香草を添えた手紙が届いて十日目から、リーンハルトはいまかいまかと待っていた。執務机の上の香草は、いまも薫り高い。
「それでも」
 なんだと言うのだろう。ふと呟いてしまった言葉に苦笑する。侍従や女官がたまには机の前を離れてくださいませ、と言ってきていた。リーンハルトもそこまで多忙でもない、いまは。夜半まで執務することはないはずなのだが。
「手持無沙汰で執務に励む、とはな」
 このようなことはかつてあっただろうか。内心で首をかしげてしまう。ただ、思うところはある。テレーザはまた白鳥亭で起居していた。いったい何がどう不満なのか聞かせてほしいものだと思う。否、聞いても無駄なのだとも思う。
「言葉が――」
 もう通じない。何人もの子を儲け、互いに敬意を持って過ごしてきた年月が、何かを切っ掛けに崩壊していた。テレーザ一人の咎、とはリーンハルトは思わない。だが理由もわからないままの振る舞いには同意しかねる。
「理由がわからない私の咎、か……」
 庶民の夫婦ならばこんなときにどうするのだろう。平民と接したことなどほとんどない彼には想像もできない。アリステアならば知っているかと思う。同時にまた眼差しは香草に。咲いていた花はもう散ってしまった。
「可愛らしい花だったのに」
 咲いているうちに戻るか、と期待していた。叶わないだろうと察してはいたけれど。溜息を一つ、再び今しなくともよい執務に戻ろうとするリーンハルトに知らせ。
「従兄上、ただいま戻りました」
 スクレイド公爵登城の知らせにリーンハルトはそれでも執務机の前に座っていた。そわそわとする己に羞恥を覚えたせい。屈託なく入室してきたアリステアにじろりと視線を向ける。遅い、と言おうと思っていた。それに彼が返すだろう言葉まで、見当がついていた。けれどリーンハルトは絶句する。
「なんと、従弟殿……!」
 服の中で肩が泳いでいるのではないだろうか。それほどの酷い窶れよう。いったい何をどうしたらこのような有様に成り果てるのか。
「従兄上にはご機嫌――」
「よいからこちらに。まず座れ、従弟殿!」
「そう慌てずとも」
 苦笑するアリステアの手を取らんばかりにしてリーンハルトは長椅子に座らせる。飛ぶように駆けつけた王の姿にアリステアは目を細めていた。帰ってきた、つくづくとそう感じる。
「これが慌てずにいられるものか。何があった、従弟殿。こんなに」
 頬の削げ切った線。乾いて半ば罅割れた唇。それでも灰色の目の輝きだけは常と変わらず。隣に腰を下ろせば、自分の重みでアリステアの体がかしぐのではないかとまでリーンハルトは疑う。
「ご案じ召されますな。私ならばどうと言うこともございませぬよ、従兄上」
「そう見えるのならば案じなどせぬわ」
「そう仰らず。儀式の際には絶食ですからな。少々窶れましたが、それだけのことですよ」
 リーンハルトは言葉を失う。アリステアの留守は十六日にも及んだ、その間彼は。リーンハルトの目にアリステアは微笑んで首を振る、絶食は十二日だったと。
「斎戒に三日、儀式が終わって一晩休みました。ですから絶食は十二日だけです」
「だけ、ではないわ!」
「神官ですから」
 くすりとアリステアが笑った。その笑顔が透き通ってでもいるようでリーンハルトは気が気ではない。屈強な男が儚く見えるなど、不吉が過ぎる。
「なにか、食べた方がよいな。侍従にでも――」
「お気づかいなく」
「だが」
「絶食後に食べるのはよくないのですよ。神殿で薬酒をいただきましたし、薄い粥も口にしました」
 だから大丈夫だ、アリステアはなんでもないことのように笑う。神官とは、これほど激しい儀式をするものだとリーンハルトは思ってこなかった。ましてマルサドの神官とあれば、想像を絶する儀式であるのは当然なのかもしれない。
「三日ほどかけて、通常の食に戻します。神官は絶食後の食事の取り方をきちんと学ぶものなんですよ」
「そのようなこととは、知らなんだ」
 ぽつん、とこぼされた声音。王として、どれほど自分はこの世の有様を知らないのだろう。そう考え込むリーンハルトの声。
 だからこそ、リーンハルトは王に相応しいのだとアリステアは思う。幼少期から、このような考え方をする彼だった。自分とは違う、アリステアはそれを知っている。アリステアも当時は王子として、いまは公爵として、家中の者たちは気にかけている。領民も慈しんでいる。けれど、そこまでだ。ラクルーサ全土の民の安寧など、とても想像できない。ゆえに、リーンハルトこそが王なのだと。
「従兄上こそ、ご壮健であられましたか」
「機嫌は悪かったぞ?」
「そう仰せにならず」
「王妃は変わらず白鳥亭だ。いまの従弟殿に聞かせるのは酷かと思うが、公爵夫人が側におるわ」
「すでに家の者から報告を受けておりますよ。妃殿下に張り付く蛭めをなんとかできればよいのですが。いっそ不貞の事実でもでっち上げますか」
「自らの品位を落とすような真似をするでない」
 眉を顰めるリーンハルトが止めてくれるからこそ、思い切ったことが言える。本当は、不貞の捏造でもしてエレクトラを処断してしまいたい。それならばスクレイド公爵として、家中の者を罰しただけで済む。別邸にでも軟禁閉門、それで片付くのならばやってしまいたい。
「すでに公爵夫人がどうの、と言う段階を越えておる。公爵夫人が何を吹き込もうが、判断をしたのは王妃だ」
 いささか冷たくも響くリーンハルトの声にアリステアは目を瞬く。ここまで来てしまったのかと、背筋に冷たいものを感じた。
「……いまはただ、冷ややかでもよい、落ち着いてくれればそれでよい。そう思っているよ、従弟殿」
 そっと吐き出された息は長く深い。リーンハルトの悩みのように。アリステアは無言で頭を下げるだけ。エレクトラがかかわっている以上、我が罪でもあるとばかりに。
「従弟殿のせいではないぞ?」
「ですが従兄上」
「我々も夫婦である以上、双方に咎があるのだろうとは思うが」
 先ほど考えていたことをリーンハルトは呟くようアリステアに語る。理由がわからない己に咎があるのかもしれないと語る彼の響きにアリステアは、儀式に入る前グレンに言われた言葉が蘇る。
 ――まさか、な。
 王妃が国王の傍らからその楯にして剣である公爵を引き剥がしたい理由が、アリステアにもわからない。アリステアがリーンハルトの剣であるのは彼が王冠を得た日から当然のこと。母が玉座への足掛かりにと奪い取ってきた公爵位。だがアリステアにとってはスクレイド公爵位を拝受した日から藩屏たるは当然のこと。王妃はそれをずっと見てきたはずだった。だというのに、いったいなにが王妃の癇に障ってしまったものか。
「従兄上――」
 王妃がリーンハルトを独り占めしたい様子が窺える、など口が裂けても言えない、とアリステアは思う。それは王妃に対する侮辱だとすら思う。
「どうした?」
 ふっと微笑むリーンハルトの眼差しに、アリステアはつられたよう微笑んで、やはり言えないと思った。
「従兄上のお顔を見たらなんだか眠たくなってまいりました。安心したのでしょう」
「あぁ……引き留めて悪かった。さぞ疲れていることだろうに」
「とんでもない。申し訳ありませんが、神殿に――」
「それは許さんよ、従弟殿。眠いのならば私の寝台を使え。すぐそこだぞ」
「従兄上! 何を仰せになるのか!」
「その有様で神殿に戻るなど、危険にもほどがあろう。自室に戻るか? 用意も整っていないだろうに。何より私の寝室は隣だぞ。来い、従弟殿」
「お待ちください、従兄上、そんな……外聞の悪い……!」
「聞こえんな」
 手を引かれ、立ち上がってしまったアリステアは苦笑する。ここぞと言うときに勝てたためしのない従兄。ふと執務机の上に視線が留まる。
「おや……活けてくださっていたのですね」
 一輪挿しに活けられた一枝の香草。ふい、とリーンハルトが顔をそむける。不思議と羞恥を覚えたらしい。そんな彼に笑みを浮かべ、アリステアは一輪挿しを手に。
「あぁ、やはり」
「どうした?」
「ご覧あそばせ。根が出ていますよ、従兄上」
「なんと」
 毎日こまめに水を変えてくれた女官のおかげだろうか。アリステアが贈った香草からは可愛らしい根が出ていた。
「誰か。誰かいないか」
 アリステアの声に女官が入ってくる。既知の女官で、アリステアの様子に目を瞬いたけれど、彼女は問わずに一礼した。
「根が出ているようだ。庭師に頼んで、鉢に植えられないものか聞いてみてくれないか」
「よろしゅうございます。お預かりいたしましょう」
「頼むよ。根付いたら従兄上に」
「それはいい。窓辺に飾れば執務室も明るくなろうというものだ」
 にこりと笑った王に女官は目頭が熱くなるのを覚える。スクレイド公不在の間、ずっと顔色の優れない王だった。笑みを目のあたりにするなど、本当に久しぶりだった。
「ところで従弟殿。誤魔化してはいないかな?」
 女官が出て行ってからリーンハルトは目を細めて笑う。子供のころからこんな顔をされた後には決まって怒られていた。アリステアは思わず天を仰ぐ。
「参れ。よいな?」
 幼子のよう手を引かれたくなければ己で歩け、とまで言われてしまってはアリステアにも否やはない。溜息まじりなのは王に対する甘えだった。それにリーンハルトがからりと笑う。
「ですが、従兄上……」
 廊下に出ればアリステアの騎士グレンが驚いたのだろう、目を丸くしている。慌てて一礼する彼にリーンハルトも軽くうなずき返した。
「まだ言うか? 王命だ、従っていただくよ、従弟殿」
 グレンは何事だ、と顔色を変える。それにアリステアは無言で首を振った。説明など断じてしたくない。
「騎士グレン。公爵殿が勝手に出てまいるようなことがあればお止めするように。従弟殿には眠りが足らない」
 説明するまでもなかったか。アリステアは小さな溜息を。王の言葉にグレンが笑いを噛み殺しながら頭を下げる。満足そうに微笑んだリーンハルトの手によってアリステアは王の寝室に連れられて行った。




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