祈りの声が響いていた。
 神殿の最も奥まった一室。がらんとなにもない部屋だった。神託の儀が行われたのは、主祭壇の前ですらなく、そんなあまりにも殺風景な部屋。
 三日の斎戒を終え、アリステアは祈り続ける。ごくわずかな水と塩の粒、それだけが口にできるすべて。神官たちが描く輪の中央、一人の若い神官が座す。その腕には宝剣を携えて。宝剣でありながら、素晴らしい業物だった。マルサド神の象徴として相応しい剣を抱くその神官が神よりの言葉を受ける。
 その神官は、一切を知らされていない。アリステアの請願を知らず、彼もまた祈りを続ける。ゆえに、神託は正しいものとなる。
 アリステアの唇は罅割れていた。すでに儀式をはじめて十二日。はじめに輪を描いていた神官は八人にまで減った。耐え切れず、脱落して行った彼らの祈りこそ届け、アリステアはまた祈り続ける。
 絶えることのない声だった。低く響く祈りの声はまるで戦場のどよめき。低すぎるがゆえに、祈りの言葉さえ定かではない。目の前が霞み、視界が歪む。また一人、神官が倒れる。儀式に参加していない神官が進み出ては倒れた神官を介助しつつ下がらせた。
 司教もまたその輪に加わっている。アリステアの請願を知るからこそ彼は神託を受ける中央にはいない。それでも彼の祈りを助けたかった。マルサド神に適う働きをアリステアはしていると信じるがため。介助の神官が差し出す濡れた布を吸う。口の中が潤い、けれどすぐさま乾く。肉体の奥底まで絞り尽され、神官たちはもう限界が近い。このまま祈りは聞き遂げられることはないか、けれど神官たちは誰一人として疑わない。
 マルサド神は神官に声を賜ることの稀な神。ならばこそ、こうして本心からの祈りには応えてくれる神でもあった。必ず届く。お声を賜る。神官たちの祈りにまた熱が入る。
 つい、と中央の神官が立ち上がった。
「――来る御前試合にて我が意は示されるだろう」
 ただそれのみを。そして神官は人形のよう倒れ伏す。危ういところで介助者が進み出ては受け止めた。誰からともなく吐かれた深い息。胸の中のすべてを吐きだそうとでもするように。
「神託は下された。筆記者よ、正しく記すように」
 司教が立ち上がり、神官に命ずる。その足元がふらつく。当然だった。司教ほどの年齢にもなれば神託の儀はどれほどつらかったことか。アリステアは請願者として深く頭を垂れていた。
「続いて感謝の祈りに移る。アリステア神官」
「は」
「あとの者は下がってよろしい。ご苦労だった」
 人事不省の神官を抱きかかえ、まだ自らの足で歩けるものが去って行く。アリステアは彼らに向かって礼を続けた。その傍らを通るとき、神官たちは窶れた頬ながら笑みを向け、あるいは肩を叩いて行く。そこにいるのはスクレイド公爵ではなく、神官アリステア。
「よろしいか?」
 司教様こそ。言いかけたアリステアは無言で一礼する。そのように案じるは無礼だと感じた。肉体を痛めつけられ、それでも司教は神託が下された喜びに頬を紅潮させている。
 感謝の祈りは二人で捧げた。司教の、もう掠れた声の豊かさ。アリステアはいつかこのような篤い信仰を捧げたいものだと思う。だが、ふと思う。己にはマルサド神にすべてを捧げることはできないと。それをしてはリーンハルトに捧げる場所がなくなってしまう。
「……我が神は、それすらもご存じだ」
 思わず呟いた言葉に司教が微笑む。そのとおり、とでも言うように。事実、司教は察していた。アリステアがこれ以上の位階を上げることはないだろうと。神官として、素晴らしい素質を持った男だった。できることならばいずれその座を譲り渡したいと願うほど。けれど彼には王がいる。大切な従兄のためにならば彼は肉体も魂も捧げるだろう。それでは神殿は預けられない。しかしマルサド神はそれを嘉したもう。神託が下された事実がそれを証し立てていた。
「御前試合、ですか……」
 ふむ、と感謝の祈りを終えたその場で司教は唸る。アリステアも同感だった。神の意志など人の身に理解が及ぶはずはなかったが、何が起こるのか見当もつかない。
「今年もいつもどおりに行われるのですかな?」
「変更があった、とは聞いていませんね」
「では、あなたはどうされます」
「司教様のお許しがあれば、例年どおり神官戦士として。もっとも、私がマルサド神殿の代表と選ばれれば、ですが」
「選ばれるでしょう、それは」
 小さく司教が笑う。この神殿において三本の指に数えられる神官戦士がいる。その筆頭だった、彼は。その座を長く守り続けている男でもある。
「今年こそは公爵として、と言われてはいませんか」
「毎年言われていますよ。ですから、ご無礼ながら神官戦士として出場し続けております」
「かまいませんよ。不都合があれば叱責を受けるのはあなたです」
 神が許しているのならば人の身でどうこうは言わない、司教は笑う。つられて笑い、アリステアは心に軽みを覚えた。支えてくれている数多の人々。司教もまたその一人。深く一礼するアリステアに司教は朗らかに笑った。
 連れ立って、儀式の間を去る。去りがてに、もうなにもない部屋の中に一礼するのは二人揃って。互いに顔を見合わせ、笑みをかわす。神への尊崇の篤さを競うわけではなく、互いに相手を誇る。
 さすがのアリステアといえども、肉体が疲れ切っていた。泥のようだ、と俗に言うけれどそのようなものではないと感じる。三日の斎戒に続いて十二日間の祈りと絶食。続く一日をアリステアは眠ってすごした。それすらもが実は驚異的なこと。儀式に参加した神官の中にはいまもまだ眠っているものが多い。
 アリステアはただ不安だっただけだ。王宮を留守にしていた間、どれほどリーンハルトが苛立ちを抱えたことかと思えば。
「従兄上――」
 問題は、自分の不在ではない。宮殿に暮らしている身ではないアリステアだ。領地と神殿を行き来している彼とあれば、リーンハルトがそれを不安に思うはずもない。
「お館様、ご無事で」
 起き出せば、グレンが顔色を変えていた。よほど何かがあったかと問うところ。長時間に及んだ儀式を案じていただけと気づく。
「あぁ、無事に済んだ。我が神に感謝を」
 言えばグレンも頭を下げる。彼もまたマルサドの信徒だった。ただの信徒であるグレンには、儀式の内容などわかり得ない。なにが行われたのかも。ただ、主人の窶れようだけは見れば嫌でもわかる。
「なにか、召し上がりものを」
「必要ない。というより、いまは口に入らんよ」
「ですが」
「これがある。心配するな」
 ひょい、と持っていた小瓶を指し示す。それにグレンがほっと息をついた。絶食後に食べ物など腹に入れるわけにはいかない。アリステアが持っていたのは酒精を抜いたマルサド神殿の薬酒だった。普段ならば酒として口にするけれど、いまは酒精が毒になる。
「もうしばらくしたら、粥を」
「は、では――」
「いや、グレン。すまないが風呂まで付き合え。報告が聞きたい」
「浴室、ですか?」
「見て困るようなものでも見られて恥ずかしいようなものでもあるまいよ」
 からりと笑う主人にグレンは安堵する。窶れようほど、酷くはないらしいと。本当は、酷い体調ではあった。それをグレンに見せても心配するだけ、とアリステアは知っている。
 設けられた浴室は、軍神の神殿とあって簡素なもの。男一人が身を沈めれば、それだけで一杯になってしまう浴槽が一つ。ただそれだけだ。グレンはその横に佇み、アリステア不在の間の報告を述べて行く。裸になった主人の窶れに眉を顰めつつ。
「そんな顔をするな。それで?」
「ご無礼を。――お館様が事前に予想なさっていたとおり、陛下にお館様反逆を言い立てるものが複数名おりました」
 詳細は書面に、とグレンは言う。アリステアはうなずきつつ、リーンハルトを思う。あの従兄は貴族を一々論破して行ったのだろうと。
「他に……公爵夫人がお城に滞在を続けられておいでです」
「ほう?」
「一時は白鳥亭から宮殿にお戻りになった妃殿下ですが、再び白鳥亭に。その際、エレクトラ様をお見かけした、と申すものがありまして調査したところ、白鳥亭ご滞在のご様子」
「……公爵夫人が、な」
 アリステアは熱い湯に身を沈めたまま唇を引き結ぶ。あの女が王妃と親しいなど、あり得ない。形の上で親しくなろうとすることさえも考えにくかったものを。
「どんな心境の変化だ……?」
「妃殿下はいたくエレクトラ様をお気に召された様子、とのことです」
 二人で散策している姿を侍女たちが何度も見かけた、と聞く、そうグレンは言った。彼のことだ、直接に侍女から聞き出したのだろう。ちらりと見やればそのとおり、とうなずく。
「どんなご様子だった?」
「このところ沈みがちであられた妃殿下が、エレクトラ様がおいでの時には笑みを見せられるとのことです」
「それは――」
 不穏だ、エレクトラの夫であるアリステアは感じる。何を考えているのか。いずれ、間違いなくリーンハルトのためにならないことを考えているだろう。
「わかった。後ほど登城する。供をせよ」
 一瞬グレンは反対しそうになった。いまの疲労ぶりを見ては。けれど王をこの上なく思い敬う主の姿に、言えなくなった。

 白鳥亭の湖を臨む露台に、二人の貴婦人の姿があった。王妃テレーザとスクレイド公爵夫人エレクトラの姿が。
「お可哀想な王妃様。こんなにも陛下を大切に思っていらっしゃるのに」
「……あなたも」
「夫はわたくしのことなど、見えてもおりませぬもの。何につけても陛下のことばかり」
「あなたを誤解していた日々が懐かしい……。あのころは陛下の御目はわたくしを見てくださった」
 遠い場所を眺めつつテレーザは独語する。スクレイド公夫妻に反逆の意志あり、と言うものは数多いた。それを信じ、エレクトラを遠ざけていた日。それはリーンハルトとあった日々。
「こんなにもお美しくてお優しい王妃様がいらっしゃるのに。本当にお可哀想。きっと夫はわたくしに顔など見せてもくださらない。神殿から戻れば一目散に陛下の下に飛んでまいるのですもの」
 愁いを帯びた眼差しで湖を見つめる王妃の傍ら、エレクトラは囁き続ける。ほどなくスクレイド公爵登城の知らせが届いた。




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