小卓に用意された酒と肴。女官たちのささやかな心遣い。リーンハルト好みのものばかり、と思いきやアリステアの好きなものも少々。それにリーンハルトこそが微笑む。大事な従弟が女官たちからも大切に扱われている、と思えばやはり嬉しい。
「それにしても――」
 無理をしたものだ、と思ってしまう。あのような形で忠誠を証し立てなどしなくとも、と。
「従兄上」
 苦笑と共にたしなめてくるアリステアにリーンハルトは首を振る。薄明かりの中、リーンハルトの金髪までくすんでいるかに見え、アリステアはそっと顔を顰めた。
「いや、そうではない。疲れているわけではなく」
「まだお気になさっておいでか?」
「気にせぬわけがなかろう。従弟殿、いったい何をどう請願したのだ、そなたは」
 神へ何を請うたのか。口にしてもいいものならば聞きたい、リーンハルトは言う。言ってはならない理由はない。口ごもったのは彼女のことが頭にあるせい。それと悟ったリーンハルトが今度は苦笑した。
「従兄上だけが知っていてくださればよい、そう思っていたのですよ、私は」
 自分の心のすべてはリーンハルトが知っている。それで充分だと思っていた。事実いままで充分だった。何を言われようとも、リーンハルトが信頼してくれる限り怖いものなどなにもない。
 その思いはいまなお変わってはいなかった。ただ、それで済まなくなっただけ。王妃があれほどの嫌悪、否、憎悪を見せる。それにどれほどリーンハルトが疲弊していることかを思えば。
「貴族たちが騒がしゅうなってきましたからな。どうすれば我が心を信じてもらえるのか、私にもわからなくなった……というより、証し立てようがない、ということに改めて気づかされたのですよ」
 どれほど何を言おうとも、人間は嘘をつく生き物。貴族たちがいずれ必ずスクレイド公は反逆する、そう信じ込んでいるのならば覆しようがない。それとていままでにもあったこと。王妃の憎悪が、貴族たちの風聞に拍車をかけた。
「我が神に、我が心を証し立てるにはどうしたらよいのか、お言葉を賜りたいと望んだのです」
「それが……」
「ですが我が神は御前試合にて、とのみ仰せになられた」
 そしてその御姿を以て、証し立ててくれた。アリステアの忠義に偽りなし、と。いまも彼の腰に佩かれている剣はマルサド神の剣。誓いに背けば即座にアリステアは命を失うだろう。
「マルサド神が従弟殿の心にお応えくださったのだな」
「従兄上のラクルーサを思うお心に、でしょう」
 屈託なく微笑むアリステアにリーンハルトは目を細める。彼は知っているのだろうか。自分と彼と。比べて彼が王冠に劣るとはとても思えない。自分こそ、アリステアがいるからこうして立っていられるのだと。アリステアは知っているのだろうか。
「だが、王妃は変わらん」
 マルサド神の顕現を目にし、アリステアの忠誠は疑うことも許されなくなったというのに、彼女は変わらなかった。いまも白鳥亭にあり、公式の行事でもない限り宮殿には戻ってこない。リーンハルトは唇を引き締め、首を振る。不快の念の方がいまはよほど強かった。苛立ちより、情けなさより。
「最低限、貴族は疑えなくなりました。それでよいでしょう。反逆の意図を持ち得る貴族は激減しましたよ」
「それを従弟殿が言うか?」
 小さく笑うリーンハルトにアリステアは笑みを浮かべ続ける。王妃のことは自分にはどうしようもない。あるいは自分の存在そのものが、そうも思っている。忠誠を証し立てても無駄ならば、後はもうどうしようもない。国として不穏を取り除ければよし、と思い切るよりないのかもしれない。
「私だから言うのですよ。どうせあれらは私を担ぎ出すことしか考えていないのですから」
 先々代国王の遺児であるアリステア王子を戴き、現勢力を追放して自分たちこそが権力の座に、そう考えている貴族はいくらでもいる。アリステアを持ち出せなくなれば、多少は静かになるだろう。
「そう言えば、家臣が祝う、と言って我が屋敷で小宴を催してくれたのですよ、従兄上」
「聞いているよ、なんと羨ましいと思っていた。私もその場にいたかったものだ」
「従兄上のご臨席を賜るとなれば小宴などではすみませんよ」
「忍びで祝いに行きたかった、と言っているだけだ」
「やりませぬように、従兄上」
 一応は釘を刺すアリステアだったが、現実的な問題として、できるはずもない。その中で彼は思う。そう言ってくれた心こそが嬉しいと。その思いが目に表れたか、リーンハルトが柔らかに微笑んだ。
「その席でのことですが」
 こほん、と珍しいアリステアの咳払い。何事か、とリーンハルトは目を瞬き、遅れて彼が照れたのだと気づく。幼いころには見ていた仕種、大人になってからは絶えて見たためしがない。それだけアリステアもいまはくつろぎの中にいるのだろうと思えばリーンハルトはよりいっそう嬉しく思う。
「我が一門にはアントラル大公家がありますでしょう?」
「実に今更だな。出席はしなかった、と聞いているが」
「公爵の宴には出たくない、だそうです。なにしろあちらは大公ですから」
 身分で言えばアントラル大公の方が確かに上ではある。それを飲み込んだ上でリーンハルトは呆れた。大公家の実情がいかなものか、リーンハルトもよく知っている。
「貴族たちではありませんが、私を担ぎ出して大公が実権を取りたい、というのが事の本質でしょう」
「その従弟殿をないがしろにしておいてか? 担ぎ終わるまでは世辞でも使えばよいものを」
「それで担がれる私ではありませんが」
「無論だ。失言したな、従弟殿。すまぬ。従弟殿への侮辱であった」
 にこりとリーンハルトが笑った。もちろんアリステアにもわかっている。一般論、として彼は言っているのだと。そしてアントラル大公はそれさえできないのかと彼が呆れたことも。
「それで、いかがした?」
「えぇ。そうですね、おおよそ半数ほどは大公寄りなのですよ、我が一門は」
「半数もいるのか?」
「シャルマーク系が多いですから。私がどうのではなく、ラクルーサの中枢に座したい、と思うものがそれだけ多い、ということです。ただ今回のことで動きは減りました」
 半数はいる大公側貴族たち。マルサド神顕現にほとんどが策謀を止めた、とアリステアは見ている。宴の席でも改めてスクレイド公爵に寄ってくるものも多くいたことからそれは確実だった。
「少数はアントラル大公寄り、というよりは公爵夫人付き、と言った方がよい。あれは……どうにもならん。不貞の事実でもあれば、と狙ってはいるのですがね」
「やらぬように、と先だっても言ったはずだぞ、従弟殿」
「公爵夫人が消えればこの国は万事問題がなくなりますよ、従兄上。少なくとも当面は」
「それでも王妃がいるがな」
「妃殿下の問題も、です」
 それはわからない、とリーンハルトは考えている。仮にエレクトラが策動したのであっても、そしてそれがおそらくは事実であろうとも、すでにエレクトラの手を離れている気がしてならない。テレーザは己の意志でリーンハルトから心を離したのだと。
「そう言えば、例の伝言だが」
 王妃のことから連想したリーンハルトの言葉にアリステアがはっきりと顔を顰める。酒を口にしてまでそうしていることから、口中まで苦いものに満たされた気分でもあるのだろう。注いでやれば自分の態度に苦笑する彼だった。
「それとなく、大公家から側室を、と言っては来たがな」
「来た、の、ですか……?」
「機会があれば、という形だったがな。従弟殿、それ以上を知っているのか」
「選定まで済んでいる、という話です」
 だが御前試合の熱狂で、大公は形勢悪しと引き下がったはずだった。自分が留守の間に再び持ち出してくるとは、とアリステアは考え込む。もうしばしなりとも時を置く、と思っていたのが甘かったらしい。
「なるほど、な……」
 今度はリーンハルトが苦くなる。アリステアが注いだ酒を一息で煽るなど彼らしくはない。息が抜けるような音で笑うのも。
「王妃どうこうではなく、拒みたいものだがな」
「どうお答えになりました? 僭越ですが」
「従弟殿しか話し相手はいないのだぞ? 聞いてくれなければ私が困る」
 眉を寄せて苛立った顔を作るリーンハルトをアリステアは大いに笑う。そうしてほしいような気配を感じていた。つられてリーンハルトが笑うのに、ほっと内心で息をつく。
「いまはそのような考えはない、と言っておいた。アンドレアスは息災に育っている、とな」
 アンドレアス王子に不安があるのか、と解釈できる言葉だっただろう。言い募れば王子の不幸を願うともとられかねないアントラル大公としては下がらざるを得ない。
「そもそも、だ。王妃の選定からして政略でもあろうよ」
「そう仰せにならず。仲ようお過ごしでいらしたでしょうに」
「過ごしていたはず、だがな。いまとなってはどうだったのか、王妃がどう考えていたのかは私にもわからなくなったよ、従弟殿」
 それには言葉を失うアリステアだった。国王であろうとも、従兄であろうとも、夫婦の内情などわかりようもない。それでもリーンハルトが幸福そうに笑っていた記憶は確かにあるというのに。
「側室だったな。王妃が政略であるのならば、せめて側室は好きな女を置きたいものだ。勝手に選ばれるのはぞっとせんよ」
「お心を寄せた方がおいでならば私が動いてもよろしゅうございますよ、従兄上」
 心配そうなアリステアの目にリーンハルトは微笑む。それに彼の目も和むのを見るのが何より好きだった。
「おらぬよ、そのような者は。従弟殿といるのが一番落ち着くのだ、私は」
「私もです。従兄上のお顔を見てほっといたしましたから」
 一月もの間言葉すらかわすことが稀になっていた。こうして近々と接すれば、どれだけ互いの存在に飢えていたのかがよくわかる。ただ、リーンハルトは思う。アリステアの真っ直ぐな笑顔。その中にあるもの。自分とは違う、そんな違和感をかすかに覚えた。
「率直に言って、王妃がいないより従弟殿がいないほうがずっと困るのだよ、私は。我が国として被害がより大きいのもそちらだぞ?」
「そんなことを仰せにならず。従兄上には……お幸せでいていただきたいのです」
 困らせてしまっただろうか。リーンハルトは伏せられたアリステアの眼差しを追う。気づいたのだろう彼が目を上げ、再度微笑むまで。
「従弟殿がここにいてくれる。我が傍らにいてくれる。私はそれで充足しているよ」
 仕方のない方だ、そうとも言うよう微笑むアリステア。口にしながらリーンハルトこそ、自らの言葉に違和感を抱いていた。




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