リーンハルトに限って当てつけ、とは考えられないから苛立ちの表れなのだろう。あの日以来リーンハルトはよく冗談として「従弟殿が女性であれば」と口にするようになった。
 確かにそうであれば一切の問題は起こっていないような気がアリステアもする。王位を巡る争いを起こさないために神殿に入ることもなかった。そもそもその場合を仮定すれば、リーンハルトの王妃は間違いなく自分であった、とアリステアは思う。それに違和感もない。
 ただ、冗談だ、とアリステアは理解している。リーンハルトは苛立ちのあまり口にしているだけ。笑い飛ばさねばどうにもならない気分であるだけ。貴族たちもそう解釈しているだろう。事実、二人は男性として生を受けているのだから。だが、王妃にどう聞こえるかまでは、二人ともに理解が及ばなかった。
 御前試合が近づき、アリステアはすでに神殿に下がっている。慣例的に出場者は御前試合までの間、登城しないものとなっている。それに倣ってのことだった。
 神殿からは数名の神官戦士が出場する。いずれも有力、と考えられている力量充分の男たちだった。アリステアは彼らと剣をかわし、鍛錬を積むのが好きだった。生まれも身分も関係ない、信仰と剣の腕。ただそれだけで評価をされるとは気持ちのいいもの。
 その中でやはり、リーンハルトが懸念されていた。城から下がるとき、慣例と理解していても彼は難色を示したのだから。
「従弟殿、どうしてもか」
「なりませぬ。私が一番に賛同する立場なのですよ、従兄上」
「わかってはいるが」
「なにか、ご懸念がありましょうや?」
「……あると言えばある。なにより、従弟殿が傍らにないと寂しいではないか」
 肩をすくめて小さく笑ったリーンハルトの、それはたぶん戯言だ。同時に、半分は本心だ。アリステアは勝利を捧げに戻ってくる、と約束をして下がってきた。それには微笑んでうなずいた彼。
 あの微笑が、アリステアの不安を誘う。王妃のことがよほどこたえているのだろう。本心を明かせる相手が誰一人いない状態でいま、リーンハルトは城に一人。
「すぐに――」
 戻ります、とは言えない。御前試合が終わるまで。せめてはじまるまでは顔も見られない。上段の、最も高い位置に設えられる玉座にあるはずのリーンハルト。会場の広場で戦うアリステア。それでも目を合わせることはできる。それまでは。長い溜息をつきつつ、アリステアは神殿の中を行く。
 レクランと鍛錬の約束をしていた。息子もまた、神殿と城の往来を一時中断し、神殿に起居している。彼は騎士ならば叙勲前の従騎士まで、と決まっている若年の部門に出場する。そのせいだった。
「待たせたか」
 屋内練習場に入れば、すでにレクランが待っていた。一人で鍛錬をしていたのか、あるいは誰かと一勝負終えてきたところなのか。頬が紅潮している。
「いいえ。お忙しい中、ありがとう存じます」
「気にするでない。では」
 早速と剣を掲げる父にレクランは嬉しそうに微笑んだ。自分にも妻にも似ていない、あえて言うならばリーンハルトに似た笑みだ、とアリステアは思う。柔らかで、優しい笑顔。
 それでいてレクランの剣はアリステアに似ていた。同じマルサド神殿で鍛錬をしているからだけではない剣の相似。優しい顔に似合わない鋭い剣だった。
 それをアリステアは手もなくあしらう。悔しそうな色が目に一瞬。レクランはすぐさま感情を殺し、再度剣を振るう。何度やっても同じこと。とても敵わない。せめて両手を使わせたい、何度レクランが願っても、いまだ父にそうさせることはできなかった。
「ずいぶんと上達したものだ」
 しかしアリステアはしみじみとうなずく。マルサド神殿に滞在するようになって、レクランの腕は一段も二段も上がった。神官たちがよく見てくれているのだろう。
「……至りませぬ」
「お前の年齢ならば当然のことだ」
「父上も、そうであられましたか」
「もちろんだ」
 そっと微笑むアリステアにレクランは疑わしげ。神官戦士の中でも第一に数えられ、御前試合では常に優勝候補であるアリステア。幼いころから剣に長けていた、と思うのだろう。
「お前には以前話したと思うが。泣き虫で軟弱な子供であったよ、私は。従兄上がここまで鍛えてくださった」
 神殿に入ってからは、あえて会わずにいた時間も長い。そのためにこそ、神官になったアリステアだったのだから。だからこそ、感じる。会わずにいた時間もなおリーンハルトのためであったのならば、いまの自分を作ってくれたのはやはり彼だと。
「精進いたします」
「そうせよ。殿下からお言葉は頂戴しているのだろう?」
「はい。勝利をもぎ取ってまいれ、と」
 率直な励ましが微笑ましい。若年の部門とはいえ、ただの前座ではない。優勝者は上の試合に出場することが許される。そこからが本物の御前試合、と言っても過言ではない試合に。
「勝たせぬよ、レクラン。勝利は我が物。今年も従兄上に捧げさせていただく」
「精一杯の努力を致します。僕もまた、殿下に勝利を捧げとうございますから」
「よく言った」
 にこりと笑う父にレクランの頬が赤くなる。父もまた、励ましてくれたのを感じた。レクランにとって父の背中はやはり大きい。目指すべき目標だった。それを改めて感じたレクランの目。
「父上、少々お時間を頂戴できますか?」
 ふとアリステアはレクランを見つめる。アンドレアスの下にあり、レクランは大人になった、そんなことを感じたのかもしれない。
「無論。人払いが要りようか」
「できますれば」
 真剣なレクランの声にアリステアは一度グレンを呼ぶ。室外にあり、扉を守っていた騎士に人払いを命ずれば、一礼してグレンは歩哨代わりに立つと言い再び出て行った。
「さて、何を父に問いたい?」
 この場の方がよい、とレクランは無言で望んだ。ならば剣の話であるのか、それとも鍛錬の方法か。わずかに思ったけれど、あの真剣な眼差し。
「いや、しばし」
 つい、とレクランの側近くに寄り、アリステアは胸元の聖印を額に掲げては祈りを捧げる。レクランは何をしたのか、理解はできないだろう。しかし何かは感じたらしい。
「今のは……?」
「我が神の祈りの中にある。人の耳に聞こえることはない。安心して口にするがいい」
「はい――」
 ほっとしたレクランに、よほどのことだとアリステアは気を引き締める。事実、彼が口にしたのは他聞を憚るどころではなかった。
「殿下のことです。こうして王家の方々を話題に上げることは憚るべき、と心得てはいますが」
「この場限り、と言うことで許そう。いかがした」
「はい――。殿下が、妃殿下にご不快の念を強めておいでです」
「それは……」
「母上は王妃として泰然とあられればよいのに、と」
「王妃として?」
 目を瞬いた父にレクランは赤くなる。父とて風聞を知らぬはずはないだろうに、そんなことを思う。
「その……陛下が最近お口になさるお言葉です」
「あぁ、私が女に生まれていれば、という話か」
「はい。そこから殿下は陛下が側室をお持ちになったとしても王妃は王妃として重んぜられるのだから、と仰せになります」
「それは、確かにそのとおりでは、あるのだが」
「人の情とはそれだけで済むものではなかろうとは拝察いたしますが」
 いささか若人らしからぬ言いぶりになったのはレクランの羞恥か、とアリステアは内心で苦笑する。アンドレアスは王の血脈を継ぐ者としてすでに伽のことなど学問としてならば教えられているだろう。レクランにもそれとなく教えてはいるが、実際に寝室に人を送り込むのは十五歳になってからでよい、と考えている。
「その、ですから。殿下のことですが。アンドレアス様は、陛下をご尊敬申し上げているのでしょう。母君の不満が、いたくお気に召されぬご様子です」
「お前は」
「お諫めはしております。そのようなことは断じて口になさるべきではないと」
「それでよい。しかし、側室か……」
 ふと嫌な想像をした。いまの情勢でリーンハルトが側室を持つ、などと言うことになれば政治問題は一気に悪化する。アリステアの目が上がり、レクランは眼差しに捕えられたかと疑う。それほどの鋭い目をしていた。
「問うが。殿下はよもや妃殿下にご側室のことなど仰せではないだろうな」
「……一度だけ」
「なんと。よもや……その場に公爵夫人が」
「はい。近頃では妃殿下のお側にぴたりと付き従っておいでです」
 エレクトラの策が見えた気がした。国王夫妻を引き裂けば、ラクルーサの政治は混乱する。王妃に疑いを吹き込んだか。
「わかった。できる限り、殿下のお心を慰めよ。あとは私が手を打ってみよう」
「はい。アンドレアス様は僕が共にあると落ち着く、と仰せくださいます」
「お前はどうなのだ」
「僕、ですか? ……そう、ですね。アンドレアス様お一人にお仕えしたい、その気持ちは一瞬たりとも揺らいではおりません」
 それでいい。微笑むアリステアにレクランの輝く目。同じ灰色の目ながら、レクランの目はより強い輝きを宿す気がした。
 レクランが退出したのち。アリステアはグレンを招き入れる。マルサドの信徒である彼だ、剣の鍛錬を共に。誰にでもそう見えた。
「グレン。いささか頼みにくい頼みがある」
 しかしアリステアは無音の祈りを解かないままだった。グレンもまた、剣を握ってすらいない。アリステアの前、片膝をついてはどんなことでも、顔を上げては無言のままに。
「――公爵夫人の策が読めた気がする。妃殿下に従兄上を疑わせ、その上で従兄上に側室をお勧めするつもりではないのか、あの女は」
「なんと……!」
「妃殿下との間に間隙ができてしまった今、すでに半ば策は成っているとも言える。現状で仮にアントラル大公家から側室を差し出す、と言われれば無下に退けることはしかねるだろう」
 すでに多くの子がある国王夫妻。それでも王子は二人きり。しかも末の王子はいまだ嬰児。万が一のことを、と臣下から要請があればリーンハルトはいかにするか。アリステアは首を振り、そしてグレンは主の望みを容れた。




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