御前試合の会場が一瞬、水を打ったよう静まり返る。ついで沸騰。貴族たち、騎士たちの沸き返る歓声。アリステアはその中でひた、と桟敷の上段を見上げる、彼の王を。リーンハルトは無言のまま下りてきた。それにまた会場が寂となる。 「陛下」 眼前に立ったリーンハルトにアリステアの声。どこにいても聞こえた、まるで先ほどの神の声のように。 「我が神に誓いし忠誠、ご嘉納いただけましょうや」 片膝をついたままのアリステアをリーンハルトは見下ろす。口許に淡い笑み。見えたのはただ一人アリステアのみ。 「剣にして楯たる我が守護者の心、深甚に思う」 息を飲む貴族たち。王は誓いを受け入れた。アリステアが差し出す剣の柄、リーンハルトは握りしめる。先ほどまで剣身をさらしていたはずの神の剣。いつの間にか鞘に包まれていた。リーンハルトはアリステアを見やり、彼の同意と共に剣を引き抜く。打ち抜かれるように美しい剣だった。その剣身をアリステアの肩口に。あたかも騎士の叙任のように。 「ありがたき幸せ。血肉はおろか魂の一片までも我が王に捧げん」 真っ直ぐとリーンハルトを見上げたままのアリステア。灰色の眼差しが王へと。常ならば理知的なその目が、いまは熱狂に揺らめく。 「そなたの血肉が我が物ならばそなたの手は我が手である。みな、知りおくがよい」 この場の貴族たちに、すなわちそれはラクルーサ全土の貴族たちにリーンハルトは宣言する。アリステアは我が物と、アリステアの手は我が手と。 「ラクルーサに栄えあれ、リーンハルト王万歳!」 誰からともなく上がった歓呼の響き。一人残らず熱に浮かされたよう何度も何度も繰り返す。突き上げられる拳、叩かれる胸。リーンハルトは剣を鞘に納め、アリステアの手に戻した。 「立たれるがいい。従弟殿」 差し伸べられた手を取り、アリステアが立ち上がる。歓声が一層高くなった。見ているな、その状況にあってアリステアは冷静に周囲を見ている。高位の貴族の席、アントラル大公の眼差し。 「……気にするでない」 唇など動いたようにも見えないリーンハルトの囁き。高まり尽した声の中でも鮮明に聞こえた。アリステアはうなずくでもない。それでリーンハルトには通じる。かすかに和らいだ気配がそれと知らせた。 リーンハルトはアリステアの手を取ったまま、桟敷の上段に案内をする。先ほどまで王が座していた席の隣、新たに席を作らせた。王妃の強張った表情にリーンハルトとて気づいてはいるだろう。だが王妃も神の降臨を目の当たりにし、抗議などできない。口許を引き締めたまま前を向いて座していた。 あとはもう熱狂の渦としか言いようがなかった。神々を敬うこと篤いアルハイド大陸にあっても神々が顕現なさることは滅多とない。マルサド神殿の者たちは嬉しげに、誇り高く背筋を伸ばしていた。 貴族たちは否応なく知るだろう、この熱がいさかなりとも冷めたのちに。マルサド神御自らスクレイド公爵アリステアの忠誠を嘉したもうたのだと。 「反逆などあり得ない」 神に誓った公爵の忠誠。それを容れた国王リーンハルト。ラクルーサの弥栄はここからはじまるのだとすら。 御前試合の後に行われる宴は、例年以上の賑やかさだった。主賓である優勝者にして神に寿がれた公爵の登場は遅れている。 「神殿で感謝の礼拝があるそうな」 「もっとも、もっとも」 「神のお姿をこの目で見ることがかなおうとは。ラクルーサの栄えここにありというもの」 興奮気味に語る貴族たちの姿が城のあちこちで目にできた、と言う。リーンハルトは宴がはじまるまで一時、休息を取る。内心では溜息をついていたとしても、それを顔には出せない。 ――王妃よ。 せめて人目のあるところで王妃としての務めを果たしてくれているのならば。そう思ってしまったのが悪いのか。あのときのテレーザの強張った顔をリーンハルトは忘れてなどいない。 ――いったい何が気に食わぬ。 マルサド神がアリステアの忠誠を認めたではないか。彼は決して反旗を翻しなどしない。それを神が証してくれたではないか。それでいてあの表情。 侍従や侍女たちの前でリーンハルトは黙考する。苦々しい顔をしないためにはただそうするしかなかった。 ――従弟殿。 せめて彼にここにいてほしかった。感謝の礼拝を終えれば、登城するだろう。けれど貴族たちの前で「従弟」ではいてはくれない。それをはじめて寂しい、そう思った。 連日連夜、その有様だった。御前試合の宴が終われば貴族たちが神に寿がれた公爵を、と夜会に招いてくる。無下に断ることはできない。アリステアにとっても直接言葉を交わし、彼らが何を考えているのか知ることができる貴重な機会だった。 あるいは神殿に戻り、神官たちや司教と会談を持つ。神自ら名付けられた武闘神官とは何ぞや、と論を戦わせる。アリステアはただリーンハルトを守ることができればそれでよかった。彼のためにだけ剣を振る、その誓いが容れられれば充分だった。 おおよその騒動が落ち着いたのち、スクレイド公爵家の騎士たちが主人のためにささやかな宴を催したい、と言ってきた。それにはアリステアも笑みを浮かべる。ありがたいことだった。 「父上――!」 レクランの顔も久しぶりに見た。年少者とあって、レクランは宴には出席をしない。それでも多忙な父のため、一時公爵邸に戻ってきた彼だった。 「おぉ、レクラン。息災にしていたか」 「はい、父上こそ。お忙しいことと存じます。お体おいといくださいませ」 「なんの、騎士たちが祝ってくれるとなれば疲れなど吹き飛んで行くものよ」 臣下たちは主人の忠誠が神に認められた、と知ってよほど嬉しいらしい。平素より顔色が明るい。浮き浮きと足取りまで弾んでいるようでアリステアは小さく笑う。 「僕も、道が見えたように思います」 父の笑みに触発されたよう、レクランもまた笑顔。それでいて真摯な眼差し。王子の傍らにあり、レクランは日々階段を駆け上がるようにして成長していく。それを目の当たりにした気分だった。 「そうか。父にはお前の道がいかなるものかは、わからん。だがお前が道を違えようとは思わぬよ。励むがいい」 「はい!」 よく似た色をしていると誰にも言われるレクランの目。自分の物よりずっと明るい、そう思うのは父の贔屓目というものだろうか。ふと思いアリステアは内心で苦笑していた。 臣下が催す宴とあって、盛大なものではない。家裡の、ずいぶんと内々の宴で客人はない。無論、一門の貴族たちはほぼすべてが出席している。スクレイド公爵配下の伯爵たちから騎士に至るまでが。 その中で目立った欠席が二つ。アントラル大公は影もなかった。すでに領地に帰った、と言う。大公の身が公爵を、その臣下に混じって祝えるか、と言い放ったらしい。権威だけがある、とはそのようなものかもしれない。日々の費えすらスクレイド公爵家がすべてを賄っているというのに。 幸い、マルサド神降臨のおかげで、なまめいた風は吹き飛ばされ、アントラル大公が側室の件を持ち出すことはなかった。いま言えば王の不興を買うとはっきりしていたせいかもしれない。 そしてもう一つの欠席。公爵夫人もまたこの場にはいなかった。王妃と共に白鳥亭にあるとアリステアは聞く。グレンが顔色を悪くして報告に来たから、よほどひどい有様だったのかと眉を顰めたが、そうではなかった様子。 「あまりに平素とお変わりなく過ごされたご様子。いっそ気味が悪い、と言っておりました。――ご無礼を」 グレンは身内を公爵夫人の下に小間使いとして出している。その娘が言ったままを口にしてしまったのだろう。アリステアは気にせずともよい、と首を振る。娘に同感だった。まだある、何かがまだある、そう考えざるを得ない。もちろん、一時引いただけで側室の件は潰えたわけではない。それもあるのだろうけれど。 公爵夫人不在のおかげで女性が次々と帰っていく。伴侶に帰られてしまった貴族が多少手持無沙汰にしていたけれど、アリステアとしてはありがたい。宮廷風の恋愛遊戯は苦手だった。男ばかりの武張った風が心地よい。 結局アリステアがリーンハルトとまとまった時間を持てたのは月が一巡りもした後のことだった。登城はしているし、顔も合わせている。けれど。 「従兄上!」 以前のよう、陽も暮れてのことだった。リーンハルトもゆっくりとすごすつもりなのか、今日は暖炉の側に小卓と椅子を設けている。灯りすら数を減らし、揺らぐ炎の影が見えるよう。 「従弟殿」 ほんのりとしたリーンハルトのくつろいだ笑み。差し出された手のままに暖炉の側の椅子に掛ける。座り心地の良い椅子にリーンハルトの思いを見た気がした。 「あぁ、ようやくです」 「うん?」 「やっと従兄上の下に帰ってくることができました」 「宴宴と忙しかったことだろう? 自業自得というものだぞ」 笑うリーンハルトに顔を顰める。自分のせいではない、とアリステアは抗議をしたい。それなのに笑っていた。 「それはないでしょう。まるで私が悪いように」 「あのような方法で忠誠を表したりするからだぞ」 「私のせいではない、と申し上げているでしょうに。確かに神託を請願したのは私ですよ。御前試合の場でお言葉は明かされる、と神託は告げました」 まさかご降臨したまうとは思ってもいなかった、アリステアは顔を顰める。その表情のおかしさか、リーンハルトが声を上げて笑っていた。 「これは、いいものですね」 リーンハルトを見つつアリステアの目は暖炉へと。時期外れとあって火は入っていない。代わりに薪があるべき場所に様々な赤の花が炎のよう大きく飾られていた。 「よいだろう? 従弟殿が来ると言ったら女官長が飾ってくれたよ」 「なんと」 「よほど私は嬉しそうな顔でもしていたらしいな」 くすりと笑いリーンハルトは実際にくすぐったそうに身をよじっていた。そんな従兄の姿が珍しくも嬉しい。 「そうだ、従弟殿。中々会えなかったのは幸いだった。ちょうど昨日、できてきたのだよ」 ふと思い出したようリーンハルトが席を立つ。戻った彼の手には剣帯が。アリステアが息を飲む。革の細工は美しくけれど剛健。 「マルサド神から賜った剣をお付けになるといい」 私からの祝いだ、微笑むリーンハルトの唇。その笑みを見ることができる場所にいる。無言でアリステアは剣帯を受け取り、その場で取り換えてはリーンハルトを更に微笑ませた。 |