでに練習場には子供たちが待っていた。遅れてリーンハルトがやってきたのは、侍従にでも捕まっていたせいか。すまない、と目顔で語る従兄にアリステアは微笑む。練習着姿の彼を見るのは久しぶりだった。
「では、アンドレアス。まず一手」
 アリステアに稽古をつけてもらえ、父の言葉にアンドレアスが剣を構える。中々様になっていた。アリステアは壁にかかっている稽古用の軽い剣を片手に、ふらりと立っているだけのよう。
「参ります!」
 けれどアンドレアスの剣は何をしたとも見えないアリステアの手によって弾かれていた。軽々と飛んで行く自分の剣。アンドレアスは呆然と見つめる。拾いに行ったレクランをリーンハルトが止めた。
「アンドレアス。自分の剣は自分で拾うものだ」
「あ……申し訳ありません!」
 レクランに拾わせようとしたつもりは毛頭ない。それが大人たちにも見てとれている。けれどリーンハルトは心得として、あえて息子にそれを言う。
 ――見惚れる気持ちも、わかるがな。
 あまりにも鮮やかだったアリステア。無造作こそが最大の構え。リーンハルトの目をもってしても、アリステアのどこにも隙が見えない。
 何度やっても同じだった。アンドレアスの息が上がるころ、レクランに代わる。それでもなお。レクランの方が年も上で、多少は研鑽を積んでいる。だがアリステアにとっては大差ない。
「そのあたりにしておこう。従弟殿。今度は私だ」
「ここで従兄上ですか? ずるいですぞ」
「ほう? そのようなことを言うか?」
 悪戯っぽいリーンハルトにアリステアは大きく笑う。子供たちに稽古をつけたくらいで疲れているとはだらしない、そのようなはずはないと無言で示唆するリーンハルトの篤い思い。アリステアは気を入れ直す。
「……あっ!」
 アンドレアスが小さな悲鳴を上げた。二人の剣が火花を散らしたかのよう。切先と切先が重なり合い、鍔元まで擦り合う。どちらが何をしたのか、互いに飛び退り、位置を入れ替え、再び剣。
 息を飲むものだった。これは稽古、わかっていても目を見張らざるを得ない。レクランは父の剣をこれほど間近で見た経験がそもそも少ない。稽古をつけてもらうことはあるけれど、父と技量匹敵する相手との立ち合いなど、見たことはほとんどなかった。アンドレアスも同様。スクレイド公の技量は王国一、そう聞いていたけれど、公爵本人は陛下こそが、と常々口にしていた。いま、事実だったのだと知る。かつて秀峰宮の庭で見せてもらった木剣での立ち合いなど、二人にとっては遊び以外の何物でもなかったのだと、呼吸も忘れて見つめていた。
「レクラン」
「はい」
「いつか、僕たちも」
「はい。あそこまで」
「一緒に」
 アンドレアスの眼差しは立ち合いに向いたまま。それでも唇がわずかにほころぶ。レクランに向けて。父王にとっての公爵のよう、レクランは自分にとってかけがえがない。そう言える自分が誇らしかった。
「ここまでにしようか」
 うっすらとリーンハルトが額に汗を浮かばせていた。アリステアは大きく息を吸う。子供たちにはよほど真剣な立ち合いに見えていたようだったけれど、そこまででもない。むしろ会話のよう、楽しんだ剣だった。
「はい」
 目を細めて笑うのは、リーンハルトを平素よりなお近々と感じるせい。剣をかわす時、言葉より深い場所で彼を知ることができた気になれる。リーンハルトも同じだったのだろう、嬉しそうに微笑んでいた。
「おじ上」
 アンドレアスの興奮した声音。レクランが傍らにそっと控えている。悪くないな、とアリステアはそれを見る。
「なんです?」
「あの剣は、お使いにならないのですか?」
 アンドレアスの言うのももっともだった。二人は練習用とはいえ、子供たちの相手をしていたときとは違い、真剣で立ち合いをしている。アリステアの剣は、けれどレクランの側に立てかけられたまま。マルサド神御自らより賜ったあの剣は。
「使いません」
「なぜでしょう?」
 見てみたいな、そんな子供らしい好奇心が見受けられてアリステアには微笑ましい。レクランがアンドレアスをそっとたしなめているのも気持ちのいい姿だった。
「これは――」
 レクランに示せば、父の手にと剣を渡す。アリステアが手にしただけで、鞘に納められたままであるというのに剣は輝きを増したかのよう。
「従兄上をお守りする、そのためだけの剣です」
 ただ一事、それのみに使う剣だと。稽古になど抜くものではない、アリステアの優しい、けれど厳しい言葉。アンドレアスは目を瞬き、無礼を詫びる。気にするようなことではない、とアリステアは微笑んだ。
 それを聞きつつ、リーンハルトは剣を見ていた。あの日、自分の目の前でアリステアに授けられた神の剣。抜いた見せてくれたことはある。彼が使ったことは一度もない。
 ――私のためだけ。
 なぜかは知らねど、どこともわかり得ぬ場所が騒めく。不意に喉元を押さえたリーンハルトにアリステアが眼差しを。なんでもない、とただ微笑んで首を振った。
「そろそろ戻らないとなりませんな。従兄上も執務が待ち構えていましょう?」
「言うでない。このまま遊んでいられればよいのだがな」
「お心にもないことを」
 くすりと笑うアリステアにリーンハルトも肩をすくめる。どれほど多忙であろうとも責務を投げ出すことはない、それが王の姿だ、と示されたアンドレアスは眩しそうに父を見ていた。
「ご指南、ありがとうございました。またいずれ、見ていただきとうございます」
「いつなりとも」
「はい!」
 アンドレアスとレクランは手を取り合って駆けだして行く。今度は自分たちで稽古をするのかもしれない、この興奮が冷めないうちに。
「なるほど」
「従兄上?」
「上手に勉学から逃げたな、と思って見ていたよ。あの辺りは私に似たかな?」
「そう、ですか?」
「従弟殿は私をよほど真面目だと思っているらしい」
 からりと笑い、リーンハルトもアリステアと共に練習室を出る。まずは着替えをしないことには汗まみれで気分がよくない。
「従兄上は生真面目でいらっしゃいましたよ」
 何を当然のことを、とでも言わんばかりの不思議そうな声音。リーンハルトは大きく笑う。アリステアにはそのように見えていたのか、と今更知った気分だった。
「手を抜いているように見えない術を知っていた、というだけのことだ。要領がよかったのだよ、私は」
「それでいて教授役をうならせていたのですから、頭の出来が違うのですな」
「従弟殿は剣の師に舌を巻かせていた」
「武骨者なのですよ、幼いころから」
 泣き虫だっただろう、リーンハルトの目が笑う。宮殿の廊下とあって、女官も侍女もいる。その耳を憚ってくれたリーンハルトにアリステアの眼差しも柔らかい。
「このあと従弟殿は?」
「神殿に戻ります」
 いつもどおりに。言わなかった言葉にリーンハルトがわずかに顔を顰める。このまま城に住んでしまえ、と言い出しかねない顔つきにアリステアはあえて何気なく笑ってみせる。いまそれをすれば王妃が更に態度を硬直させるのは火を見るより明らかだ。
「では、着替えをしたら共に」
「従兄上は、どちらに?」
「道路の整備計画を見ることになっていてな」
 官吏のところに出向く、とリーンハルトは言う。それには呆れないでもないアリステアだった。わざわざ国王自らのお出まし、とは。
「なに、書類だの図面だのを抱えてこちらに向かわせるより、私が出向いた方が早い」
 いずれ王城内にある建物だ、手間でもなかった。むしろアリステアが途中までといえども共にあるのならば、散歩の気分にもなれるというもの。
「わかりました。では」
 早々に着替えをして、荷物をまとめ、とアリステアは算段をする。神殿と城とを行き来して執務をしているとなると、必然的に移動は大荷物になる。もっとも、公爵が騎馬で気軽に出歩いていること自体が珍しいことだったが。
 汗を拭い、身だしなみを整えリーンハルトが待っているだろう場所へと向かう。どこ、とは言っていなかったけれど、アリステアは間違えなかった。
「さすが従弟殿」
 リーンハルトの方が早く来ていて恐縮するアリステアに彼は口許をほころばせていた。待ち合わせの場所を指定していなかったのに、と。
「従兄上のことですから」
 何も言わなくともわかる。そう言うアリステアにリーンハルトも同感だった。彼のことならば、誰より知っている。あるいは自分自身よりなお。
「道路の整備、とは?」
 官吏の下に出向くとあって、さすがに侍従が同行している。アリステアに遠慮してだいぶ後ろに下がってついて来ていた。
「王都のな、道路が相当に傷んでいるらしい。雨が降ると酷いものだそうだ」
 無論、リーンハルトはその目で見たわけではない。たかが王都。それでも彼にとっては城門の外は遠い世界。
「だが直すにも色々と物入りでな。難しいものだ」
 シャルマークより魔族異形があふれている今、道路ごときで、と言うものは当然にしている。民の利便を考えれば直してやりたいというのがリーンハルトの本音だったが。
「お申し付けくださいませ、従兄上。公爵家の富など吸い上げればよいのです」
 国王なのだから。笑って言われてしまえばつられて笑みを浮かべざるを得ないリーンハルトだった。




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