夢を見ていた。昔の夢で、だからこそ一層鮮明だった。アリステアの父王が崩御し、リーンハルトは己の父が玉座につくのを戸惑うより呆然と見ていた気がする。王弟の子でしかなかった自分が、王子と呼ばれるようになった違和感。それも冷めないままに進んでいく葬儀。
 厳粛な葬儀であっただろう、と夢の中でリーンハルトは思う。けれど記憶は薄い。何が起こったのか、ただただ、成り行きを見ていた覚えしかない。伯父に当たる王は決して崩ずるような年齢ではなかった。激務と、それ以上に自ら剣を取ったことにより、呆気なく逝ってしまった。
 いまは王となった父が亡き兄、亡き王を讃える宴を催す。ラクルーサの慣例だとは後で聞いた。いずれ玉座には縁がなかったはずの自分。宮廷の故事には暗い。そのようなものなのだ、と淡々と眺めている中、顔色が変わった。
 アリステアが、どこにもいなかった。葬儀にはいた、そこまでは覚えている。まだ幼い彼が唇を引き結んで出席していたのをリーンハルトも覚えている。
 ちょうどいまのレクランと同じような年頃だったろうか、夢の中、リーンハルトは懐かしい。レクランより線の細い少年だった。いまの屈強な肉体からはとても想像できない。
 そんな少年が姿を消した。宮殿からも、王城の敷地内からも。どの離宮にも。アリステアの姿は見えない。
 ――父は。
 慌てたことだろうといまのリーンハルトは思う。亡き王の遺児が消えたなど、何を疑われるかわからない。だがリーンハルトの父は兄の子を我が子と同じように愛していた。血相を変えて捜索を命じる父などリーンハルトははじめて見た。
 そして見つかったのは、マルサド神殿。いまと同じ場所にある、あの神殿だった。そしてアリステアはリーンハルトの父が訪れたときには受戒を済ませ、見習い神官となっていた。
「なんと……」
 絶句していた、あの父が。剛毅な兄と違い、どちらかと言えば文芸を好む父だった。それでいて、剣を取らせれば兄と同じように強かった。その父が言葉を失ったのは二度目。兄の戦死を聞かされたとき。リーンハルトははじめて見た。
「なんと、お前は……。なんということを……」
 自分の胸ほどもない小さな体をかき抱き、父が首を振っていた。その腕に包まれ、けれどアリステアはそっと微笑んでいる。
「従兄上」
 あぁ、とリーンハルトは思い出す。あれが、最初だったと。それまではずっとリーンハルトと呼んでいた彼。名で呼ばれなくなったのは、あのときから。
「叔父上も、どうかお怒りにならないでください」
「怒ってなど――」
 掠れがちな父の声をリーンハルトは聞く。アリステアが受戒したのならば、彼は王冠の資格を失った。神官が玉座につくことはならない、ラクルーサの不文の法だ。リーンハルトの父が気づいたのを見越したよう、アリステアが笑う。
「これが、一番だと思います」
 ね、リーンハルト。唇だけで名を呼んだ彼。大人になったいまよりずっと真っ直ぐで、率直な眼差し。ただリーンハルトだけを見ていた。それだけは今と変わらず。
「父王がお隠れになり、叔父上が玉座に就かれたいま、従兄上が次代を担う方であるのが正しいのです」
 自分は、そのためには王子として宮殿にあってはならない。国に混乱を起こすことになる。レクランと同じ年頃で彼は言った。
 ――あのころから、従弟殿のほうがずっと先が見えていたな。
 自分はどうだっただろうとリーンハルトは振り返る。王の崩御と父の即位、それにただ呆然とするばかりであった。いまとなっては恥ずかしいばかりだけれど、当時の自分はそうとしかできなかった。それなのに、二歳年下の従弟は国の行く末までをも見ていた。
「従兄上の方がずっと、この国に相応しいでしょう?」
 何を根拠にそう言ったのか、いまなおリーンハルトにはわからない。叔父の腕に抱きすくめられたまま、リーンハルトだけを見ていたアリステア。その無垢なまでの信頼に応えなければ、と思った。同時に、彼の無垢さを守るには、自分が玉座を継ぐしかないのだとも思った。
 二人も、幼いながら子供ではなかった。宮殿で起居していれば、否応なしに風聞は耳に入る。今上の王子と王弟の子とが、兄弟のよう睦まじく遊んでいるなど誰も信じない。
 ――いまも昔も変わらない、か……。
 あのころと立場は逆になった。疑われるのだけは、同じだった。いずれアリステア王子を陥れるだろうと言われていた自分。玉座の周囲の醜さ疎ましさも、王弟の子だからこそ、よく見えていた。アリステアより二歳年長でもあったせい。
 だから、自分が玉座に就く。そうすれば、アリステアを守ることができる。見習い神官となったこの純粋な従弟の眼差しを守ることができるのは自分しかいないのだと、あの日に思い知った。何より大事なアリステアを守ろうと。
 ――従弟殿。
 彼が従兄上と呼ぶようになったからか、リーンハルトもまたそう呼ぶようになった。あれ以来、リーンハルトもまた彼の名を呼んでいない。どことなく、呼びにくくなってしまった。二人きりでいてもなお。
 ――少し。
 違うような気もした。夢の中とあって曖昧なまま、それでも違うのだと言うかすかな自覚。蕩けるように流れてしまったけれど。
 あの日の決意の連想か、夢は更に幼いころへと。アリステアの父が健在で、二人には何の不幸の影もなかった。
「母上が……あんまり好きではないのです」
 城の庭で遊んでいたときだったか。ぽつん、と呟くよう言ったアリステア。うつむきがちで、闊達な彼には似合わないほど沈んでいた。
「妃殿下をそのように言ってはならないよ」
「でも」
「大事な母上様だろう?」
 リーンハルトは後悔をしている。夢に見たのはそのせいかもしれない。幼すぎて、アリステアがなぜ母を好きではないと言ったのか、当時の自分は知りもしなかった。アリステアも言葉にできなかった。
 彼の父が亡くなり、はじめてアリステアの言葉の意味が知れた。権勢欲に取りつかれているのか、夫亡きあと、王太后の称号まで欲した女性。アリステアがあのころ何をもって母を好かない、と言ったのかまではわからない。ただ、そのような女性なのだとは知った。
 あのときはただ、沈んだアリステアを喜ばせたかった。可愛い従弟の笑い顔が好きだった。見ているこちらまで明るくなるような、そんな笑顔。
「ほら、ごらん。綺麗な花が咲いているよ」
 後に神官になるせいだろうか、アリステアは男児としては花が好きだった。リーンハルトはいまでも植物の名すら怪しいときがある。アリステアはいつも一度で覚えてあれは何、と教えてくれた。
「本当。とても綺麗ですね」
 欲しかったのだろう、一枝なりとも、手にしたかったのだろう。けれど幼く、背の足らない彼の手はとても枝には届かない。まだアリステアは七つにもなっていなかったのではないだろうか。年齢より華奢で、行く末が心配になるような子だった。たった二つ違うだけの自分ですらそう思っていたのだから、彼の父の不安はいかばかりだったことか。
「取ってあげるよ」
 手を伸ばし、爪先立ちになる。背伸びをしてまで取ってやったのは、きっと少し兄ぶりたかったせい。誰かを呼びに行けば済んだことだったのに、リーンハルトは自分の手で取ってやりたかった。
「ありがとう」
 笑ったアリステアの顔をいまもまだ覚えている。夢の中でさえこんなにも鮮明に。ちょんと、伸びた手がリーンハルトを引き寄せ、頬を唇が掠める。羽のようで、けれど甘い。あれほど甘美なくちづけはいまに至るまで経験がない。
「私は――」
 そんなことを思った拍子に目が覚めた。半覚醒のまま夢を見ていたせいか、すっきりと目が覚めてしまっている。思わず苦笑して頬に手を当てる。感触まで覚えていた自分。半ば体を起こし、隣を見つめる。
 アリステアはまだ眠っていた。久しぶりに会ったせいか、彼は抵抗することなく同じ寝台で休むことを同意した。どちらが先に眠ったかよく覚えていない、それほどずっと話していた。
 ――たぶんきっと、私のほうが先に眠ったのだろうな。
 見守られていたのではないか、そんな気がする。自分が彼の王だからではなく、アリステアの従兄だから。同じようでいて違う、そのぬくもり。
「そう、じっとご覧にならないでください。恥ずかしい」
 リーンハルトは目を瞬く。目を閉じたままのアリステアの唇、笑っていた。いつから気づいていたのだろう。少しもわからない。
「起きていたならばそう言えばいいものを」
「従兄上に見守られているのが少し、楽しくて」
「見守られて?」
「懐かしくて。幼いころにはよくこうして見守ってくださっていた」
 いま、守られているのはどちらだろう。アリステアを守るために玉座を得た自分。守れているのだろうか。自分を守るために、神から剣を賜ったアリステア。より守られているのは自分だ、リーンハルトは内心で溜息をつく。
「従兄上?」
「いや。なんでもないよ。よく眠れたか」
「ぐっすりと。陛下の寝台で熟睡するなど、臣下にあるまじき振る舞いですな」
 ゆっくりと開いて行く瞼。現れる灰色の目。窓も閉ざしたままの寝室はまだ暗い。灰色の目も翳って、けれどリーンハルトはそこに自分が映っているのだと思う。気恥ずかしくなっては目をそらす。
「臣下を無理に寝台に連れ込む王、というのも考え物だがね」
「無理、でもないですな。これでもいい大人ですから、人目は気にすべきでしょうけれど、誰憚ることがないのならば従兄上とはずっとこうしていたい」
 屈託のない言葉。リーンハルトは笑って彼の額を小突く、子供のころのように。自分の笑みに、リーンハルトは屈託をこそ感じていたというのに。
「以前ならばお心を慰める者でもお召しになって、と言ったものですが」
「いま言うと怒るぞ、従弟殿」
「でしょう? ですから武骨者ですが、従兄上のお話し相手くらいならばいつまででも私が」
 横たわったままのアリステアが笑う。いまだけは王も公爵もない、ただの従兄弟同士と彼は笑う。
「時折思うよ、従弟殿」
「なんです?」
「どうして我々は王家に生まれてしまったのだろうな」
 不思議そうなアリステアの眼差しにリーンハルトは首を振る。説明などできなかった。自分でもなぜそのようなことを口にしたのか。リーンハルトにもわからなかった。




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