誰ぞがマルサド神殿まで走ったものか、神殿の回復食と同じものが日々用意された。薄い粥からはじまり、少しずつ濃く固くなっていく食事。アリステアはそれを噛みしめるよう口にする。
 あくる日は城に設えられている己の部屋へと戻って眠るつもりだったが、「眠るまで側にいる」とリーンハルトが言い張るに至って、翌日も諦めて彼の寝室を使う。よほど不安を与えてしまったらしい。幼いころからはじまって、ここまで窶れた姿を見せるのははじめてだったせいだろう。
 五日も経てば神殿との往復を再開できた。十日でほぼ元に戻ったアリステア。リーンハルトは感嘆の思いを隠さない。それには照れくさい気分のアリステアだった。
「従弟殿。気分がよいようだったら散策に出ないか」
 懸念もだいぶんと和らいだらしい。リーンハルトの顔つきも穏やかだった。アリステアとしては否やはない。が、彼が散策、とは珍しい気がした。
「執務半分、というところだな。第二郭門の中にある篤農家がいてな」
 そこで育てられた作物を見に行くのだ、とリーンハルトは言う。半分どころか完全に執務だった。それでも王が散策だ、と言うのならばそれでいい、アリステアは喜んで同道を申し出る。
「では城門で」
 軽く手を上げてリーンハルトは去って行く。たとえ第二郭門までとはいえ、王のお出ましだ、近衛の大部隊がついてくるだろうとアリステアは安堵している。
「グレン、出かけるぞ」
 アリステア自身は気楽なものだった。グレンを伴い、城門にまで行けばいいだけのこと。そこで近衛隊に合流するつもりだった。
「……我が目を疑う、とはこのことですな」
 呆気にとられた。確かに王都アントラルはリーンハルトの街だ。だがそれにしてもこれはない、とアリステアは顔を顰める。ほんの数騎ばかりの近衛騎士を伴うだけの彼だった。
「なにがだ?」
 リーンハルトは一切の不安を感じていないらしい。王に万が一のことがあれば。近衛の方が顔を青くしているというのに。
「もう少し身の安全と言うことをお考えなさいませ」
「私の都で?」
「不埒者はどこにでもおります」
 よくぞ言ってくれた、と近衛がほっとする。だが今更引き返す、とはリーンハルトは言わないだろうし近衛の大部隊などそもそも連れて行くつもりもない王だった。農家の下に大勢の騎士を送り込むのはためらわれるのだろうと騎士たちは思う。
「ご無礼を」
 それと察したアリステアだった。胸元からマルサド神の聖印を引き出し、軽く額に当てて祈る。そしてリーンハルトの肩先に触れるかどうか。
「従弟殿?」
「盾の守り、と申します。近衛が援軍を呼びに走るまでは充分に陛下をお守りすることでしょう」
 もしそのようなことがあっても最悪の事態にはならない。マルサドの神官戦士の言葉に近衛が息をついていた。
 リーンハルトはいささか不満そうではある。この街で、そのようなことがあるとは。だがアリステアの言を無下に退けられるものでもない。軽くうなずいて一行は出発をした。
 篤農家はこれほど少数で王が現れる、とは思っていなかったのだろう。すでに通達はされているはずだが、それにしても、と驚いていた。
「なんと素晴らしい眺めか」
 リーンハルトは思わず呟く。そろそろ暑くなりはじめた夏の陽にきらきらと輝く、青く茂った畑だった。これほど美しいものとは思ったこともない。
「きょ、恐悦至極にございます……!」
 馬を下り、畑に見入る王に農家の主人は真っ赤になっていた。家人だろう、女も男も大勢がいる。主人の傍らには青年が。おそらくは息子なのだろう。親子ともに立派な体格をしていた。
「これはなんという作物なのだ?」
 主人が恐る恐る騎士を窺う。それに騎士が進み出ようとするのをリーンハルトが手で止めた。
「陛下は直答を許すとの仰せだ。お答えするがよい」
 言われて主人が青くなる。近衛騎士相手でも緊張しているというのに、国王自身に何をどう言えば無礼ではないのか。意を決したよう、口を開く。
「く、黒麦、と申します。陛下」
「ほう、黒麦か。黒いのか?」
「は、はい。実った物が、その、黒くなりますの、で」
 言葉を続けられなくなった主人が慌てて青年の肩を叩く。飛び上がるよう青年は麻の袋を持って来ては引き裂く。ざらりと種が零れた。
「これ、に、ございます――!」
 口の中で強張った言葉をひり出すよう、主人は絞り出し、零れた種を掌に。そこには三角に尖った黒い種が乗っていた。
「これを、挽いて粉にいたしまして。そして麦の粉と同じよう、食べることができます」
 息子のほうが少しは緊張が薄いらしい。主人よりすらすらと言葉が出てきた。それでも真っ赤になっているところは変わらない。その姿がリーンハルトにはいとも美しく見えた。傍らにあるアリステアを見れば同じく優しい顔で親子を見ている。内心で彼は微笑む。
「なるほど。どんなものなのか、それも楽しみではあるが……」
 ふと呟かれた王の言葉に人垣の中から飛び上がったもの。挙措の相似からして主人の家族だろうと思っていたら息子そっくりの少女が一人出てきた。
「こ、こんな風にして、いただくんです。王様」
「馬鹿。陛下って言うんだ!」
「あっ」
 兄妹のやり取りにリーンハルトの目が和む。微笑みたかったのだろうけれど、それをしては彼らが傷つくだろうと彼は平静のまま。
「どれ、いただこうか。こちらに」
 そこに、にこりとしたアリステアが手を出した。少女が差し出していたのはどうやら食べ物らしい。黒麦の食べ方を尋ねた王に、あらかじめご下問があればと用意していたものだろう。だがそれに近衛騎士がさっと緊張したのをアリステアは目の端に見ていた。
「は、はい。どうぞ召し上がってくださいませ」
 上ずった少女からアリステアは食べ物を受け取る。薄く焼き、くるりと巻いてあるらしい。半分に割り、片方を口にする。
「ほう。なんと風味豊かな。薫り高いとはこのことですな。どうぞ陛下もお召し上がりあそばしませ」
 そして一方を差し出した。騎士たちがそっと目を見合わせる。そこには感動があるとアリステアの騎士グレンは思う。近衛騎士たちは見た、スクレイド公爵が進んで王の毒見を買って出たのを。それでいて農家の者たちによけいな気遣いをさせまいと笑って見せたのを。それもこれもリーンハルトのために。
「あぁ、素晴らしいな。従弟殿の言う通りだ。正に薫り高い」
 微笑んだ王に農家は一遍で面目が立ったことだろう。赤い顔をなお赤くしていた。少女も兄の傍らで誇らしげ。
「一緒に巻いてあるのはハムかな?」
「そのようにございますな。――以前、行軍中に兵士が麦の粉でこれと似たようなものを作り、食べているのを少し分けてもらったことがありますが」
「なんと従弟殿。兵の食を取ったのか」
「これは陛下の仰せとも思われませぬ。私の干し肉と交換でしたとも!」
 からりと笑う公爵に近衛騎士たちが眩しげ。公爵は本当にそのようなことをしそうだ、と感じたらしい。グレンは事実、と知っていた。
「兵が作っていたものは中にチーズを巻きまして。あれはあれでよいものでした。……そうですな、麦の粉で作ったものは何にでもよく合うことでしょう。ですが黒麦の豊かな香りには敵わない」
「この独特の芳香は病みつきになりそうだな、従弟殿」
「酒にも合いましょうな」
 いささか無礼なほど屈託なく笑うスクレイド公に王もまた笑みを返す。農家の人々はそんな彼らを多少は緊張のほぐれた目で見つめていた。
「城に持って帰りたいと思う。種と……粉に挽いたものがあればわけてもらえるかな」
 主人が目をぱちくりとさせた。息子に肩を叩かれて、正気に返る。物も言わずに飛んで行ったかと思えば、慌てて息子もついて行った。おろおろとする少女が一人。気にせずともよい、と言えば気にすることだろうから二人は他愛ない話に興ずる。ほどなく親子が戻った。それぞれに一抱えはある麻の袋を抱えていた。
「息子めが持ちますものが種にございます。わ、私が、選り抜きました、逸品にて! こちらが、その、すぐに召し上がれるものに、ございます。ただ、その」
 ぐっと唇を噛んだ主人にリーンハルトは鷹揚に続けるよう促しただけ。それに意を強くし、主人が目を上げる。
「黒麦は、挽いてすぐに香りが飛びはじめまする。どうぞお召し上がり直前にお召し上がりの分だけ、挽いてくださいまし」
 なんと面倒な、そう顔を顰められても致し方ない、と主人は思っていた。だが王は。主人は目を瞬く。穏やかな笑みを浮かべる王がそこに。
「なるほど。よくわかった。料理長にしかと申しつけよう」
 では、と言って騎士たちが麻袋を受け取る。それに感激している農家の人々。けれどリーンハルトはそこで終わらせなかった。騎士の一人が革袋を手に進み出た。
「これは陛下からの褒賞である。今後ともによく励むように」
 慌てて受け取ってしまえば、重たい。その拍子に中の物が動いたのだろう、がらりとした音。確かめるまでもない、革袋一杯の金貨だった。
「な、なんと。もったいない……ありがたき幸せ……!」
 身を震わせんばかりに革袋を押し頂く主人と、その傍らで頭を下げ続ける息子。胸の前、手を組んで真っ赤な娘。リーンハルトには目に嬉しい景色だった。
 一行は農家の人々に送られ、去って行く。いつまでも娘が手を振っていたのが印象的だった。振り返ったリーンハルトが手を上げてやれば、歓声が上がる。
「よいものだな」
 たとえ王都とはいえ、こうして第二郭門まで出てくることの少ないリーンハルトだった。まして庶民と接するなど。
「正に。景色も素晴らしい。ここまででしたら馬車ですぐにございます、次はどうぞ妃殿下とお出ましくださいませ。野遊び、とはまいらぬまでも楽しゅうございましょう」
 アリステアは顔には出さず驚く。リーンハルトがただうなずく、とは思ってはいなかった。が、わずかとはいえ顔を顰めるとは更に思ってもいなかった。王妃、ただそれだけに。




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