数日を経たのち、グレンからの報告であの日のリーンハルトが顔を顰めた理由をアリステアは知る。 「……なるほど」 一人になって再び呟く。元々、官吏からは王妃と共に、と要請されていた話だったらしい。アリステアが言ったとおり、第二郭門までならば王宮からも距離はさほどない。国王夫妻の息抜きに、との面もあったのだろう。 だがリーンハルトが拒んだのか王妃が拒絶したのか。結果としてあてつけのよう、リーンハルトはアリステアの同道を望んだ。 「従兄上――」 自分がここに存在すること、それが二人の溝になっているのではないか。感じたのははじめてではない。グレンの嫌な想像もある。アリステアとしても迷う。 だが、今更引くに引けない。ここで引いては、リーンハルトがテレーザに譲った形になってしまう。すでに王妃側、とでもいうべき貴族の派閥ができはじめている今、それをすれば国が揺らぐ。王妃の生家であるフロウライト伯爵家が表立った動きを見せてはいないのだけが幸いだ。元々政治的に動ける当主ではない。だからこそ、テレーザは王妃に立った、とも言うのだから。 アリステアが神殿の儀式を終え、登城した折のこと。酷い衰弱ぶりに王が驚倒したと噂が立った。しかも王手ずからスクレイド公の看病をしたとまで。嘘ではない。表面的にはただの事実だった。 貴族たちは感じたらしい。スクレイド公爵へのリーンハルト王の信頼の篤さを、今更ながら深く感じたらしい。スクレイド公爵が裏切るかどうかはまた別の問題だとしても、あからさまな公爵批判をすれば王の不興を買いかねないと。 しかも王冠を約束されたアンドレアス王子は王を尊敬していることからして、スクレイド公にも懐いていると貴族は分析する。まして王子の傍らにはスクレイド公の一子レクランがある。ならば、リーンハルト王の別の王子を擁立するか。アンドレアスの下に二人の王女を挟んだ末の王子はいまだ嬰児の域を出ていない。結果として、暗闘がはじまっている。 「従兄上、そろそろご休憩なさっては?」 グレンから日々様々な報告を受けているアリステアだった。もっとも、いまは神殿と城の往復をしている。日中は神殿にあり、務めと鍛錬、そしてスクレイド公としての執務に励む。夕暮れごろ城に戻り、リーンハルトとの一時を持つ。それが日常になりつつあった。 「あぁ……悪くないな」 ふ、と執務机から顔を上げて微笑むリーンハルトだった。待っていたのではないか、そんな風に思うこともままある。いくつかある執務室の中でも、ここは奥まった一室で、本来は王の居間であった。多忙を理由に書類を持ち込むことが多くなり、いつの間にか机まで備えた執務室になってしまったもの。 「従兄上はお呼びしないと机の前から離れてくださらない」 子供のように拗ねて見せるのもそれが諫言、と理解してくれる王だからこそ。苦笑してリーンハルトはうなずいていた。 「だが従弟殿が呼びに来てくれるのも楽しいものだぞ」 「それより前に息抜きをなさいませ」 「息抜きばかりしていたら国が亡ぶぞ?」 くすりと笑ったリーンハルトだったが、現状ラクルーサではそれが事実だ。魔物の存在、そして城の内情。いずれもリーンハルト一人の肩にかかっている。 「従弟殿、先日のあれがよいな」 執務室を出てきつつ言うリーンハルトにアリステアはにこりと微笑む。隣室にはすでに酒肴の用意が調っていた。 「なんと」 「最近はすっかりお気に召したご様子。準備をさせておきましたよ」 「従弟殿は手際がよい」 嬉しそうに笑うリーンハルトの笑顔があればそれで充分だ、とアリステアは思う。こうして傍らにあったのが、以前は王妃であったはず。ちらりとよぎった思いを笑みの裏側に押し殺した。 「おや、今日はまた少し変わったものを出してきましたな」 黒麦が気に入ったのだろう。夜も更けてからの執務を終え、リーンハルトが夜食に、所望するのはもっぱらこれになっている。さすがに農家の少女が焼いたものよりずっと薄く繊細に焼き上げられた皮はしっとりと、それでいて端は香ばしく、具も趣向が凝らされている。贅沢を好まないリーンハルトのため、前回はチーズと刻んだ香草を混ぜ合わせたもの、今日は削るよう薄くされたハムに歯ごたえのいい野菜の細切りを合わせてある。 「これも中々良いな。従弟殿は麦の皮は何にでも合う、と言っていたが黒麦も色々と合うものだ」 「それは料理人の腕がよろしいからですよ、従兄上。たまにはお褒めの言葉を」 「覚えておこう」 些細なことではあるけれど、こうして助言と忠告をくれる従弟の存在がいかに貴重か。リーンハルトは微笑んで対面に座すアリステアを見ていた。 「すっかりと元に戻ったな」 「なにがです?」 「あの窶れようを思うと従弟殿の回復は目覚ましいものがある」 「なんと、そのことでしたか。従兄上はお忘れかもしれませんが、私はマルサド神の神官ですよ」 「覚えてはいるぞ? それとこれになんのかかわりが?」 「マルサド神の神官は肉体の鍛錬に長けているものです。まして私は神官戦士の位階を頂戴しております。少々のことならばすぐさま元に戻して見せますとも」 「そうか……」 「一朝ことあらば誰より先に従兄上の下に駆けつけ、お守りするための力です」 笑みを浮かべたまま断言するアリステアの心を誰もが疑う。王妃ですら、疑う。テレーザの態度が思い浮かんだ途端、苛立ちが湧きあがり、アリステアとの一時を汚された心持ちにもなった。 「その様子では、今年の試合にも出場できそうだな」 苛立ちをアリステアに気づかれたくなかった。二人きりでいるささやかな時間。いかなるものにも邪魔をされたくない。たとえ己の不快であろうとも。リーンハルトはだから笑顔で話を続けた。 「もちろんですとも」 「今年もまた神殿からの出場か? たまにはスクレイド公爵として出場せよ」 「それは王命ですか?」 言えば顔を顰めるリーンハルトだった。戯れに王命だ、と言うことはあっても、権力でもって従弟を従わせることを嫌う彼だ。そうと知っていてアリステアも言うのだが。 「司教様より御前試合にて武芸上覧いたしますよう、命を受けておりますよ」 「だがな……」 「それに、いまの情勢で私が公爵として出場すればいらぬ噂の的になるだけでしょう」 「いずれにしても噂の的だがな」 「だからといって種をくれてやる気にはなれませんな」 にやりと笑うアリステアにリーンハルトも笑って同意をした。なるほどもっともだ、と思う。それでいてスクレイド公爵としての出場を望むのは、美々しい公爵の鎧に身を包んだ従弟を見せびらかしたい、という子供っぽい悪戯心だった。 「従弟殿、時間はあるかね?」 「従兄上のためならばいくらでも」 「ならば少々付き合え。散策と行こう」 夜も遅い、とは言わなかった。こんな時間でもなければリーンハルトは庭園の散策もできない。遅くまで眠り、夜なべて宴に密談に、と遊び歩く貴族とは大違いだった。 「あの香りの庭が気に入りなのだよ」 王妃が多忙な王のために庭師に作らせたはずの香草の庭。王妃はおらず、けれど従弟がいてくれる。むしろその方がよい、とまでリーンハルトは感じている。 ゆったりと足を進める。少しずつ香りが近づいてくるような気がするのもまた楽しい。星の光を邪魔しないかそけき灯りが燈っている。 「あ……」 小さな声は、おそらくは夜だから聞こえたもの。若い女の声に二人は振り向く。ふとリーンハルトが眉を顰めた。 「ご機嫌よう」 そしてそのまま足を進める。若き侍女の向こう、王妃がいた。彼女もまたリーンハルトに向けて会釈を返すのみ。アリステアもまた無言で礼を返し、王を追った。 「従兄上――」 軽く手で制された。万が一にも聞こえない場所まで行こう、というつもりらしい。アリステアもそのあたりは気をつけていたが、リーンハルトは更に。 「もう、だめなのだろうと思うよ。従弟殿」 香りの庭に二人。はじめて見たとき驚かされた、魔術師の作る本物そっくりの切り株めいた椅子に腰を下ろしてのちのこと。 「従兄上」 「だめならばだめでもかまわないのだよ」 「そんな――」 「王妃も、王妃としての責務までは放り出す様子はない。謁見の時などは平素のとおり、我が傍らにある。彼女がそのつもりならば、それでよい」 だが夫婦としてはもう回復のしようがない、リーンハルトは苦笑しつつどこかを見ていた。アリステアの顔を見ては言いにくい。彼のせいでは断じてないはずだというのに。 「ただな……子供たちが少し、可哀想ではある」 「それは……」 「そんな顔をするな、従弟殿。殊にアンドレアスは母親がどうしてそこまで従弟殿を嫌うのか、わからないのだろう。もっとも、私にもわからない」 自分もだ、とはアリステアは言えなかった。ただ思う。幼い王子が巻き込まれてしまったこと、それだけは心の底から申し訳ない。 「顔を合わせるたびに従弟殿への態度が見てとれるわけだ。アンドレアスも『父上が信頼申し上げている公爵を』と釈明に努めたようなんだがな」 たった九歳とはいえ、アンドレアスは次代の王になるべくして養育されている身。それくらいのことは言うだろうと思う、が。やはりアリステアは痛ましく感じた。 「そのたびに嫌な顔をされる、と言う。もう父のことは言わなくてよい、とアンドレアスには言いおいた。だが、王妃はレクランにもよい顔をしない、と言ってきた」 当然だろう、アリステアはうなずく。己を憎んでいるのならばレクランはその息子。好意を持つ理由こそない。それならば、理解が及ぶというのに。 「母と言い合いをした後、必ずレクランが慰めてくれる、とアンドレアスは嬉しそうに言っていたよ」 「父上のことで色々と言われると王子が側にいてくださいます、と言っていましたよ」 互いに息子たちのことを言い、苦笑をかわす。昔の自分たちを見るようだった。あのころ二人の間を裂くものはなかった。アンドレアスとレクランはどうだろう。どうか今後も手を取り合っていってほしい、二人ともがそう願う。 「まったくな、従弟殿。我々のどちらかが女であったならばこんな苦労はしなかった、そう思わぬか?」 重たい話題を続けるのを嫌ったのだろうリーンハルトの戯言。アリステアは大仰に驚いて見せる。そしてまじまじとリーンハルトを見つめ。 「従兄上ならば絶世の美女であられましたでしょうね」 「なに、従弟殿も中々の美女であったろうよ」 ぽん、とアリステアの肩先を叩く。屈強な肩を。それには吹き出さずにはいられないアリステアだった。 「それは身贔屓、と申すのですよ。従兄上」 夜の中、からりからりとリーンハルトの笑い声が響いた。遠くで、けれど聞こえるどこかで王妃もこの笑い声を耳にしている。なぜかアリステアには確信があった。 |