アリステアからは「神託の儀には最短でも十日はかかる」と知らせてきた。それに小さくリーンハルトは溜息をつく。その拍子、指先が触れたものから清らかな香が匂い立つ。
「可愛らしいことをする……」
 そっと微笑んでそれを見つめた。アリステアは手紙に香草を一枝ばかり添えてきた。木性の香草で、活けておけばアリステアが戻るまで充分に香っていることだろう。それが慰めになると彼は知って添えてきた、そんな気がする。
「そこまで考えてはいないかな、従弟殿?」
 マルサド神殿で育てている香草だろう。薬草でもあるこの草は香りがよいだけではない。いまは小さな薄紫の花が二つばかり咲いていた。
 リーンハルトはそれを執務机の上に飾り、日々眺めている。時折触れれば清々しい香り。胸の中がすっとする香りだった。
「あまり触れてはいかんな」
 呟きつつリーンハルトは苦笑する。触れすぎてアリステアが戻るより先に枯らしてしまっては情けない。そう思いながらもついつい触れてしまう己を思う。
 いまもまた、執務室に戻りながらそんなことを考えていた。高官の下、各種の器具を改良している職人から新しい農具ができたのでお目にかけたい、と言ってきたのを見た帰りだった。たとえ魔物が出没しようとも、シャルマークがどうなっているのか見当もつかなかろうとも、日々の生活はある。民のその生活を守る者を王と呼ぶのだ、とリーンハルトは思う。
 さて褒賞はいかがしようか、そんなことを考えていた。素晴らしい出来で、このぶんならば硬い土も易々と耕せそうだ。民の苦労が減るのはよいこと、と彼は思う。リーンハルト自身は当然にして土を耕した経験などない。が、城の庭で戯れに土を掘ったことならばいくらでもある。
「あれは、難しいものだった――」
 庭園の、すでに充分に耕され、たっぷりと肥料を与えられた土からして大変だと思ったものを。民たちの労苦を思う。職人たちには充分な褒賞を与えてしかるべきだった。
「お帰りなさいませ、陛下」
 執務室に戻った途端、リーンハルトは内心で顔を顰めることになる。アリステアが退出して以来、王妃の機嫌がいい。そこまであからさまにされるとさすがに不快を覚えざるを得なかった。
 王妃は和解の合図なのかどうか、白鳥亭から宮殿にも戻っている。とはいえ、日がな一日顔を合わせているわけではない上に、寝室はそうあるべくして別だ。いまとなってはリーンハルトにも隔意がある。王妃の下を訪れる気には中々なれない。
「ご機嫌よう、王妃」
 言いつつ今度は顔に出てしまった。思わず眉根を寄せる。執務机の上に飾っていたはずの香草がない。否、花瓶はある。だがしかし。
 花々が美しく活けられた花瓶だった。庭園から王妃が手ずから摘んできた、と侍女の一人がそっと王に告げる。リーンハルトは聞こえた、とうなずきつつ一本の枝を引き抜く。
「一輪挿しを」
 王妃の侍女にではなく、その場にいた侍従に申しつければ、顔色を変えて出て行った。王妃自らが王のために、と活けた花ならば侍従に反対などできない。それは理解しているリーンハルトだった。不快さは薄れなくとも。
「これでよろしゅうございましょうか」
 にこりと微笑んだ女官が現れ、リーンハルトは内心で苦笑する。侍従は逃げたらしい。咎めるつもりなどなかったのだが。
「充分だ。活けておいてもらえるか」
「かしこまりました。お机の上に?」
「そうしてくれ」
 綺麗に一礼した女官にリーンハルトは心の中でうなずく。彼女たち女官は王に仕える者。王妃の命であろうとも王の意志が優先する。それを態度で見事に表した。
「なにゆえに、そこまで……」
 きりりと手巾を握りしめた王妃をリーンハルトは振り返る。彼女には侮辱だっただろう。それは理解するが、触れてほしくないものもある。
「従弟殿の心尽くしだ。王妃にはそれがわからぬか」
「そうして従弟殿従弟殿と」
「あなたはどうしてわかってくださらない。私にとって従弟殿ほど大切な者はいないというのに」
 風聞などに惑わされスクレイド公に隔意を持つなど、王妃らしくない。リーンハルトは珍しくはっきりと言う。それには顔をそむけた王妃だった。
「……スクレイド公からの枝とは、限りませぬではありませんか」
「なにがだ」
「お好みなのだと思い、同じ種類の香草を活けました。陛下はそれにお気づきではない……」
「気づいてはいる」
「では、なにゆえに!」
 つぐんだ唇の青さ。リーンハルトは王妃を片目で見ていた。ここまでアリステアを悪者にされると、少々ではなく腹立たしい。
「ごらん、王妃。従弟殿の贈ってくれた枝は薄紫の花が咲く。宮殿のは青だ」
 種を明かせばそれだけのこと。毎日愛でてきたリーンハルトだからこそ、気づく。あるいは、草花を愛でる心があれば。王妃にその心はなかった様子、固く唇を噛んでいた。
「陛下はそうしていつもスクレイド公のことを。わたくしの――」
「王妃。いくらそなたであろうとも従弟殿への中傷は許さん」
 鋭いリーンハルトの眼差し。侍女たちが息を飲む音。王妃は黙ってくるりと背を向け執務室を出て行った。
 リーンハルトは溜息をつき、執務机に用意された書類に目を通す。このあと貴族との面談が控えている。
「いかがでございましょう、陛下」
 見計らったのか、女官が時間を置いてからやってくる。一輪挿しに水を入れる程度のこと、そう時がかかるとは思えずリーンハルトは苦笑する。
「あぁ、よいな。――いい香りだ」
 活けられて、動かされたせいだろう。香草は触れてもいないのによく香っていた。王妃との諍いにくすんでいた気持ちがすっきりとする。
「ほんに、素晴らしい香りですこと。胸の中が晴れ晴れといたします」
 微笑んだ女官にリーンハルトも笑みを返す。確か彼女はアリステアに好意的だった。それだけで女官の評価まで上げてしまいそうなほど、いまは気分がささくれている。
「陛下、謁見の準備が整いましてございます」
 恐る恐ると先ほどの侍従がやってきた。リーンハルトはもう一度書類に視線を落とし、間違いのないことを確認しては立ち上がる。
「――花のことは気にせずともよい」
 深く礼をして見送る女官を背後に、リーンハルトは侍従の背に向けて言う。案内に立っていた侍従は足を止め、わざわざ振り向いては頭を下げた。
「そなたに異を唱えることはできまいよ。気にせずともよい」
「――ありがとう存じます」
「さて、行こうか?」
 かすかな笑みは優しく、けれど厳しい。侍従はそこに王の姿を見る。再び一礼し、背筋を伸ばして案内を再開した。
 謁見、と言うほど格式ばったものではなかった。リーンハルトとしてはただの面談、と言いたい。場所こそ小謁見室だったけれど。すでに貴族たちは待っていた。北部に領地を持つ伯爵が一人、その一門の子爵が二人。王の入室に揃って頭を下げた。
「座るがいい」
 謁見ではなく面談、とリーンハルトが言う理由はここにある。椅子と机がその部屋には用意されていた。王の面前に書類を広げて説明をすることも多々あるせいだ。一同が座につき、伯爵が威儀を正してリーンハルトを寿ぐ。そこまでが儀礼的なやり取りで、リーンハルトは実のところ聞いてもいない。
「謁見をお認めくださいましてかたじけのう存じます。先ごろ、あり得ぬ話を耳に致しまして、こればかりはなんとしても陛下にお知らせいたさねばならぬ、と」
 伯爵が子爵の一人に視線を移す。リーンハルトはすでに書類を読んでいるのだから改めて説明されるまでもないのだが。
「恐れながら陛下にはご存じないことかと。ハイドリンの兵どもに、スクレイド公爵閣下が一時金を下したとか」
「そのせいか、兵どもの公爵閣下に対する人気はすさまじく。間違いなく平民どもを手懐けて反旗を翻す、その前段階に違いありませぬ」
「なにしろ公爵閣下は神官戦士でもいらっしゃいます。民はその公爵のお姿に軍神を重ねているとか」
 子爵たちの言葉を伯爵が締めた。リーンハルトは書き記されたものより、こうして言葉で語られる方がずっと不快だ、と感じる。
「汝らは、一時金を公爵が下した、と言うが」
「間違いござませぬ。前線ではそれはそれは――」
 リーンハルトの眼差しが子爵を射抜く。見つめられてはいなかった伯爵まで息を飲んだ。
「風聞などに惑わされおって」
 吐き出すような王の口調を聞いたものは多くない。平素は毅然としつつも声を高めることすら少ない穏やかな国王だった。
「あれは従弟殿が兵たちに使ってほしいと、私に、差し出してきたもの」
「な――」
「私が従弟殿の名で下賜したものだ」
 すう、と三人が青くなっていく。不確実な言を、まして讒言を殊の外に嫌う王と彼らとて知ってはいた。
「侍従の一人にでも聞けば済んだことを。汝らはそれほど従弟殿が憎いか。それほど従弟殿を反逆者に仕立て上げたいのか!」
「へ、陛下――」
「兵ども、と言ったな? 我が宮廷に民を軽んずるものは要らぬ。彼らがハイドリンで魔物を食い止めてくれているからこそ、汝らは安楽に暮らしているというのを忘れるな。その労苦に報いたことが一度でもあるのか」
 ないだろう、とリーンハルトは彼らを見据える。アリステアは何度となくそうしていた。直接に自分が行えばいらぬ風聞を呼ぶから、と言ってリーンハルトの下に彼らのために、と金を届けてきたのはこれがはじめてではない。
「前線に出たことはあるのか。兵を慰めたことがあるのか。それもせず、調べればわかることを言い立てて我が時間を削るか」
 冷や汗が流れていた、三人ともに。ハイドリンの兵たちの間でスクレイド公の人気が高まっているのは事実だ、そう王に言いたい。だが。
「そもそも、汝らは神官戦士をなんと心得る。マルサド神の寵愛深き神官戦士はマルサド神の定めるところに従って正しき戦いの中にのみその身を置く」
 だからこそ、民を守るためにハイドリンに出陣したアリステア。いまは神殿で神託の儀を行っている。それが民のため、延いてはリーンハルトのためになると信じ。
「仮に従弟殿が私に弓引くならばそれは私が間違っている、ということだ。だからこそ神の命を受けし神官戦士である。ゆえに、私が間違わない限り断じて従弟殿の反逆などあり得ぬ」
 王は明言したも同然だった、スクレイド公爵反逆を言い立てるのならば、それは王の治世に不備があると言うも同じなのだと。
 首筋に冷たいものを感じた。貴族たちは王が不快もあらわに出て行くのを頭を下げて見送るしかない。机の上、ぽたりと汗が落ちた。




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