だいぶ良からぬことになってきた。そろそろ退出の頃合か、とアリステアは悩む。ハイドリンより凱旋して後、レクランのこともあって城に滞在し続けている彼だった。「スクレイド公爵がお側にあられますと天機麗しゅうあそばしまして」と女官や侍従たちは安堵している。だがそのぶん、貴族たちは「王宮を乗っ取る策略だ」と言いはじめている。
 問題は、リーンハルトだった。何を言われようともリーンハルト一人が信じてくれるならばアリステアはそれでいい。彼はいかなる風聞にも耳を貸さないでアリステアを信頼してくれている。
 だが、王妃の件があって以来、リーンハルトもまた悩んでいる。王妃のスクレイド公に対する不信にリーンハルトは神経をすり減らし続けていた。
「従弟殿とあるときだけだ、心が休まるのは」
 そんなことまで漏らすようになっている。その彼を置いて退出できるのか、アリステアの悩みはそれだった。
「だが――」
 このままではリーンハルトによけいな悩み事まで加えかねない。事あるごとに貴族たちはスクレイド公反逆を言い立てるだろう。論破し、言い諭し、それを繰り返していては王の神経が持たない。
「従兄上、少しよろしいですか」
 侍従を通し、謁見を申し入れる。日中のアリステアはその手順を惜しんだことは一度もない。貴族の中には王の寵愛の深さを競うよう、直接王の面談を得ようとするものもいるというのに。
「どうした、従弟殿?」
 疲れた顔をしている。アリステアは一瞬ひるんだ。リーンハルトを一人にしていいのか。まだ迷っている。だがあえて微笑んで見せた。
「従弟殿。隠し事がある、と顔に書いてあるぞ」
「おや?」
「そなたは子供のころから変わっていない。隠し事をしているときには眉が上がる」
「存じませんでした。さすが従兄上」
 世辞は結構。そっけなく言うリーンハルトにアリステアは再度微笑む。それにはリーンハルトも笑みを浮かべた。
「しばらくお側を辞したいと思いまして」
 ためらいの後、アリステアは口にする。途端にリーンハルトの眉こそ跳ね上がった。
「従弟殿らしくもない。私が風聞に耳を貸すとでも思うのか」
「思いませんよ、従兄上」
「ならばなぜだ!」
 声を高めることのない人だった、平素ならば。それだけリーンハルトが疲労している、その証しのようでアリステアはやりきれない思いを抱えた。
「神殿のご用なんですよ、それだけです」
「……ほう?」
「本当ですよ。司教様より儀式に参加するよう申し付けられまして」
「従弟殿をか? わざわざ神官戦士の参加を求める儀式とはなんだ?」
 むつりと口をつぐんだリーンハルトだった。マルサド神に帰依しているわけではない、彼は。ただ国王として、主な神々の教義は理解している。神官戦士が参加せざるを得ない儀式とはなんだ、そう問い詰めるのも当然だった。
「神託の儀です」
 アリステアはただそれだけを口にする。言葉を重ねればいらぬことまで明かさなければならなくなる。それを察したのだろう、リーンハルトの眼差しが険しい。
「なんの神託を求めるのかを問うのは無駄だな?」
「申し訳ない、従兄上」
「……信仰の部分は、致し方ない」
 それでも納得はしかねる、そんなリーンハルトだった。眼差しを落としたまま、彼は呟くようそう口にしたのだから。
「内容は、申せません。ですが、従兄上の不利になるようなことだけはない、それだけはお約束いたします」
「すでに約束は破られたぞ、従弟殿」
「従兄上?」
「そなたが留守にする。それだけで充分な不利を被っているぞ、私は」
「そんなことをおっしゃって!」
 からりと笑い飛ばすアリステアをリーンハルトはかすかに笑って見上げた。神殿のご用ならば、仕方ない。それでも、そうであっても。いまアリステアに離れられるのは耐えがたい。そっと吐き出した息は長かった。
「どれほどになる?」
「神殿に戻ってみませんと、私にもなんとも。わかりましたらすぐご連絡いたしますから」
「なるべく早く戻ってこい。よいな?」
「お約束します」
 力強いアリステアの笑み。これにどれほど助けられているか。貴族たちも、あるいは王妃ですらも知らない。きつく握手を交わし、退出して行くアリステアの後ろ姿をリーンハルトは無言で見送っていた。
 アリステアもその視線を感じてはいた。けれど振り返れば退出できなくなる。いまここで自分がわずかといえども離れるのを王は嫌った。アリステアも不安はある。
 貴族たちの風聞の激しさ煩わしさ。確かにリーンハルトはそれに疲弊するだろう。けれど本当に留守にしていいのか。いまだ迷ってもいる。
 本当の問題は、貴族でも風聞でもない。王妃ただ一人。彼女の隔意が、その原因がわからない限り、リーンハルトは苦しみ続けるだろう。
「お館様」
 退出して行くアリステアを待っていたのはグレンだった。レクランにダニールがついているよう、グレンもまたアリステアについている。このところ城から出ていないアリステアだ、グレンもまた城に居続けている。
「なにかあったか?」
 ふと訝しさを覚えた。グレンは平静を保っている様子。が、そう見える、ということは逆説的に何かがあった、ということに違いない。一歩下がって歩くグレンは無言で軽く礼をした。
「こちらに」
 それでは話がしにくい、とアリステアはグレンを呼び寄せる。
「ご無礼を」
 小声で囁くグレンの響きに緊張を聞く。これはよほどのことか、とアリステアは覚悟した。元々グレンは王城にある間、主の名を汚すまいと人一倍礼儀には気を使っている。主人と並んで歩くなど、普段の彼ならば一度は必ず謝絶する。それがこの様子。知らずアリステアは拳を握った。
「――先ほどのことですが。西苑の隅の方で鍛錬をさせていただいておりました」
「近衛に混ざる、というわけにもいかんからな。苦労をかける」
「とんでもない。一人でできる鍛錬、というのもございます。何の苦もございませぬ」
 きっぱりと断言するときだけグレンの目は明るくなった。若き騎士にあるいは自分が試した訓練を教えるつもりかもしれない。
「隅の方でしたから、人の通りもまばらでして。おや、と思ったときにはまだ城に上がってさほどとも思えぬ若き侍女が果物籠を落としておりました」
 それを目にしたグレンは果物を拾い集めるのを手伝った、と言う。そんなところから恋がはじまることもあるのが王城だ。アリステアもそのような話であるのならば心楽しく聞いただろうに、と内心で溜息をつく。
「ですが侍女が不意に私の顔に目を留めまして。陛下を惑わす不埒者の手など借りぬ、と叫んで去りました。――ご無礼を」
「不埒者?」
「はい。私自身が陛下にお目通りするわけでもございません。ならば陛下を惑わす者、というのは私ではなく」
「私、だろうな」
 む、とアリステアは唇を引き締める。若い侍女にまで言われる意味が理解できなかった。いったい風聞はどこにまで広がっていることか。
「いえ、お館様。その侍女ですが、白鳥亭に向かって去りましたので、それとなく女官たちに尋ねてみたところ」
 王妃は白鳥亭に起居している、と聞いた。グレンの言葉をアリステアは遠く聞く。そこまで離れてしまっているのか、呆然としていた。城内でも宮殿から遠く離れた白鳥亭は決して大きな離宮ではない。傍らの泉水を眺めて遊ぶための居室を備えた休息所の趣き。同じ王城内にありながら、しばしの間なりとも旅情を楽しむために作られた離宮であって、断じて起居する場ではない。起居できるような部屋もないはずだ。
「……妃殿下は、長くそちらにおいで、とのことです」
「そう、か――」
 アリステアはそれ以上を口にできなかった。スクレイド公爵夫妻と違い、国王夫妻は睦まじかった。リーンハルトの傍らにあり、優しく微笑んでいるテレーザの顔をいまもアリステアは瞼の裏に浮かべることができる。
「お館様」
 きついグレンの声音に目を瞬く。軽く視線を向ければ険しい顔をした騎士がいた。
「お館様が自責の念に駆られることはない、と存じます。悪しきは風聞の主。それがどなたであるか、私などには見当もつきませぬが、責めを負うべきはその方にございましょう」
「グレン」
「は――」
「それは見当がついている、と白状したも同然だぞ?」
 ちらりとアリステアは笑って見せた。抗議の声を上げる騎士についにはからからと笑いだす。確かにグレンは疑っているだろう、公爵夫人を。だが確証がどこにもない。王妃に何を言ったのかもわからない。
「そう怒るな、グレン」
「怒ってはおりませぬ」
「わかったわかった。――グレン、ありがとう」
 少し気分が楽になった。そっと目許で笑うアリステアにグレンは瞬き、顔中を安堵と笑みにほころばせていた。その眼差しがわずかに曇る。
「グレン、言いたいことがあるのならば言え」
 アリステアが促したのは王城を囲む城壁を越えて後のこと。馬上で背筋を伸ばすアリステアの姿につい見惚れていたグレンだった。
「その――」
 それでもグレンは言いにくそうにしていた。城では他聞を憚る、と決して口にしそうもなかったグレンと察して城下まで待ったのだが。
「妃殿下は、あるいは御夫君を独り占めなさりたいのか、と思うこともございまして」
「うん?」
「陛下はお館様とご一緒なさることが多ございましょう。それが、あるいは御不満か、と」
「それは……ないだろう。ご成婚以前より従兄上は私をたいそう可愛がってくれていた」
 今更そのような思いは抱かないだろう、とアリステアは思う。そうしてある従兄弟同士を彼女は微笑んで見てきていたのだから。
「下世話なことを申しました。どうぞお忘れください」
「いや……。グレン、お前がそう感じたのならば、断じてない、とは言い切れぬのかもしれない」
「そのようなことは」
「お前の目を私は信じているよ。そちらの方も気にかけておいてくれ」
 心苦しそうに返答をする騎士にアリステアこそ詫びたい。そのような調べなど、騎士の恥でしかないだろうと。




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